やはり問わざるを得ない

今日は午後から出張です。が、午前は出張がありません。なので、朝イチからラン。と言いたいところですが、まずは立番。こないだメッチャ寒かったので、ウィンドブレーカーをポチりました。おかげで暖かい。
今日は雨なので、立番が終わったら速やかに体育館へ。

今日の走路は体育館の最外周です。なんでも1周が130mくらいとのことです。1時間目は5分のインターバルを4本の予定でしたが、時間の関係で5分のインターバルが3本+3分のインターバルを1本になりました。周回数は6周→7周→8周→3周で、合計24周走りました。どうしようかなと思ったけど、2時間目も走りましょう。2時間目は5分のインターバルを3本+2分のインターバルを1本になりました。周回数は7周→7周→8周→3周で、合計25周でした。2時間目の方が時間は短かったけど周回数は多かったってことです。たぶん身体が温まってたからでしょうね。
走り終わったら、筋肉がピンと張って、気持ちいい。

職員室に立ち寄ってレターケースを見たら、こんなのが入ってました。

やはりうれしい(^^)。
あとはさくっと事務作業をして、おべんと食べて、スタートです。今日の出張場所は山の上にあります。登り道が張った筋肉にこたえます。まぁいいでしょう。
そして会議。
今日は参加者が少ないですね。いろいろ用事が重なってるらしいです。が、優先順位の問題かな。まぁそれぞれです。
会議はいつものようにつつがなく進んでいきます。が、ある学校から出された人権学習の資料に「ん?」と思いました。そこには「日本固有の人権問題である部落差別」と書いてありました。思わずなぜ「部落差別」に「日本固有の人権問題である」をつけたのか質問しました。すると、なにかの本で読んだときに「そうだ」と思ったからつけたとのこと。なんでも「南アフリカ固有の人権問題」ときたら「アパルトヘイト」なので、それと同じなんだとか。
んー、それでいいのか?わたしには、差別の問題に価値づけ、あるいは優先順位をつけてるように思えます。なので、思わず絡んでしまいました。すると、かなりカチンと来られたようで、ケンカになりました(笑)。他の人がいろいろ間に入ってくれたので、まぁその場は収まりました。
帰り道、なぜ、わたしがカチンときたのか、振り返ってみました。
おそらくさんざん価値づけとか優先順位とかをつけられた経験があるからでしょうね。
例えば、1997年だったかの日教組教研の人権教育の部会でゲイの友だちとの出会いをレポートした時に、世話人の人から「なんでお前はゲイなんていうアメリカの人権問題をやってるんだ。日本にはちゃんとした部落問題という課題がある」と言われたこと。あるいは、ある会合で「いつきさんの話をして」と言われてたけど、ある戦争が勃発してそちらに話題がいったこと。さらには、あるお座敷のあいさつで「部落問題をはじめとするほにゃらら」って言われたこと。そりゃもう数え切れないくらい「二の次三の次」にされてきた経験があります。だからこそ、わたしは優先順位をつけたくない。他の人権課題の当事者にわたしのような思いはさせたくないと思っています。だから「カチン」ときた。
もうひとつは「日本固有の」という発想です。論議の中で「ケガレ」をとりあげて、「日本固有の」という説明をした人がいました。ただ、それは「差別の理由」に着目するからで、「排除」という構造に着目したら、特に「日本固有の」とはならない。だから、IMADRという形でつながれる。
今回の話とは違う文脈ですが、部落差別の特殊性をとりあげる人がおられます。そりゃ特殊です。というか、それぞれの人権課題の「理由」は、個々違うので、それぞれが特殊です。例えばトランスジェンダーの置かれた状況なんて、「あるジェンダーアイデンティティを持つ人が権利を奪われてる」という、メッチャ特殊な理由です。そして、アイデンティティが原因であるなら、その人の存在そのものを否定するわけで、もう、ダメダメです。そういう特殊性がある。ただ、その特殊性を取り上げたときに、そこに軽重や優先順位がどうしても付随してしまう。もちろん、本人にその気がなくても、「特殊性」という言葉を選択した時点で、そう相手に受け取られてしまう。だからこそ、言葉にはセンシティヴでありたい。
そして、そのような隘路にはまらないためには「理由」ではなく「構造」で捉える。そうしたときに「日本固有の」という言葉は成立しなくなる。そして、そう捉えたときこそ、ある課題の解放が他の課題の解放とつながる。だから「日本固有の人権問題である」という冠はわたしは使わないし、例えば「部落差別をなくすための学習」とも言わずに、単に「差別をなくすための学習」と言う。
それが今わたしが考え実践していることなんですね。
まぁ、でも、こんなことをここで一生懸命書いても、誰も読んでないしな(笑)。てか、だから書けたりする(笑)。
そんなことを考えながら、京都駅まで移動です。少し時間をつぶそうかと入ったアバンティのブックセンターでショックを受けました。年明けに閉店ですか。まぁそりゃそうか。
そんなこんなで向かったのは、とあるホテルです。今日は京都府南部の生徒指導部の教員の合同宴会があります。その数、約100人です。おかしいです。まぁでも参加してもええかと。
会場に入ると、知り合いはほとんどが支店長と副支店長です。なので、会話は当然「同和教育の継承」です。ちなみに継承のためには人事がマストです。なので副支店長には
「この最初の一文字がとれたら、本気でやってや」
と言っておきました。ホンマに知らんよ。
宴会の方は、安いだけあって、あまり食事が出てきません。まぁでも、全同教以来食べすぎが続いているので、ちょうどいいです。ワインも3杯だけに抑えて、宴会終了。さてと、おとなしく帰って、シャワーでも浴びますか。

やはり問わざるを得ない” に2件のコメントがあります

  1. 誰も読んでいないことはありません!笑
    読んでいます。人権問題の優先順位をビシビシと叩き込まれてきました。なんで?と疑問をもつことなく、そういうものだと思い込まされて?きたなと思います。自分のしんどさはさておきみたいな違和感、そのことで周りが人権問題を考えることがしんどくなる空気感、、、
    そうだ!そうだ!とうなづきながら読んでいます、  

    1. コメント、ありがとうございます!いや、サイトのビュー数を見ると、50人も見て下さっていないみたいなので、まぁそんなもんかなと思っています。
      自分にとっての切実な課題というのを持っている人にとって、優先順位の下位にされると、なかなか削られるものがありますね。まぁただ、セクシュアリティが人権課題であるという共通理解がされるようになって、まだ50年もたっていない気がします。日本においては25年くらい?
      そう言えば、かつて「ある課題が人権であると認識されるためには、その課題が人権課題であると認められなければならない」という、トートロジーとも言うべき、わけのわからんことを考えていたことがあります。

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