今日は「なにもない」日です。てことは、仕事ができます。てことで、ゆるゆる出勤。パソコンに火を入れて、仕事開始です。
今やっているのは、来年度の人権学習の教材づくりです。今年度の担当者の総括の中で、「来年度は年度当初にすべての中身を渡そう」なんて言ってしまったので、今やらなきゃ間にあいません。
それにしても、テーマを見て教材を見たらなにをどうするかわかるだろうと思うんだけど、それに「展開例」をくっつけて、「導入◯分」とか「留意事項◯◯」とかいう表がなぜ必要なのかと。さらにいうなら「実施要項」とやらが必要みたいなんだけど、なぜにそんなものが必要なのかと。単なる授業じゃんと思うのですが、ひとつのことをやるには、とてつもなくその前に「形式」が必要らしいです。てことで、そんな書類の前でイライラしながら作文していました。
で、ヒョイとホワイトボードを見ると、特定の担任さんの前に赤丸が書いてあるのを発見。どうやら女性教員の印のようです。24人中5人。めっちゃジェンダーバランスが悪い。と思いながら、ふと
「わたしの前にはこの印はつくんだろうか」
と思ったので、そこにいた同僚に聞いてみると…。
「さぁ…」
って、あんたがその印をつけたんちゃうん(笑)。
「どちらかというと…、女…、かな」
まぁそんなもんでしょう。「どちらかというと」なので、「女の印」はつかないみたいです。
「じゃぁ、男ですか?」
というと、別の教員が
「それもちがいますね…。どっちでも…ないんじゃないですか…?」
と、遠慮がちにおっしゃいます。まぁ、わかっていましたけどね。
「でも、わたし、子どもが成人してパートナーと離婚したら性別を変えられるんですよ。で、性別変えたら印はつくんですかねぇ」
と聞くと、
「さぁ…」
という返事。
とてもとてもおもしろいです。
「じゃぁ、性別ってなんなんですかねぇ。なにによって決まるんですかねぇ」
みなさん、無言です。とてもとてもおもしろいです。
「もしかしたら、この職場の男性の数ってチンコの本数で決まってるんですかねぇ」
とぶっ込むと笑われたので、さらに
「もしかしたら、チンコ2本ある人、いるかもよ」
って笑って返事すると
「いや、わかりませんよ。いるかも」
と返されたので、フリーダムな職場だなと。
てことで、「どちらでもない性」ならしいです。
そんな時に思い出すのが、やはりパトリック・カリフィアですね。
しかしわたしは、この<大いなるジェンダー分割線>にとどまり、苦くはあるが貴重な何かを見続ける。この眺めは、危険なほどの高みからではあるが、心躍る愉快なものだ。
「どちらでもない」ことを突きつけられた時の「苦さ」は、たとえそれが自分が選択したものの結果であるとしても、やはり「苦い」のです。でも、一方、それを引き受けるという生き方を選びました。なぜなら、そこからしか「次」がないと思っているからです。少なくとも、今日、「性とは何か」というもやっとボールは投げられた。それが、文科省の言っていることに対してできる、ひとつのことだと思っています。