今日は昼前に、うちのガッコでは初の試み「リビングライブラリ」がありました。
リビングライブラリを終えて、あらためて「リビングライブラリってなんだろう」ってことを何度も何度も考えました。かつて「本」をやった立場とはまた違う「司書」の立場から考えることはたくさんありました。
そのきっかけは、ある教員のひとことでした。
「あの人は苦労をしていない」
この言葉への強烈な違和感が、自分の中にずっとあります。その違和感を言葉にするのにものすごく時間がかかります。でも、あえてひとことで言うなら
「被差別の立場にあるものは苦労しなくちゃならないのか」「被差別の立場にあるものが語れるのは苦労だけなのか」
でした。
今回「本」になってくださった一人ひとりは、たぶんそんなに大きな被差別体験はもっていません。でも、小さな被差別体験は持っている。そこに敏感であることが大切なんだと思うのです。「生きるか死ぬか」「ヤクザかカタギか」という波乱万丈もいいです。でも、そんなのばっかり聞いていたら、鈍感になります。被差別体験のインフレーションを起こしてしまいます。
ではなく、日常の中にこっそりとたたずんでいる差別に出会う感覚。やり過ごすことも可能だけど、やり過ごせない心の痛み。そんなところにある「小さな」差別にこそ着目したい。
そして、もうひとつ。
それは「可視化」なんだろうなって思ったんです。
遠くにある被差別者が遠くでしゃべるんじゃなくて、隣にいる人がふとつぶやく。それを聞く。「この人にもこんなストーリーがあったんだ」ってことに気づく。
たぶん、最初にあげたひとことを言った教員はステレオタイプ化された「語り」を期待していた。でも、それはなかった。だから「イマイチだった」んじゃないかと思います。
では、わたしはどんな聞き方をするのか。
わたしは基本的に、何も期待していない。ただ、聞く。そしてその人の語りから考える。そして見つける。
この人は何に引っかかっているんだろう。その引っかかりにどうやって気づいたんだろう。いま、その引っかかりとどう向き合っているんだろう。なにかアクションを起こしてるのか。起こしてないのか。起こすならなぜ?起こさないならなぜ?
学ぶことは山のようにあります。それを学ぼうと思うなら、あらかじめの「期待」は邪魔です。もしもあるなら「何が起こるだろう」という期待だけです。
そういう聞き方をしている。
リビングライブラリって、たぶん、そういう聞き方をするものなんだろうなって思いました。
これは、例えば、生徒の相談に乗るときの姿勢と共通しているかもしれません。
ある生徒が相談に来る。
たぶん、多くの教員は「その生徒が知らないことを言ってアドバイスする」んじゃないかと思います。でも、わたしは、「その生徒の中にある答えをその生徒自身が見つける手伝いをする」ものじゃないかと思っています。本人は「それ」が答えとは思っていない。だから、わたしは聞く。その子から言葉を引き出す。そして、「そうだったんだ!」って、わたしが気づく。その気づいたわたしの姿を通して、その子は「これだったんだ」って気づく。
このことは、リビングライブラリが「本」にとっても大切な場であることを示唆しています。「聴く人」に向けて「語る」。「語ること」を通して整理する。そして、「聴く人」を通して気づく。そういう相互作用の場であるということです。
リビングライブラリという場にかかわるもの。それは「本」であれ「読者」であれ。そこに必要なのは、おそらくは「誰からも学びうる」という姿勢なんじゃないかなぁ。