仕事を終えて…。というか、仕事を最後人にまかせて、とりあえず職場をあとにします。今日は久々のセンセとサシのおべんきょです。
でも、わたしのおべんきょ計画の話はあっというまにおしまい。あとは延々と「部落をどう伝えるのか」についての話が続きます。
端的に言うならば「部落ってなんだろう」っていう、今さらではあるけど、今も続く問いについて考える時間です。
ここで、どうもセンセとわたしの間にあるビミョーなすれ違いが明らかになります。まぁ、センセは部落問題のプロパーだし、わたしはしょせんはそんなプロパーの人たちから聞いた話で考えた人間なので、まぁレベルが違います。でも、そんなところで「まいりました」とかいうのもおもしろくないので、果敢に攻めるわけです。
センセは、わたしよりほんの少し上の世代です。でも、その少しの時期が問題で、大学時代を80年代に過ごしたか70年代に過ごしたかは、時間的には少しの違いだけど、社会的には大きな違いのようです。やはりセンセは、「マルクス主義的発想」でものを考えられます。に対してわたしは…。「マルクスを読んでない世代」というか、「マルクスを読むのをサボった人」なんで、そりゃズレますわ(笑)。
ただ、マルクス主義の影響をさほど受けなかったことは、それはそれで意味があるかなと。そこへもってきて、いわゆる同和対策の各種法律がどんどん切れていく過程を、見つめることしかしなかったけど、そこからなにをしていくのかを考えなきゃならない立場なわけで、そこから考える「こと」もあるわけです。
昨日のズレにひきよせるなら。
センセは、「部落であるメルクマールはなんだ」ということを考えられる。に対して、わたしは「メルクマールなんてあとづけじゃん」みたいな発想になるわけです。
「かつては川の向こうとこっちというメルクマールがあった。でも今はそういうものがない、あるいは希薄になっている」
「でも、その「川の向こうとこっち」というメルクマールは絶対的に存在していたわけじゃなくて、非被差別の側が恣意的につくったもので、根拠はないじゃないですか。だから、もとから希薄なものなんですよ。で、それを互いにつくりだしあい、維持しあう関係がある。メルクマールって、そういうもんじゃないんですか?」
みたいな。
たぶん、わたしは「かつての部落」をさほど知りません。なので、「絶対的な差がある」とは感じない。逆に「かつて絶対的な差」とされていたものも「川の向こうとこっちとで共同作業で維持されていたもの」と考えてしまう。
もちろん、これは個々の事例や個人の経験の語りには、表面上はあらわれてこないかもしれない。でも、たぶんそういう構造になっている。で、その「川」はあくまでも象徴であって、「川」は両者の「(表面上はあらわれてこない)ネゴシエーション」によって、その位置を変える。
そんな感覚があるんですよね。
つまり、「絶対的なメルクマールはない」あるいは「メルクマールはネゴシエーションの結果あらわれるもの」みたいな。
で、お互いに「ズレ」を残したビミョーな感覚を感じながら、おべんきょの時間は終わるわけです(笑)。