夜はカフェ玖伊屋。今日のメニューはなんにしよう…。
まぁ、春だから「葉のもの」ですね。
まずは、春キャベツのクリームパスタ。あとは、春だけに生春巻き。それと、鶏肉の具たくさん味噌汁にひっかり粉を入れたパチもんのひっかり雑炊。あとは、切り干しサラダ。
この切り干しサラダ、かんたんにつくれるけど、すごくおいしいです。
切り干し大根にシーチキンをあえて、あとはレモン汁、塩、こしょう、さとう、おろししょうが、マヨネーズ、ごま油で味を整えます。もちろんこのままたべてもおいしいし、生春巻きの具にしてもいけます。
夜更けには、残ったパスタをニンニク、シーチキン、プッコチで味つけしたものをつくった人がいたらしい。これもなかなかのお味です。
まぁ、そんなもんを食べながらヘラヘラしゃべっているうちに眠くなってきて、台所のろうかに布団を敷いてもぐり込んだところで落ちました。
年: 2012年
片づけ
ふと目が覚めると、まだ7時過ぎ。ねむいなとは思ったけど、ここはひとふんばりして部屋のかたづけをしましょうか。
片づけって、はじめのうちはガンガン捨てればいいから楽なんやけど、ある一定のところを過ぎると、捨てていいものやらあかんものやらわからなくなってきます。で、ひとつひとつ確認して、分類して、しかるべきところへ入れていく。ここでスピードががくんと落ちます。で、このあたりでイヤになってくるんですよね。
でもまぁ、ごみ袋ひとつぶんくらい捨てたからええか。
まぁこんなもんか…
電車通勤も2週間が過ぎました。たしかに朝はしんどいけど、それ以外はなかなかいい感じです。なんといっても、駅から歩いたり自転車に乗ったりするので、心なしかお腹も締まった気がします。たぶん気のせいだけど(笑)
で、もうひとつのメリットは、飲み会があっても急いで帰る必要がないということ。
今日は職場の宴会でしたが、ふつうに電車に乗って、ふつうに行きました。楽やわ~。
宴会は…。
まぁ、あんなもんでしょう。ビールは○ーパー○ライやし(;_;)
そういう意味では2次会のほうがおもしろかったな…。
教育哲学は理論と実践の二項対立ではないらしい
話を聞いていて、なかなかおもしろかったんだけど、考えようによっては「臨床の現場*1」の人って、そう考えるのがあたりまえなんじゃないかなぁと。
例えば、引用文献のなかに
「学校のなかで逸脱行動が見られたとき、それは治療の対象とみなされることが多いように思われる」
みたいな文章が出てきて、思わず
「んー」
ってなりました。
そりゃ、そういう人もいるけど、例えば「非行は宝」という有名な言葉がありますが、まさに「逸脱行動」を「治療の対象」とみなさず、逆にその「行動」を通して、「教育とはなにか」「学校とはなにか」「教えるとはなにか」「教員とはなにか」「生徒とはなにか」ということを問い、それらをつくりかえていく営みは「常に既に*2」あるわけです。
で、たぶんこれって、「教育という臨床の現場」だけではなく、どこにでもある。そんななかで、例えば「SOC7」だって出てきたんじゃないかなということで、この話に行き着くわけです(笑)。
「かかる」か…
「病気にかかる」っていうのは、たぶん「健康な状態」がもともとあって、「病気な状態」になることで、それは治療の対象になるわけなんでしょうね。
で、たぶんGIDって、生まれながらのものっていうことなんでしょうね、たぶん。まぁ、「かかる」場合とか「悪化」する場合もあるような気がしないわけてもありませんが。
で、「その人としての健康な状態」は生まれながらに実現されていなくて、それが「治療の対象」になると。つまり、「生まれながらの治療の対象」ってわけか。まぁ、「健康な状態」はいまだ実現されていないわけですから、なにが健康かわからないけど、「いまだ見ぬ健康な状態」を目指して「治療」するってわけですね。
なんか、それってイヤだな。
まぁ、あたしゃトランスだから関係ないか。どっちかっていうと変態やしな。変態なら「治療」なんて蹴飛ばせる。
「生まれながらの変態」。かっこいいな。そっちがいい。
異変
なんか今年は変。一年生の最初の授業でもざわめきはなかったし、いまだに「クスクス」ってやる子がほとんどいない。なんでだろう…。可能性としては
1、完パス
2、完バレ
3、単に変なやつと思ってる
4、特に関心なし
5、すでに知られてる
ん~。まぁ、2か3やろな(笑)
と思ってたら、放課後一年生から呼びとめられました。
「先生と話したいと思ってたんですよ!
」
「なんで?」
「先生、性同一性障害っていう病気にかかってはるんでしょ?」
「かかるて(笑)」
さらに他の生徒に向かって
「テレビにも出てはるんやで」
「すごー」
いや、すごくはないんだが…。
てか、GIDって、かかるもんやったんや(笑)
てことで、どうやら答えは2と3と5みたいです。
花粉がきつい
スギ花粉が終息したと思ったら、ヒノキ花粉の最盛期。
かつて血液検査のついでに花粉症の抗体検査をしてもらったら、スギ・ヒノキともに数値が振り切れてたし、そりゃきついわけですよ。
まずはコンタクトが入れられない。てことはメガネ。で、マスクが必要。となると、マスクからでる呼気でメガネが曇る。
朝、出掛けにマスクを忘れたら最低です。一時間ちょい、いつくしゃみの嵐がやってくるか、ドキドキもんです。
一度くしゃみの嵐がやってきたら、もうダメですね。
せっかくの気持ちいい「春うらら」の季節がなぁ…。
ヒノキ花粉の終息はいつだ?
今日の夜は、なぜか大阪で会議。
でも、サクサクっと終わってしまいました。わたしともう一人の方はここで仕事は終了。でも、まだ会議が続く人がおられるので、近所で待ちます。
が、なかなか来ない。まずいよ。ふたりでボトルをあけちゃうよ。
てな感じで待っていると、ようやく本隊到着。
あとはワイワイ飲んでいるうちに、見事に終電の時間です。あやうく飛び乗って、即爆睡。ふと目が覚めると
「次は山科〜」
とか言ってるよ!あやうく飛び降りて、無事お家に帰れました。
久しぶりにセーフやんか。
家に帰ったらほめられたんやけど、なんか違う気もする…。
語っちまった
なんか、最近イヤなことが起こりつつあります。そんな気持ちがわき起こってきて、つい教室で語ってしまいました。
わたしは大きな声で言えば勝ちという社会は嫌いです。
それはどうしてか。
わたしは人権教育を担当しています。
人権とはなにか。それは少数者が生きられることだと思います。では少数者とは誰か。それは、人数が少ないという意味だけではなく、パワー、すなわち権力を持たない人のこともさします。
それは例えば部落の人であったり、在日外国人であったり、子どもであったり、障害者であったり、女性であったりします。
こうした人たちは、少数であるがゆえに、あるいは権力を持たないがゆえに大きな声を出せません。
もしも大きな声がまかり通る世の中であれば、少数者の小さな声は無視をされてしまいます。
だから、大きな声がまかり通る社会ではなく、小さな声に耳を傾ける社会でなければならないと思っています。まぁいいか。授業をはじめましょう。
「正しいこと」を主張する人は、自らを正しいと思っているがゆえに躊躇がなく、大きな声で主張することが多いように思います。そして、そこに同時に他者への抑圧が潜んでいることに気づきにくい。なぜなら、自分は正しいことがわかっているから。
それならわたしは躊躇しながら、自信なく、小さな声でつぶやく生き方を選びたいと思います。
楽しい!
今日は、ある意味、はじめての「講義」。先週は、まぁガイダンスって感じでしたから。
今日の講義は10人くらいの、まぁいってみれば読書会です。
読書会なんて、30年ぶりくらいですよ。
誰かが一段落を読んで、そこで疑問や感想を述べる。今のところは、それにたいして教員がコメントを入れてる感じだけど、相互に考えを述べあうようになったら楽しいだろうな。
でも、いまも充分に楽しい。自分の疑問に直接答えるわけではなく、著者の思想や時代背景の紹介を通して、自分で自分の問いへの答えを探す感じ。
うん、こんな授業、自分もしたいな。きっと、どんな子らが相手でもできるはず。いや、うちの子らだからこそ、これをしなくちゃならないんだろうな。