教育哲学は理論と実践の二項対立ではないらしい

話を聞いていて、なかなかおもしろかったんだけど、考えようによっては「臨床の現場*1」の人って、そう考えるのがあたりまえなんじゃないかなぁと。
例えば、引用文献のなかに
「学校のなかで逸脱行動が見られたとき、それは治療の対象とみなされることが多いように思われる」
みたいな文章が出てきて、思わず
「んー」
ってなりました。
そりゃ、そういう人もいるけど、例えば「非行は宝」という有名な言葉がありますが、まさに「逸脱行動」を「治療の対象」とみなさず、逆にその「行動」を通して、「教育とはなにか」「学校とはなにか」「教えるとはなにか」「教員とはなにか」「生徒とはなにか」ということを問い、それらをつくりかえていく営みは「常に既に*2」あるわけです。
で、たぶんこれって、「教育という臨床の現場」だけではなく、どこにでもある。そんななかで、例えば「SOC7」だって出てきたんじゃないかなということで、この話に行き着くわけです(笑)。

*1:学校についてもこうとらえている人はたくさんいる

*2:(笑)

「かかる」か…

「病気にかかる」っていうのは、たぶん「健康な状態」がもともとあって、「病気な状態」になることで、それは治療の対象になるわけなんでしょうね。
で、たぶんGIDって、生まれながらのものっていうことなんでしょうね、たぶん。まぁ、「かかる」場合とか「悪化」する場合もあるような気がしないわけてもありませんが。
で、「その人としての健康な状態」は生まれながらに実現されていなくて、それが「治療の対象」になると。つまり、「生まれながらの治療の対象」ってわけか。まぁ、「健康な状態」はいまだ実現されていないわけですから、なにが健康かわからないけど、「いまだ見ぬ健康な状態」を目指して「治療」するってわけですね。
なんか、それってイヤだな。
まぁ、あたしゃトランスだから関係ないか。どっちかっていうと変態やしな。変態なら「治療」なんて蹴飛ばせる。
「生まれながらの変態」。かっこいいな。そっちがいい。

異変

なんか今年は変。一年生の最初の授業でもざわめきはなかったし、いまだに「クスクス」ってやる子がほとんどいない。なんでだろう…。可能性としては
1、完パス
2、完バレ
3、単に変なやつと思ってる
4、特に関心なし
5、すでに知られてる
ん~。まぁ、2か3やろな(笑)

と思ってたら、放課後一年生から呼びとめられました。
「先生と話したいと思ってたんですよ!

「なんで?」
「先生、性同一性障害っていう病気にかかってはるんでしょ?」
「かかるて(笑)」
さらに他の生徒に向かって
「テレビにも出てはるんやで」
「すごー」
いや、すごくはないんだが…。
てか、GIDって、かかるもんやったんや(笑)
てことで、どうやら答えは2と3と5みたいです。