帰りに東九条に行ってKOコンビをピックアップ。ふたりともベッドで爆睡してました。そりゃぁ、昨日一晩がんばって、昼にビール飲んだら寝ますよ。
ふたりを車に乗っけて、よもやま話をしながら送ります。
K淵さんとは
「近所で飲もうか」
とか言っていたけど、どう考えてもその選択はアホです。てことで、今日はおとなしく終了。
あー、やっとおふろ。やっとビール。
疲れた…。
でも、充実してたかなぁ。
年: 2012年
自分たちに返す
朝、とりあえず朝ごはんのためのごはん炊きからスタートです。ちなみに一升とかになると、炊飯器だと「どんだけ時間かかるねん!」状態なんで、なべ炊きです。はるかに早くておいしく炊けます。
満足いく炊きあがりを確認して、軽く朝ごはんをいただいて、ふたたび決戦会場へ。
でも、わたしは建物の外で読書です*1。この本を図書室で借りたその夜に「訃報」が入ったんだよなぁ…。
午後までダラダラして、予選発表。予想通り全滅。まぁ、あれで予選通過したら、他の人に悪いわな。
それでもヤツらは決勝は見に行きました。よしよし。と思いきや、閉会式会場から出てきやがる。それはちゃうやろ!思わず
「勝手にせい!」
と怒ってしまいましたよ。
勝者の喜びを見て、自分の至らなさを自覚した時、次のステップがはじまるはずなんだと思います。それがわからんかなぁ。
とりあえず気づいた子が
「入ろう」
と、みんなを会場に誘っていきました。まぁ、逃げないだけ見込みがあるか…。
閉会式後、恒例の総括をしようかと思ったけど、ヤンペ。
「総括は自分たちでやれ」
と返しました。
さて、ここからヤツらはなにを学ぶのかな。ここからしかつぎの一歩はない。たぶんね…。
で、夜は交流会
これまた例年のように、夜は夏へ向けた代表者合宿です。
わたしは決戦一日目が終わってからの参加。で、例年のように裏方担当です。まぁ、「地」がわかっている人間はわたししかいないので、必然的に裏方はわたしです。
子どもたちが話し込んでいる間に買い出しをして、メニューごとに仕分けして。いきいきとごはんをつくってる子どもたちの姿を見ていると、こちらもうれしくなってきます。で、思わずビールをぷしゅ。
ちょいと人員が足りないところを手伝ったりしているうちに、とりあえずご飯づくり終了。
本日のメニューは「アドボ」「パ・パ・ア・ラ・ワンカイーナ*1」「ソーセージロール」「水餃子」です。「チヂミ」とか「チャプチェ」とか「ナムル」とかが今回はありません。なんか、今の時代を象徴している気がします。
ご飯を食べていると、京都スタッフ*2登場です。この三人が来てくれると、後がずいぶん楽になります。助かるわぁ…。
なんか、夜食をつくったり片づけをしたりしているうちに眠くなってきて、気がついたら廊下に布団を敷かれてしまって、わたしはダウン(笑)。
てか、ダウンしていいのか?
今年は決戦に思えない…
今日〜明日、毎年恒例の行事があります。んー、なんか気分がすぐれない。まぁ、はじまる前から結果がわかっているからかな。
もしかしたら、もっともっと介入しないといけないんだろうな。よそのセンセたちは、きっともっと介入して、がんばってはるんやろな。でも、そうする気になれません。てか、それが正しいことなのか。
勝った喜びも負けた悔しさもヤツらのものにするためには、わたしの介入は極力減らす必要があるし、介入したとしてもそれが介入と気づかないものにしなくちゃならない。でも、これって難しすぎることなのかなぁ。
てなことを考えていたけど、団体戦はまったくの×。てか、ひどすぎる。介入以前の問題でした。
「安堵」かぁ…
踏み込め!
最近、電車通勤に変えたおかげで、すっかりバイクに乗らなくなって、かわりに短時間ではあるけど自転車に乗るようになりました。
うちから最寄りの駅まではゆるい下り。行きは急ぐから本当に助かります。
で、帰りは…。疲れてはいるけど、ここをがんばって走ってみます。
頭の中には
「ペダルをクルクルまわすな。踏み込んで負荷を感じろ!負荷を感じなくなったら、負荷を感じられるところまでさらに踏み込め!」
という声がこだましています。
ヤバイかもな。
こんな世界があったよなぁ
夜はおべんきょ仲間や、その先輩たちの呑み
会。
わたしにとって、懐かしくもあり、はじめてでもある場所です。
なんか「あぁ、こんな世界があった」と、ふと思ってしまいました。
なんだろ…。
食べ物は、焼きそば三玉入りとか、山盛りのフライドポテトでいい。減ってるお腹が満たされればいい。「これ、おいしい」なんて話はいらない。パーティートークもいらない。何よりのごちそうは「真剣な対話」。
でも、あまりにも楽しみ過ぎたかもしれないな^^;。
驚きからのはじまり
今日のおべんきょは、結論から言ってしまうと、「驚き→疑問(問い)→哲学(学び)」という流れをどうつくるかみたいな。特に、「問い→学び」のところに断絶がある。
もちろん、ノウハウの伝達の場ではないので、それをどうするかについてはここにまかされるんですが、ひとつの提言は「what」ではなく「how」で問うてみたら?ってことでした。その真意は、「what」は「答え」を要求するけど、「how」はそうではないということでした。
んー。
日常の仕事にひきつけて考えると、たぶんそういうことを試行錯誤しながらもやってはいるつもり。でも、なかなかできていない。
子どもたちは、「問い」を欲しているのではなく「答え」を欲している。あるいは、「学び」とは「how」ではなく「how to」であると思っている。
わかりやすさから、少しずつ「わかりにくさ」に移行させていくことも大切なのかもしれない。もちろん、意図的に。
はずかしい^^;
夜、家族で「世界○天」を見ていました。で、突然出てきた「夫の真の姿は」みたいやつ。
もうね。来ちゃいましたよ。
「これな、たぶん相手がFTMな」
とか、とりあえず予想。
話が進むにつれて、どんどんかゆくなります。妻が夫のパソコンを起動しようとした時パスワードがかかっているシーンでは、パートナーに
「あんたのパソコンのパスワードは?」
って聞かれるし。んなもん、教えられるかい(笑)。
パソコンをとりあげられた時の夫のヤル気のない顔を見て、パートナーは
「あんな顔、あったわー」
と笑うし。知るかいな^^;。
で、いよいよ番組は佳境に入ります。夫のカミングアウト。そうですか、途中からわたりはじめましたが、MTFですか。もう、わたしはかゆさで転げまわっていました。
当然のことながら、妻は受け入れないわけで。そして、感動のシーンがきます。
「1年のち、いつもと変わらずコーヒーを淹れてくれる夫の姿を見た時、姿は変わったけれど、なにも変わりがないと思った妻は受け入れようと決心した」
みたいな。
ほんとにもう、どこかで聞いたフレーズだよ!
マジ、まいった^^;。
ある訃報にふれて
昨日の夜、大切な友だちから一本のメールが入っていたみたいです。それを読んだのは朝。「○○さんが亡くなった」とだけ書いてありました。はじめ誰かわからなかったのですが、フルネームを知って、ようやく誰なのかわかりました。おそらくわからなくて当たり前なほど、あまりにも若すぎる死でした。
その訃報を抱えたまま、通勤電車に揺られながら、職場への坂道を登りながら、いろんなことを考えました。
それにしても、なぜいま自分は生きているんでしょうねぇ。考えてみると、不思議です。今の世界を見渡すと、死なずにいる自信がない。ほんとうに、ごく身近に感じます。でも、わたしは生きている。なんでやろ…。
ふと思いました。
たぶん、わたしの場合は、仕事してるからだな。仕事が充実しているとか、そんなことではありません。仕事をしていることそのものです。だから、思索が中断される。それはわたしの場合は仕事だけど、なんでもいい。思索が中断された時、思索をしている時近くにあった死から、ふと遠ざかる。
逆に言うと、たとえ仕事をしていても、思索を中断しない力のがわたしにあったら、案外死は近くにあるのかもしれない。