「誰かのせい」史観

なんか、最近「悪者探し」みたいなのが横行しているなぁと。あ、最近でもないですね。かなり前からですよね。
そんなことを考えながら出勤していたのですが…。
そういえば、生徒たちと人権について話をしていると
「結局誰が悪いねん」
「政府が悪いんか?」
「政治を変えたらええんや」
「大人が悪い」
といった意見が出てくることがよくあります。そのたびに
「う〜ん、そういうわけではないんだけどね…」
と言うのですが、なかなかわかりにくいみたい。
でも、考えてみたら、わたしたちもかつて
江戸幕府は厳しい身分制度をつくり、その最底辺に被差別身分を置いた」
みたいな話をしてきたので、「誰かのせい」にしていたなぁと。いや、部落差別だけじゃなくて、なんとなく歴史を「原因と結果」みたいなとらえ方をしてきた気もします。でも、こういう「因果関係」だけでとらえてしまうと、結果には原因があって、「悪者がいる」というふうになってしまう。でも、たぶんそんな簡単なものではないんでしょうね。で、言われるわけです。
「わかりにくい!」
「もっとわかりやすく!」
でも、わかりにくいものはわかりにくいものなんです。それをわかりやすく説明した時、どこかに「ズレ*1が混じってしまう。それが、実はすごくこわいところ。
やっぱり、「わかりやすさ」を求めず、わかりにくいことをわかりにくいまま、それでもていねいに話をする以外、方法はないんだろうなぁ。

*1:というよりも「ウソ」

「誰かのせい」史観” に1件のコメントがあります

  1. ニーハオが最近考えている「地球温暖化はCO2が原因か」も似たように考えられます。因果関係があって、フィードバックがあり、さらに数値に不確実性がある。地球温暖化を防ぐにはCO2を減らせばいいだけではなさそうです。

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