今日は人権教育関係の研究会の総会です。午後からは川崎那恵さんの記念講演。タイトルは「ルーツと向きあい、広がった世界」です。
わたしは川崎さんとは川崎さんが大学時代に出会ったらしい^^;;です。その時は川崎さんはお座敷に来られたお客さんですから、よくわからなかったです。でも、ちょうどその頃が川崎さんにとっての大きな転換点だったんだろうなぁと思います。
その後、NHKの「ルーツを見つめる写真展」で川崎さんの映像を見て「え〜、こんな人がいるんやぁ!」と思いました。純粋に「おもしろい!」と思いました。
それまでにわたしが出会ってきた部落の人は、基本的には部落解放運動をやっている人が多くて、それがメインストリームであろうがそうでなかろうが、ある程度のパターンというか、類型の中にはまっていると、とりあえず言ってしまえるんじゃないかなぁと思います。ところが、川崎さんはそういう類型の中にはいない。というか、その類型から常にズレ続けている感じがします。おそらくご本人はそんなことは意識はしていないでしょうけどね。
「現在の部落問題」をどう考えるかという問いに対して、おそらくはさまざまな答があると思います。例えば、「人の流入出」というのは、明かな現在の部落問題のありようだと思っています。あるいは「土地問題」というのもそうです。ただ、「個人としての」となるとどうか。もちろん結婚差別の事例がなくなったわけではないですけど、それとてもかつての姿とは大きく変わっているとは思います。
そんな時、個人として部落をどう感じるのか。
それは、おそらくは「なんとなく言えないことがある」ということなんじゃないかと、ずっと思っていました。真綿で押しつぶされるような「言えない感」。友だちの言動を見た時「あ、やっぱり言えない」と思う感覚。それは、誰に強制されるわけでもなく、自分で勝手に思うわけなんですが、でも、そこに「現在の部落問題」というのがあると、わたしはずっと思ってきました。そして、そういう自分と折りあいをつけ、誰かに話をした時に受けとめられる。そこに「カムアウト」がある。
もちろんこれは部落問題に限ったことではありません。だからこそ、部落問題を「みんなが語ること」ができる時代になったんじゃないかなぁとも思うわけです。
川崎さんの話は、そういうわたしの感覚とピッタリとあっていました。
川崎さんが話す「わたしにとっての部落解放」は、次のように書かれています。
- 自分のルーツを知る機会がある。そして、そのルーツを卑下しなくてもよいのだと思える。
- 部落問題を語ることやカミングアウトをまわりから非難されない。
- 「親」「世間」を乗り越えて、自分の生き方を選択できる。
- 差別があっても、人と人とのつながりの中でハッピーに生きられる。
なにがおもしろいかというと、「わたしにとっての」なんですよね。「我々」ではない。そこがまさに、内田さんの語りと一致しているわけです。
うん、かなりおもしろかった!