呑んだくれ達の夜・その7

三橋さんと濃いぃ話をした後は、ふたたび人権セミナーの会場にもどって懇親会です。ここの懇親会は、1次会はノンアルコールなんです。まぁ、わたしはすでにちょびっと呑んでるからいいですけどね。
たくさんの人が三橋さんのところに「サイン」と言いながら行かれます。一人一人にていねいにサインをされる姿を見ながら、わたしはわたしで「早くビールの時間にならないかなぁ」などと思っていたりして…。
やがて、1次会が終わってビールが解禁の時間。
あとは呑むだけです。10時頃には会場を追い出され、あとは会場の表(道ばた)で宴会が続きます。けっきょく、2時頃にお開きです。
あしたも早いんだけどなぁ…。

考察・御苑通りと関西の話

フィールドワークが終わってから水道橋へもどり、三橋さんと居酒屋で軽くビールを呑みながらよもやま話をします。
なかでも、強烈だったことがふたつありました。

  • 御苑通り

ひとつは「境界線の移動」の話です。
そもそも新宿がなぜ「つくられた街」になり得たかというと、4丁目と2丁目の歴史に起因するように思いました。
4丁目はもともとは天竜寺の寺社町として発展しますが、その後「木賃宿」の指定地として貧民窟へと変化していきます。また、2丁目はもともとは赤線地帯です。こうした街は、ともに行政による強制的な介入がしやすい街になります。
で、御苑通りですが、これはもともとの2丁目の中に後からつくられた通りです。この道ができたために、本来末広亭のあたりにあった2丁目の境界が御苑通りに移動してしまったようです。
では、なぜ新たに境界を引き直したのか。
そこに、なんとなく「2丁目を分断しようとする意図」を感じてしまったのですが…。実は、三橋さんがつくられたコース図には商業ビルを色わけがしてあります。これが御苑通りを境目にしてはっきりと密度が違います。「土地価格に差はありそうですか?」という質問をしてみたのですが、「はっきりとはわからないけど、おそらくは違うだろう」という答えでした。
それ以上の結論があるかというと、実はないのですが、新宿駅から続く3丁目の雰囲気と御苑通りの向こう側のそれとは、単にゲイタウンであるというだけではない、「違い」を感じてしまいます。あたかも御苑通りの「向こう側」へと「性の街」を追いやったかのような気がしたのですが…

  • 関西の話

もうひとつ驚いたのは、男娼の組織化の時期の話でした。
三橋さんの言われるところによると、男娼の組織化は「明らかに関西の方が早い」ということです。組織化された場所は釜ヶ崎。当時は、美輪明宏さんもカルーセル麻紀さんも、釜ヶ崎の「元締め」のところにあいさつに行かなければ興業ができなかったとか。で、それを証拠づけるのが「記念撮影」とのことです。
たしかに記念撮影ができるということは、それだけのグループがあり、それが一定の秩序の元に動いていたということです。それは水平社運動にかかわる史料で記念撮影の写真がよく使われることにもあらわれます。
釜ヶ崎と言えば、その隣には飛田新地があり、反対側には西成〜浪速と続く部落があります。まさに、大阪における最大のアジールです。
ところで、三橋さんの「公式の人権」のとらえ方への批判点は、こうしたアジールへの評価のあり方にあらわれます。
具体的には、例えばリバティ大阪の展示では、釜ヶ崎は「労働者の街」としてはとらえられていますが、男娼の街としてはとらえられていない。あるいは「女性の人権」の中で飛田新地はあらわれてこない。これらの街は浪速のほんの目と鼻の先にあるにもかかわらずです。
こうした方針は、たとえば女性やセクシュアルマイノリティの展示内容が、80年あるいは90年以降のみであるところにもあらわれるとされます。まさに「公的に認められた*1運動史」としてしかとらえられていない。
そこに「性」を直視できない「人権」のありようがあるのかなとふと思いました。

*1:あるいはその直前からの

長い散歩

朝、携帯が鳴って目が覚めました。1時間ほど寝坊です。H井さんはまだ寝ておられるみたいです。起こすのもなんだし、なにより前日「勝手に出て行ってください」と言われていたので、お礼も言わず、あわてて水道橋に向かいます*1
昨日からはじまっている全国キリスト教学校人権教育セミナーへの参加です。今日は中日。メインの日です。わたしは第4分科会「江戸から現代まで、ヘテロセクシュアルホモセクシュアルトランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理」(講師:三橋順子さん)のコーディネーターです。
水道橋からふたたび新宿に向かって移動。東口で三橋さんと待ち合わせです。
このあたりから、急激に体調が悪化しはじめます。地面が波打ってます。やばいです。三橋さんからは
「だからいつも言ってるでしょ」
と、いつものように怒られます。
まずは、東口の前で新宿駅近辺の歴史地理について概説。ここから東中央口方面に移動します。やがて4丁目方面へ。
三橋さんの話を聞きながら新宿の街を歩くと、自分の中で疑問だったさまざまなことが、ひとつひとつ腑に落ちてきます。とにかくすごくおもしろい!コースは4丁目からふたたび追分へ。ここでいったんお昼ご飯。
三橋さんとおそばを食べに行きます。ふだんだったら確実にビールを飲みますが、今日はパス。いかに体調が悪いか、自分でもわかるというものです(笑)。熱い(でも薄い)そば湯を呑んだあたりから、ようやく体調が回復。やれやれ。三橋さんも
「呑んだくれは午後から復活するのよ」
と、これまた正解を述べられます。
午後からのコースは、まずは2丁目方面へ。
と、見つけました!「模索舎」。ここだったんだぁ。三橋さんのひとこと。
「なぁんだ、Duoの隣じゃない」
なんともいえない対照的な2軒です。
で、いよいよゲイタウンへ。まぁ真っ昼間ですからぜんぜんぽくないですが、それでもあちこちにゲイタウンである徴*2があります。2丁目は、通常「御苑通り」で3丁目と区切られるとされます。ところが、かつては末広町通りのあたりまで2丁目があったとか。そのころは2丁目は遊郭で、そこに意図的に御苑通りを通したらしいのです。このあたりの話はあとで…。
ただ、三橋さんの言われるとおり「ドヘテロ」な街が世界でも有数のゲイタウンに、わずか15年ほどで変化していくというのは、やっぱり新宿というきわめて人工的につくられた街のダイナミズムなんでしょうね。あと、ゲイタウンではあるけどビアンタウンではないということ。まぁこれはどこでもそうなんですが…。
コースは2丁目から3丁目(旧2丁目あたり)へ。ここで、かつての遊郭の境界線を見ます。このあたりからがいよいよわたしたちトランスの街がはじまります。噂に聞いた、でも名前しか知らない女装スポットが、次から次へとあらわれます。
そして末広町通りを通って花園神社へ。さぁ、いよいよ聖地・ゴールデン街(笑)です。
と、ある一軒のお店の前で止まられます。鉄平石でできた外観は、まさに「梢」です。素人女装という世界の発祥の地を前にした感激!
そして、コースは歌舞伎町を通ってふたたびゴール地点の東口へ。
全行程4時間にわたるものすごいフィールドワークが終わりました。

*1:この場をつかって「ありがとうございました」

*2:「ゆかた祭」のポスターとか