私には「◯◯」がいた/いなかった

今日は、在日外国人教育関係の某セミナー&祝う会。
「「私には浅田先生がいた」をめぐって」というテーマの講演です。
ん〜…。すごくよかったです。
ただ、ものすごく考えさせられたことも、また確かです。

はたして、「わたしには◯◯先生がいた」と、わたしに言えるのだろうか。もちろん、わたしに大きな影響を与えてくれた先生は少なからずいました。でもやっぱり、高校時代、自分自身のことについて「わたしには◯◯先生がいた」ということが言える先生はいなかった。
それは裏返してみると、私が「私」という徴を持ってはいなかった、あるいはその徴をかたくなに出していなかったからでしょうね。そういう意味では、わたしは「◯◯先生」を拒否していたとも言えなくもないかもしれません。
でもその後、「わたしには◯◯さんがいた」と言えるたくさんの「◯◯さん」と、わたしは出会ってきました。その出会いこそが、わたしにとってものすごく大切なものなんですよね。
そういえば、康玲子さんもあとがきの中で「もしもその後たくさんの人と出会っていなかったら、「わたしには浅田先生しかいなかった」というタイトルになっていただろう」みたいなことが書いてありました。そうなんだろうなぁ…。

それと、わたしは子どもたちにとって「浅田先生」たり得ているかどうか。まぁ、本を読むと、まさに「あの頃の学校」における「あの頃の教員」と「あの頃の生徒」の話であって、とてもではないけど、今の話には置き換わらないです。それでも、時代を越えて共通することがあることもまた確かです。そういう意味で、わたしは、「今」の浅田先生たり得ているかどうか。厳しく問われるなぁ。でも、「浅田先生には康玲子がいた」のであって、そういう生徒ときちんと出会うことが、たぶんわたしをまた勇気づけ育ててくれるんだろうなぁ。

にしても、康さんって、文章うまいわ…。