今日は、夜、R大学の学生さん達対象に高座です。
この企画、EECというプロジェクトの一環だとか。なので、内容的な要望は教育の現場の話から人権・トランスまでなんでもありという感じでした。なので、結局いつもの通りの話*1。
話っていつでも1960年代からはじまるんですが、これ、学生さん達にとってはなんらリアリティがないわけです。で、佳境は1980年代だったりしますが、これまた学生さん達にとってはなんらリアリティがない。ところが、このあたり、教員をやっている人たちには、もうどうしようもないリアリティがあるわけです。で、ウケる。O阪I大でもO阪F大でもK戸大でもK西大でも教員の方にはウケます。で、R大はというと、きっちり聞いておられた教員にはウケていました。でも、大学生はポカーンorz。
高座の後は、近くの居酒屋で打ちあげ。
しばらくのんびり話をしていたのですが、向こうの方で大阪出身の学生さんがお好みの話をしはじめました。思わず食いついてしまいました。すると、わたしの隣の広島出身の学生さんもきっちり食いついてきました。ちなみに、お二人とも「カス」のことはよくよくご存じ。なんでも、広島ではコンビニでカスを売っているとか。すごいよ…。ところが、けっこう「好き者」っぽい担当の教員の方は、カスをご存じない。
で、結局、その方のゼミでお好みパーティーをやることに決定。
なんだか、東九条でやることになりそうです…。
で、大いに盛りあがって、結局終電で帰還。
年: 2007年
たまには優先順位を…
わたしの職場もそろそろ期末試験。ところが、上の子どもが通う学校は2学期制のため、すでに試験期間突入です。
で、きのうの晩ちょこっと勉強を見てみると、なんだかあぶなげ…。なので、今日は最後に1時間年休を取って、子どものケアをしに帰ることにしました。副校長に「うちの子どもが試験なもので」と言ってみると「そら大切やな」と笑顔で返してくれました。
普段学校で使っているプリントをちょいとコピーしてお家へお持ち帰り。「さぁやってみ」と渡したのですが、どうも勝手が違います。ひょいと教科書を見てみると、う〜ん、微妙にスポットが違います。しゃーないので「考え方」だけ教えて、晩ご飯の後に子ども専用のプリントを作成。
それにしても、たった1時間だけ年休を取っただけで、これほどまでにいろいろなことができるんやなぁと、かなり考えさせられました。
やってみた
雨のオフ
今日は、久々の完全オフの日です。
こんな日は、とりあえず「寝坊する」からはじまります。8時過ぎまでゆっくり寝て、その後、今日一日何をして過ごすかを考えます。なにしろ、雨が降っているので昨日の続きはできません。用事をしに外に出るのはおっくうです。かといって、家の中でできることはたかがしれています。などということをのんきに考えていると、すぐに10時。
ノロノロと起き出して、コーヒーを飲んで、とりあえず新聞。
でも、新聞を読むのは気が重いです。とにかく、世間ではろくなことがおこっていません。「知らなければOK」というわけではないのは当然なのですが、「もういいよ。知りたくないよ」という気がしてくるのをとめることができません。さいわい、日曜日は「日曜版」とか書評とかがあるので、そんなものをちらちらながめながら新聞は終了。
しばらくすると、お昼ご飯。当然ビール。やっぱり、明るいウチに飲むビールはおいしいです。
パートナーとよもやま話をしているうちに、家の模様替えの話になってきました。
うちには老犬がいるのですが、犬小屋を外に出すといろいろめんどうなことがありそうなので、家の中で飼っています。いまは犬小屋は玄関においてあるのですが、これを階段下に移動しようという作戦です。ところが、これをやるためには犬小屋をつくっているパイプのサイズを変更しなくちゃなりません。ついでに、そこにおいてあるものもどけなきゃならないし…。面倒だなぁとは思うのですが、やらないとはじまりません。てことで、着手。
あとは、パイプを切ったり、床材を切ったりと、まさに日曜大工です。で、夕方には完成。あとは、お風呂→ビール→テレビという黄金の休日コースを楽しんで、一日終了。
ESTOの大阪交流会
いつも思うのは、「なんであたしゃここにいるんだ?」という疑問です。
東京での交流会の時、なぜか5回も前に出てしまったのですが、そのうち2回はいまいち自覚がなかったんです。
で、そのうちの一つが、ESTOだったりします。
実は、去年の大阪交流会の時、友だちから「来ない?」という誘いがありました。わたしとしては、5年前の交流会があまりにも衝撃的&楽しかったので、「んじゃ行こうか」となったわけです。ところが、行ってみたら、宴会じゃなくて、マジメな交流会。「なんじゃこりゃぁ!」と思ったけど、それはそれで有意義な交流会でした。で、その時に「会員になって」と言われて、カンパの意味も込めて「はいはい」と会員になったのですが…。
「正会員って、そんなに少ないのか!てか、正会員って運営メンバーのことじゃんか!」ということに、後になって気づきました。
なので、現在は正会員らしいです。なので、今日は交流会に先立ち、3時から大阪で会議です(笑)。
で、ゴニャゴニャと話しあいをして、交流会。
今回は、「ユースサポートを考えよう!」というテーマで、若い人を中心にいろいろと交流をしたり思いを聞かせてもらったりしました。で、それはいいのですが、「若い人」とひとくくりにしてはいけないんですね。やはり、同じ「20歳近辺」であっても、学校に行っているか働いているかで全然違います。なので、25歳のすでに働いている「若い人」が、20歳くらいの子らに向かって「自分が若い時は…」などと話をするんです。思わずそこにいた「若くない人」たちは「お前がそういうことを言うな〜!」と猛反撃していました。ったくもう…。
ま、最後は「年齢の自己決定権」を盾に、わたしも「わたし、21歳」とかあらぬことを口走っていました*1。
交流会が終わると2次会です。会場から出ると、そこにはO島さんが…。いい時間に来られました。で、いでたちを見て思わず「あれ?今日はリュックはどうされました?」と聞いたのですが、なんでも、襟のところになんかついていたので、今日はおいてきたとか。不便だなぁ…。
2次会の会場は、近くのレトロなカフェバー。やはり、大阪にはおしゃれな場所があります。ここで、ビールだのワインだのを飲んで、年寄り同士で盛りあがっていました。
で、10時半頃に解散。そこからO島さんと一緒に梅田に向かって「もう一軒」ということになったのですが、新梅田食堂街はいずれも11時閉店らしいです。しかたなく、バイバイすることにしました。
で、梅田で快速急行に乗って時間を調べたのですが…。この電車が最寄り駅に接続する最終電車でした。あーこわ。もしもあそこでO島さんが「じゃぁ今日はやめよう」とすっぱり言って下さらなかったら、えらいことになってましたわ。
てことで、終電で帰還。やれやれ…。
*1:アホや…
衛生問題
わたしの自転車は、大学生の時に組んだロードレーサーで、かれこれ25年を超えるつきあいになります。当時は、フレームから組んでいくなんていうのは、完全に趣味の世界でしたが、わたしがいきつけにしていたサイクルショップは、どういうわけかその趣味の世界にどっぷり浸かっていた人たちのたまり場でした。で、わたしも気がついたら何台か自転車を組んでいました。
ちなみに、「組む」といってもいろんなレベルがあるんでしょうけど、ここのお店はフレームを自分のところでつくっていたので、BBの面出しあたりからやらなきゃなりません。なので、まさにベアリングを一個一個入れていくところからという感じなわけです。
まぁ、10年くらいこの店でいろんな経験をさせてもらったのですが、就職にともなって引っ越しをして、それっきり自転車から遠ざかっていました。
でも、2年前に引っ越してきて、ふたたび自転車に乗りたいな、と。で、ほこりだらけの自転車を引っ張り出してボチボチと乗りはじめています。ちなみに、こんなんです。
ところが、なにしろ古い自転車なので、ゴムの劣化が激しいです。とくにきついのが、ブレーキレバー。もう、ゴムがとけてしまってなにがなにやらわかりません。あと、バーテープもボロボロ。
まぁ、これははっきり言って「衛生面にわるい*1」です。
てことで、ブレーキレバーの交換をすることにしました。といっても、すでにブレーキワイアーが上からでるタイプのレバーなんてありません。というより、あったとしてもゴムの状態は一緒です。どころか、最近のブレーキレバーって、シフトレバーと一体になっているの?んなもん、わたしの自転車にはつきませんわ。なので、エアロタイプ*2のブレーキレバーを発掘してもらいました。
今日の作業は、とりあえずバーテープをはがして、ハンドルをきれいにするところまで。あとは明日だな。
バトン
今日は友だちと飲み。
そういえば、この友だちにはずいぶんとお世話になりました。はじめて会ったのが、いまから8年ほど前ですか。自分がこれからどう生きていくのか迷っている時に、この友だちと出会いました。そして、そのおかげで、ようやく次の一歩が踏み出せたような気がしています。そして、似たような道をずっと歩き続けてきました。もしかしたら、時として遠く離れていても励ましあい続けてきたのかもしれないです。
実はその友だち、わたしよりも前から走り続けていました。そして、わたしはその友だちと出会って、一緒に走ってきた。でも、今日、その友だちは言いました。「いまの道へのモチベーションが減ってきた。少し違う道を歩きたいと思うんだ」。
わたしがその友だちによって助けられたならば、そういう友だちからバトンを受けとるのはあたりまえのことです。
ちょっと重たいバトンだけど、まぁなんとかなるでしょ。
部落史連続講座・最終回
今回の連続講座は、今日が最終回*1。
今日のタイトルは、小林丈広さん(京都市歴史資料館)による「職業規制から見た京都の町」です。実は、わたし、こっそり小林さんのファンなんです(笑)。ある意味、すごく明快であるにもかかわらず、けっしてなにか物事を一刀両断で
この話、実は去年の10月にさわりだけ聞いているんです。
つまり、「町式目」を読む中で、京都のそれぞれの町内がどのようなまちづくりをしようとしていたのか。そこから、町の人々の意識を読み解こうという試みでした。
現在でも、「町内会規則」みたいなものって、それぞれの町にはあるみたいです。で、こういうのって、まず「だれが町内会のメンバーなのか」からはじまって、「なんのために」とか「どんなことをやるのか」とか「役員はどうするのか」「会計はどうするのか」ということが書いてあります。
ところで、こういうのって、実は「暗黙の了解みたいなものが通用しているうちは明文化されない」んですね。ところが、その「暗黙の了解」が通用しないような事態が発生すると、明文化せざるを得なくなり、文書として残っていく。これは、現在でも中世でも一緒なわけです。ですから、町式目を読み解くことで、「その時代にどんなことが起こっていたのか」ということを推測することができるわけです。
今回提示された町式目で最も古いものは、江戸よりも前、1700年代後半のものでした。で、当然のことながら「メンバーシップ」への記述があるわけですが、その記述の内容は「これこれの職業の人に家を売ってはならない」というものなんです。ただし、職業とその人の置かれている立場はかなり不可分のところもありますから、とらえようによっては、イコール「これこれの「人」には家を売ってはならない」ということになるわけです。
初期*2の町式目には、「あおや*3」「座頭*4」「鍛冶屋」など、数種類の仕事があげられています。ところが、江戸時代中期ぐらいになると、やたらたくさんの仕事があげられはじめます。そして、江戸時代末期になると、仕事をいちいち列挙するのではなく「みんながイヤだと思う人はダメ」みたいな、すごい話になってきます。
これをどうみるかということなんですけど、おそらくは、江戸時代中期以降になると、仕事や人の動きが流動的になってきて、だからこそいろいろなトラブルが起こりはじめて「あ、こりゃ明文化しなくちゃ」みたいなことになってきたんだろうということなんです。
あと、非常に特徴的なことは、「非人」の立場の人たちが従事しているさまざまな職業については、かなり事細かに書いてあるのに、「ゑた」という記述がほとんどないんです。小林さんはこれを「ゑたについては、暗黙の了解があったので記述する必要がなかったんだろう」としておられました。つまり、非人の人たちは身分としては町人になっていて、まわりの人たちはわかっていながらも、まぁ一緒に住んでいた、と。で、なにかあったときに「やっぱりこの町に住んでほしくないよなぁ」みたいな感じで、とりあえず明文化してみるテスト。みたいな。しかし、「ゑた」の人たちは明らかに排除の対象になっていたため、明文化する必要がなかったということなんでしょうね。ただ、町によってはけっこう早くから何度か「ゑた」の記述があるので、けっして、やはり明文化せざるをえない状況もあったんだろうとも推測されます。
おもしかったのは、「米屋」が排除の対象になっている町が多かったということです。小林さんは「定説はないけど、有力な説としては「飢饉の時の打ち壊しの対象になる」というのがあります」と紹介されていました。それ以外に、火を扱う仕事*5や不特定多数が集まりやすい仕事*6、風紀を乱しやすい仕事*7が排除の対象になっています。でも、実は、米屋さんにしても他のものにしても、生活に必要だったりするわけです。そのあたりのアンビバレントな感じがなんとも言えません。実際には、京都の「町」というのは、ものすごく面積が小さい*8ので、そうしたものもほぼ確実に近所にあったんだろうとのことでした。
そうそう、「浪人」とか「役人」みたいなものも町式目の中にあげられているのですが、江戸時代初期にはまだまだきな臭い感じがあって「住んでほしくない」みたいな感じだったんでしょうけど、江戸時代後期あたりまで来ると、「「武士(公家)やし、ちょっと町の仕事ごめんさせて」みたいな感じやと困るから」みたいな理由もあったんじゃないかと小林さんは言っておられました。
いずれにしろ、町式目を読んでいくと、これまで土地・職業にしばられていると考えられてきた近世の姿とは全然違う、さまざまな人が町の中で生きていたという姿が、垣間見られるかなぁと思いました。
ところで、質疑応答の中で、「ゑたの人たちの住んでいた町の職業規制は?」みたいな話が出てきて、それに対して小林さんは多くを語られませんでした。で、終わった後、「制度として被差別の立場に置かれているゑたの人たちのことをきちんと言わないといけない」「そこには血筋の問題がある」みたいな会話がありました。
ま、それはわかるんですが…。なんだかなぁ…。おそらく、どちらの側に光を当てながら読み解こうかというスタンスの違いじゃないのかなぁと思いました。
小林さんは、街の中に住む「一般の人たち」の意識の中に差別の問題を見つけようとしている。それに対して、人によっては「んなことはわかっている。そういう状況の中でゑたの人たちはどういうまちづくりをし、どうやって生きてきたのかということが大切なんだ」と考える人もいる。
で、わたしはどちらの見方をしたいかというと、実は、小林さんのような見方をしたいなぁと思っているんですよね。てか、実は、わたし小林さんのファンなんですよね、こっそり(笑)。小林さんの話って、すごく明快でわかりやすいんだけど、けっして「剰余」みたいな部分を切り捨てていないんです。その「剰余」の中に大切なものがあるということを意識しながら、とりあえず語っていく。なので、もっと深く話を聞きたいなぁと、毎回思わされるんです。
そうそう、立ち話の最後に、あまりにも「非人」にこだわるわたしに向かって「君も、自由な生き方がしたいんやろ(笑)」とそのものズバリのことを言われた方がおられて、思わず「そうなんです。もう教員なんてこりごり。非人になりたい(笑)」と答えたあたりが、今回のオチだったかなぁという気がします。
授業をはじめる前に…。
授業をはじめる前に…。
どうやらいま、この国では「力」というものがまかり通っているようです。
ところで「力」には「権力」と「暴力」があります。いずれも、人を支配するための方法です。そうそう。この教室の中にも、実は君たち生徒とわたしたち教員の間に「権力関係」があります。そのことを忘れてはいけませんね。
では、「力」と対になる言葉は何でしょう?それは「言葉」です。そして、「言葉」と「言葉」をつなぐ営みが「対話」です。わたしは、君たちとの間に「権力関係」があることを意識しながらも、一緒のこの教室の中でできるだけ権力に頼らない「対話」をするように心がけているのですが、それはなかなか難しいものです。
ところで、昨日、「イラク特措法延長法」と「教育関連3法」が与党による強行採決で通りました。この「強行採決」という手法は、「対話」の対極にある方法、すなわち「暴力」であると、わたしは考えます。そして、こうした法律を通すことで、この国は着々と「戦争」への道を準備しています。この「戦争」も「対話」の対極にあるもの、すなわち「暴力」です。
では、「戦争」から何が生まれるのでしょうか?
「戦争」とは、限りない「消費」です。そこから「生産」されるものは何もありません。そして、その「消費」によって潤う一部の人たちがいます。では、その「一部」以外の人たちは?
「戦争」をするためには、莫大なお金が必要です。しかし、国家の総予算は決まっています。そうすると、なにかのお金をへつることで、戦争のための「予算」をつくりださなくちゃなりません。
そうそう、防衛庁が防衛「省」になりましたね。あれも、このための布石ですね。
この国では、「教育」と「福祉」のお金をへつって戦争へまわす選択をしました。
いま、「教育の再生」が叫ばれていますが、教育を再生(この言葉も変ですが…)するためにもっとも早い方法は、教員数を増やすことです。逆に言えば、一学級の人数を減らすことです。ところが、この国は、そういう方法をとりませんでした。できるだけお金をかけずに自分たちの意志を通すための「改革」を行いました。それが、「教育関連3法」です。
福祉については、もう言うまでもありませんね。
ところで、教育も福祉も、その対象となるのは、子どもや老人、そして障害のある人、さまざまな理由で貧困という状態に落とし込められた人。いわゆる、社会的「弱者」とされる人たちです。
いまから5年後、世の中はどうなっているでしょうか。おそらく「こんなはずじゃなかった」という世の中になっていることだと思います。たしかに、一部の人たちの消費によって、あたかも総消費はあがっているかのように見えることと思います。そして、それが「豊かさの象徴」であるかのような報道がされることと思います。しかし、それは社会的弱者との格差の拡大に他なりません。
そして、10年後、おそらく戦争の中にこの国はいると思います。
もしも君たちがそういう未来を迎えたくないならば、常にいまこの国で何が起こっているかということについて敏感である必要があります。そして、敏感であるためには、新聞やテレビといった報道に頼らないアンテナを、高く広くあげることが大切です。できれば、自分自身の力で情報にじかにふれること。それが無理でも、情報にじかにふれた人から情報を仕入れること。
昨日、わたしのある友だちは国会の前に座り込みをしに行きました。そして、参議院の傍聴をし、強行採決される様を自分自身の目で確かめました。そして、その情報がわたしのところにやってきました。
自分が動けない時は、自分とつながる人たちから情報を仕入れること。そして、そこから、「いま」「ここ」で自分が何ができるかを考えること。そして、それをすること。
いまわたしにできること・しなきゃならないことは、いま、ここで語ることです。やがて、こういうことができなくなる時が来るでしょう。でも、その時まで語り続けようと思っています。そして、もしも君たちの中でわたしと思いを同じくする人がいたら、仲間になってくれるとうれしいです。
10年後、わたしは教員をしているだろうか。わかりません。もしかしたら、居酒屋の女将をしているかもしれない。そんなときは、またなにかの方法で「店を開けたよ」という情報を流しますので、飲みに来て下さい。そして、語りあいましょう。
じゃぁ、授業をはじめましょう。教科書◯ページをあけて下さい。
いま、わたし(たち)は、強烈な不信感と憎悪の中に立たされています。そのことをひしひしと感じます。かつては真綿で首を絞める感じでした。しかし、いまは荒縄で首を絞められている気分です。
でも、今日も授業をしなくちゃ…。子どもたちと授業をきっかけにしながら対話を続けていくことが大切なんじゃないかなぁと思います。そうした淡々とした日常の営みから、反撃のチャンスを狙う以外、いまのわたしには方法がないような気もしています。
でも、これで負け続けてきたからなぁ…。
一本の電話
ある日本国外のマスコミ関係者から、いきなり電話がありました。
「部落問題について特集を組もうと思うのですが、話を教えてくれませんか?」
「へ?」
それはわたしでは無理というものでしょう(笑)。
たぶん、この日の昼ご飯(笑)の時の会話とかじゃないかなぁ…。
とりあえず、無理なので、他の人に振りました。すんません。