「変わる」ということ

夜、第7回GID研究会を一緒にやった人が、今度転勤で関東に行かれるということで、「送別会」という名目の宴会がありました。
で、その席上でのこと。
某O島さんから「いつきくん、だんだんと言うことが変わってきているよね」という指摘をされました。ふぅむ…。
たしかに、いろいろな人から指摘をされてきたことではあるし、たとえば1年ほどのスパンでものを考えると、自分でもたしかに変わってきていることは実感せざるを得ません。なぜなんだろう…。
自分の中の「軸」となるものは、そうそうずれてきてはいないと思うのです。基本的には「社会を変えていく」というスタンスに変化はない。そのために、いま・ここで何を発言し、行動するのか。それが、基本的な線です。
じゃぁ、何が変わったのか。おそらく、人間関係とそうした人間関係をとりまく情況の変化です。個人的には、いわゆるGIDと言われる場所に深く入り込むことになりました。当然、GIDと言われる人たちとのつきあいが増えてきます。その人たちが、いまなにを求めているのか。そのことと、自分が変えたいと思っている社会の方向との間に、どう折りあいをつけていくのか。それが、「現場」ということなんじゃないかと思うのです。

例えば、「同和対策特別措置法とその後の法律の延長による施策が、部落の人々の甘えを生みだし、腐敗をつくった。だから、そうした施策は間違っていた」という論を、述べる方もおられます。それは一面の正しさを持っているでしょう。わたしも決してすべてを否定はしないです。でも、大切なのは、部落解放という軸をぶらすことなく、そういう「今」をどう変えていくのかということであって、だれかを・なにかを悪者に仕立てあげ、遠くから断罪をすることが大切なんじゃないと思うのです。

「変わること」って、忌避すべきことなんだろうか。もしかしたら、開き直りかもしれないという恐怖を自分に対して持ちながら、それでも、迎合を拒否しつつ変わることを拒否しない自分である必要があるかと思ったりします。そのことが、「変えること」につながっていくんだというかすかな希望を持ちつつ。

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