トイレに入る瞬間ですね、なにかが生まれてくるのは。今朝、トイレに入ろうと思ったときに、ふと思い出しました。
そういえば、昔「わたしのことを「人間として」見てほしい」と愚痴っていたことがありました。あのころは、「◯◯をやっているいつき」としてしか評価がされていなかったという思いが強烈にありました。「担任をやっているいつき」「在日の子らにかかわっているいつき」「部落の子らとバタバタやっているいつき」etc,etc。そうじゃなくて、「「単なるいつき」じゃあかんのかい」、「「単なるいつき」には価値がないのかい」、「◯◯をやめたら価値がなくなるのかい」と思っていたんですよね。
「人間として」ということにこだわった、もう一つの深層心理は、そのへんにあるのかもしれない…。
年: 2006年
やっぱりこの時期か…
今日は、放課後久しぶりの補習でした。この間の確認テストでアウトだったのが4人。全員きているのですが…。
いま、図形のところなんですよね。「円周角」とか「円に内接する四角形」とか「接線と弦のなす角」とか、まぁそういうところです。ここの分野、答えの書かせ方が難しいんです。うちの生徒たちは、もう、答え一発なんです。「どうやってその答えが出たか、書いてごらん」というのですが、「書けへん」なんですね。ひどいときには「なんとなく」とか。
うちの生徒たちの一番大きな問題点はこのあたりじゃないかと思うのです。「なぜそう考えたか」ということを、きちんと説明できない。これ、まだ数学だからいいんですけど、その子の行動にかかわる部分とか、生き方にかかわる部分でも、説明という作業ができないんです。それでいい場合はいいのですが、アカン場合もたくさんあります。
なので、「説明」というトレーニングが必要かなと思い、いま思い切って「説明が必要」と強調しています*1。で、「答えだけだと半分に減点!」と言いまくっています。
さすがに子どもたち、きつがっています。でも、わたしとしては「あの子たちならば」という思いもあることは否めません。「オレ、赤点とらへんかったらええねん」という子に「君はそんなレベルじゃない」と言い続けることは、大切だと思うのです。
でもね、そういう要求をされることに、生徒たちは慣れていないみたいですね。つい「ええやん。めんどくさいやん」と言ってきます。それに対して、一人ひとり、一回一回「それは違う」と言い続けなくちゃならないわけです。どうやら、そんなことをやっている教員はわたしだけみたいなんですよね。すると、「なんで先生だけ」とくる。まぁ、「よそはよそ、うちはうち*2」と言い切るのですが…。
ヤバイのは、進級が危ぶまれている子ですよね。補習でも「ボーッ」としています。中学のことも、どんどんどんどん忘れていく感じ。「もしかしたら、この子、退化していってるんじゃない?」という感じですよ。
そんなこんなで、やっぱりイライラしてくる。すると、自然に怖い顔になるみたいです。生徒たちが「今日の先生、こわい」と言います。「んなことないよ」と笑顔で返すと、「その笑顔が怖い」って。どーゆーことやねん。
去年は「ホルモンのせい?」とか笑ってたんですけど…。
もう一回気分を立て直さなくちゃ…。
「人間として」
昨日、大阪のH市でちょっと話をしに行きました。
幕間から見ていると、この方が最前列に陣取ったりして、かなり緊張しました*1。
で、いつもの通り、口からでまかせの漫談をして、いちおう1時間半+αの話が終わりました。司会の方が「質問はありませんか?」と言われたのにこたえて、この方が「ハイ」と挙手。それはないっすよ…。
曰く「子どもが大きくなってくると、なかなかいままでみたいにうやむやな感じではいけなくなってきますよね。子どもたちや子どもの学校のPTA、あるいは地域の中でどうされていますか?」という感じの質問。きついところを突いてこられました。
で、わたしの答え。
「わたしはトランス前もトランス中もずっと同じ場所で住んでいました。なので、みんなわたしのことを知っています。そんな中でトランスをしてきた。いま、別の場所に引っ越したけど、やっぱり少しではあれ、いまだに子ども会の手伝いはしに行きます。PTAも自分なりに積極的にかかわりました。上の子どもが6年の時は会長もしました。会長として何ができるか考えたとき、みんなが楽しんでくれるPTAにしたいと思いました。そんなわたしを、みなさんは受けとめてくれていたと思います。結局、大切なのは、男であるか女であるかよりも、こんな言い方はしたくないんだけど、やっぱり人間としてどうあるかということなんじゃないかなと思うのです」。
で、終わった後の飲み会。「この方」は帰られたのですが、若い参加者たちとの見ながら、「人間として」ということをめぐってしばらくやりとりがありました。簡単に言うと、こういうことだと思います。
みんながみんな「人間として」すぐれた生き方ができるとは限らない。でも「人間として」という言い方をしてしまうと、結局「(すべてのトランスに)人間としてすぐれた生き方をしなくちゃならない」と言うことになってしまうのではないか。
まぁ、たしかにそれはそうなんです。ちなみに、わたしが人間としてすぐれた生き方をしているかというと、どっちかというと、人間のクズとして生きているので、吐いたつばが自分にかかってしまうんですけどね。
でもね、トランスであることも、実は「わたし」という人間の一属性でしかないんですよね。だから、そのひとつの属性のみでわたしを測ることはできないんです。「カテゴライズ」を拒否して、「自分」というそのものを他者に差し出そうと思ったら、トータルとしての「わたし」をどうしていくかということにしかならないんじゃないかという気がするんです。
「トランスだからしかたがない」というのは逃げだと思うし、イヤなんですよね。もちろん「トランスだけどがんばっている」というのも違うんです。ただ単に、「トランスであるわたしは◯◯だ」ということなんです。で、この「トランス」には別の言葉*2が入ってもいいんですよ。トランスであることも、その程度のことでしかないというふうに考えていかないといけないんじゃないかということなんです。
そうすると、結局残るのは「人間として」になるんじゃないのかなぁ。
おまけつき
朝、車を運転しながら、今日の1時間目の授業について考えていました。で、ふと気がついて、コンビニに車を止めました。で、買ったのはチョコレート。
いや、前から「先生、14日、チョコちょうだいな」と言う生徒*1がいて、「んなもん」と言っていたのですが、なんか気になっていたんですよね。
そういえば、この1年、この子らと一緒にバタバタやっていて、楽しかったよなぁと。そのお礼はしてもいいかなぁと。でも、単に渡すのもおもしろくないなぁと。で、考えたのが、ラッピングの紙なんです。
学校に着いたら、あわてて印刷。内容は「方べきの定理」のプリントです。こいつでチョコをラッピングして、「おまけつきの宿題」を出そうかと。
1時間目、みんな眠いです。でも、わたしは焦りました。なにせ、「宿題」まで持っていくためには、そこまで授業を進まないといけないわけで。こちらが必死になってやっているのが伝わったのか、連中、「今日のいつき、なんでこんなにまじめやねん」という泣きそうな顔で、必死でノートをとります。で、最後に「じゃ、宿題渡すしね」とみんなに「おまけつき宿題」を配ると、とたんに教室が明るくなりました。よかったよかった。
そうそう、一人つぶやいている生徒がいました。「初めてもらったチョコが、先生のか…」ごめん。
*1:♀
火を吹く〆切
昨日の玖伊屋でも笑っていたのですが、マジで〆切って「ゴムのように伸びる」んですよね。って、感心していたらアカンけど。
先日、「17日には入稿したいのでよろしく」というメールが来て、「2〜3日中には」「この土・日には」と返事をしたのですが、土・日に原稿が書けるわけがないです。かといって、平日に書けるかというと、仕事がひとつはいると、それでアウトです。なので、月曜日の今日、まだ原稿を提出していません。
で、「ゴムのように伸びる〆切」は続きがありまして…。「切れるときはぱちんと音を立てて切れる」というのが、とりみきによる言説です。で、わたしさらにあとに「伸びれば伸びるほど、切れたときが痛い」と続けます。
ところが、「詰め」が浮かんでこない時って、ほんとうに浮かんでこないんです。どうしようと思いながら、なかばあきらめて単純作業をはじめたその瞬間、「詰めのフレーズ」が浮かびました。ここで一息ついたらせっかく浮かんだフレーズがどこかに行きます。あわててパソコンの前に行って打ち込んで、メールで送ってようやく10月頃から懸案だった原稿*1が終了。
しかし、担当の人、送っても返事をくれないのよね…。怒ってるんだろうなぁ…[1](( ;゚д゚)アワワワワ。
*1:ただし、作業にかかったのは1月中ごろだったりします
footnotes
↑1 | (( ;゚д゚ |
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名言
学校ではよく「生徒は主役」と言います。「生徒が主役なんだから〜」という感じですか。でも、前々からわたしは「ちがう」という気がしていました。「生徒が主役」という言い方は、考えようによっては、「主体のをすり替え」や「責任の転嫁」の時に都合がいい言葉なんですよね。例えば、「卒業式の主役は生徒なんだから、◯◯を持ち込ませない*1」とかね。なんかずるい気がするんですよね。やっぱ、「自分の主義主張としては、卒業式に◯◯は持ち込ませない*2」と言うほうがすっきりすると思うんですよ。
で、それが授業でもあらわれる。「生徒が主役になる授業」…。いやだなぁ。わたしは前から思っていたんですよね。「教室は舞台、主役はあたし!」。だからこそ、客である生徒が「つまらね〜」と思ったとき、その責任は自分が背負わなくちゃならないわけなんですよ。だからこそ、舞台は楽しい。
「跳べない舞台は、ただの舞台だ(by Ms.M)」
モーニング・ゴスロリ
朝、メールが入りました。「近くまで来ています」。なので、自転車で迎えに行きました*1。
駅の改札の向こうを見ると、黒い物体がいます。すぐにわかりました。ゴスロリトランス。みごとに浮きながらも、パスしているからとけこんでいます。
まぁいろいろいとあって、未成年のトランスの彼女と会うことになったのですが…。話をしていると、おもしろいというかなんというか。
でも、若年層のトランスのおかれている状況って本当に深刻だなぁと。なんと言っても、将来展望が持てないんですよね。「将来どうするの?」と聞くと「夜の蝶かな」という答え。いや、いいんですけどね。でも、たくさんの選択肢の中から「夜の蝶」を選ぶのと、いくら自分にあっていると思うからって言っても「それしかない」のでは違うだろうと思うのです。でも、彼女らにはそれしかないように見えてしまうんですよね。これは、若年層のFTMにも共通しているかなぁ。
やっぱり、「将来展望」をどれくらい見せることができるかということが大切なんだとつくづく感じました。
でも一方では、すごく頼もしいというかおもしろいというか。わたしみたいに「気づいていなかった」高校時代とはぜんぜん違いますね。それは少し羨ましいかもしれないです。なんといっても、つきぬけています。しかも、「将来は夜の蝶」と言うくらいですから、充分にクイヤです。社会の規範の中で自己否定を続けてきたわたしに比べると、発想が自由というか、対人関係も自由というか。もちろん、だからこそしんどいところもあるんですけどね…。
まぁ、濃いぃ朝でした。
ちなみに、「昼ご飯おごってあげる」というのが約束だったので、久しぶりに「愛ちゃん」へ。お母さん、目むいてました(笑)。
*1:スタッフの一人はわたしがモーニング酎ハイを買いに行ったと思ったらしいっす
朝はやっぱりおかゆ
メニューはサムゲタン
で、玖伊屋
今日は、紀元節。「紀元節粉砕」の集会に行こうかどうしようか考えたのですが、うどんをつくっているうちに忘れてしまっていました。で、夜は玖伊屋。まぁ、個人的には「紀元節粉砕」と自分の中でシュプレヒコールをしながらの玖伊屋ということで(笑)。
最近2ヶ月に一回にペースダウンした玖伊屋ですが、その分、集まりは濃いぃのかな。今回は、「ま゛」さんの「富山みやげ」とか「富山いやげ」とかもあったし、四国から「じゃこ天」の差し入れとか、古酒の差し入れとか、まぁ大宴会の様相を呈していました。
で、わたしはというと、やっぱりスキーの放映が見たいということで、ついついテレビをオン。ちょうど、複合のジャンプをやっていたのですが、「なんだ、一人飛びかぁ…」って、なにかおかしいような気がします。しばらくモーグルを見ていたのですが、突然眠気が襲ってきてダウン。相も変わらず布団の入った押入の前で寝てしまいました。みなさん、すんません。