うちの職場の人権学習、基本的には担任さんがそれぞれのクラスでやるスタイルです。わたしが着任した頃は
「話す内容に違いがあったらまずい」
という名目で、人権担当*1が体育館で講義をしていたみたいですが、わたしが担任をしはじめた頃に、「自分のクラスで自分が好きなようにやる」というスタイルに変わっていきました。というよりも、当時の先輩の「命」を受けて、わたしが切り込み隊長でそういうスタイルをやっていったんですけどね(笑)。で、その後20数年間、そのスタイルでやっているわけです。
ただ、わたしが担任をしていた頃と大きく変わったことがあります。それは、「好きなようにやる」人が減ったということです。
かつて自分が担任をしていた頃って、人権担当の人がいうのは
「自分を語れ」
のひとことでした。なので、必死で自分を掘り下げて、自分の中から言葉を見つけて、自分の言葉で生徒たちに語っていました。でも、それがわたしにとってはとてもよかったと思います。なぜなら、わたしのクラスでは、わたしにしかできない授業が展開できる。それは隣のクラスも同じ。そういうのが、実は大切なんだと思います。
昨日の講師の話を借りれば
「経験的に蓄積した差別観念に対して、知識で対応しようとするとミスマッチを起こす」
ということになるのでしょうか。
もちろんみんなでいろいろ探してきて「共通教材」を使ったりすることもあるんですが、その料理法はそれぞれにまかされていました。
ところが、現在は全クラスが同じ教材を使います。しかも、ワークシート。そして、解説・解答付きです。これはなぁ…。
でも、そういうふうにしてきたのもまた、わたしなんですよね。
自分が担任をしていたら、隣の担任とフラットな関係で情報交換できるのですが、「企画側」になると、そうはいかなくなるんですね。いろんな人がいろんなことを言ってくる。なので、リファレンスみたいなのを出してしまったんです。これがいけなかった。去年出したものは今年も使わざるを得ません。こうやって、膨大な量の印刷をしなくちゃならなくなってしまうという。
こういう状況を、「企画する側」としてはなんとかしたいと思うのですが、まわりはじめた歯車のまわり方は、そう簡単には変わりません。
てことで、「やる側」もしんどいけど、「企画する側」はかなり前から気が重いという話です。