今日で88周年ですね。
カテゴリー: 考え
伝えたいことは?
今日は下の子どもの小学校最後の授業参観。行かない手はないです。
てことで、行ってきました。
しかも、授業内容は「エイズ学習」。もう、wktkですよ(笑)。
まぁ流れとしては、
「基礎知識」→「ジョナサンくんの話」
という、それだけの展開です。
でも、45分の中で何をどう伝えるか、ずいぶんと悩まれたんでしょうねぇ。いや、わたしも15年ぐらい前に、はじめてエイズ学習にとりくんだ時、同じ流れでしたから。
でもねぇ…。子どもたちの感想を聞いていて、「なんだかなぁ」という気になりました。担任さんには悪いけど…。
子どもたちの感想は
「エイズは怖い。ジョナサンえらい」
なんですね。はたしてこんな感想を求めていたのかな?きっと違うはずなんですよね。たぶん…。
知識っていったいなんのために学ぶんだろうと思いました。
当事者にとっては、まさに自分が何であるかを知り、生き延びるために必要不可欠なものだと思います。
では、非当事者にとっては?きっと、「病気にかからない」ためじゃなくて「ともに生きるため」に必要なんだと思うのです。
当事者がいくら
「日常生活ではHIVは感染しない」「だから安全なんだよ」
と言っても、まわりがそれを知らず、あるいは認めなかったらその当事者は「安全である」とはみなされない。社会において「安全」とみなすのは、本人からの訴え(申告)ではなく、まわりの受容(知識)に依拠するんじゃないかと思います。
っていうの、いずれも一緒のことだよなぁ…。
差別の諸相
まぁ「諸相」なんていう難しいことじゃないんですけど。
今日は、人権教育関係の会議の日です。で、情報交換とか研修とかの意味で、ちょいちょい視聴覚教材を見たりするのですが、今回は「ルーツを見つめる 〜大阪・若者たちの肖像写真〜」というNHKの番組を見ました。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090806130030174/
これ、何回かブログでも書いた「対岸の肖像」に出た若者たちの中の3人を追いかけたドキュメントです。
なんでこの番組を見ることになったかというと、
「今の若い部落の人たちは、どんなことを考えているのだろう」
という疑問を出した人がいたからです。
で、見終わって…。
やっぱり涙が出るなぁ。
かつて部落差別を語る時は「貧困」とか「劣悪な環境」とか、あるいは「就職差別」「結婚差別」というような形で話をしてきたんですけど、そういうものは、明らかに「マシ」になってきています。じゃぁ「部落差別はなくなった」のか。それは違うと思っています。
その答えのうちのひとつが、この番組にあると、わたしは思っています。
ここに登場する若者たちは、例えば「自分が自分であるためにルーツと出会い直す」わけです。あるいは、「自分のことを語るか語らないかという葛藤の中で生きる」わけです。そういう若者たちの姿の中に、わたしは現在の部落差別を感じます。
ところで、こういう話にたいして「わかりにくい」という反応が返ってくることがあります。でも、わたしはそうは思わない。
ようやく部落差別が「貧困」とか「環境」とかいう表層的な問題の奥にあるところに触れるところまで来たんだと思っています。そして、そこまできたからこそ、他の被差別者とつながれるところまで来たんじゃないかとも思っています。
自分のことを語るか語らないかという葛藤を持つのは、別に部落の人間だけじゃない。「ルーツと出会い直すところから今を生きなおす」のも、別に部落の人間だけじゃない。
そういう意味では、「個別の問題」「特殊な問題」から「普遍的な問題」へと、ようやく変化してきたんだろうなぁと思います。そして、普遍的だからこそ共感も呼べる。そんなことを感じながら、ビデオを見ていたんですがね…。
なんかまとまらないorz
伝えることはそれなのか?
その後
今日、米子の主催者の方からメールが来ました。
子どもと一緒に買い物に行ったら、◯ミリちゃんと偶然会って、子どもと「キャー◯ミリちゃん!」となりました。
不思議なものですね。金曜日なら気づかなかった人なのに、土曜日、いつきさんに紹介してもらったおかげで、また一人仲間が増えました。
うれしかった!
まさに、これこそ出会いなんだよなぁ。
「10年遅かった」の意味とか
考えてみると、大学生の頃から
「10年遅く生まれたよなぁ」
と、友だちとよく話をしていました。10年前なら学生運動もさかんだったし、まだまだ「混沌」という言葉があてはまる時代でした。
で、そんな学生運動をやっていた人たちが、自分の生産点で活動をはじめる中で、みなさん当然のように部落解放運動とか在日朝鮮人の問題とかにとりくむわけです。で、さまざまな実践を手探りの中からつくっていかれた。
で、わたしはその「学生運動」が埋め火のようになっている時が大学時代なんですよね。学生運動の経験をもたないままに、在日の子たちとか部落の子たちとかかわるようになっていきます。でも、その時すでに先達達ははるかに先を行っておられるわけです。まぁ言ってみると、ひたすらその後を追いかける感じ?
で、いまや10年年上の人たちは退職の時代になります。しかも、みなさん早期退職をしていかれる。
身体も無茶ができなくなってきたし、なによりも、この閉塞した状況の中で「もう、希望はない」と言われます。
それはよくわかります。
最近「フリーハンド」で絵が描けなくなってきています。
曰く「自由に絵を描いていいけど、道具はこれとこれとこれとこれを使いなさい」みたいな。さらに言うと「テーマはこれだから自由に絵を描いてね」みたいな」。それって、自由じゃない(笑)。
先輩達はフリーハンドで絵を描いてきたからこそさまざまなとりくみができた「あの頃」を知っているがゆえに、今の時代はとても窮屈なんだと思います。それは、わたしも同じです。もっとも、「フリーハンドの時代」の最後をちょこっと知っているだけですがね。
でもね。
今の状況がほんとうにきついのは百の承知です。でも、だからこそ、その中でもやらないといけないとも思っています。状況は「フリーハンド」の時代よりも、ある意味悪化しています。だからこそ、やらなきゃならないことがある。そう、10年下のわたしは思うわけです。
今朝携帯を開くと、外川さんからメールが入っていました。
なんでも体調を少し崩されていて、休まなきゃならないとのこと。昨日控え室で「無理せんと休んで下さい」と言ってはいたのですが…。
でも、実は休んでいる外川さんは外川さんらしくないんですよね(笑)。なので、返事は定番のこれでした。
こんなこといつまでも
長くは続かない
いい加減明日のこと、
考えた方がいい。
どうしたんだ!ヘヘーベェベー
お前までそんなこと言うの
いつものように決めて
ぶっ飛ばそうぜ!
この歌を自分にも向けつつね。
落ちる季節
今日一日かけて、なんかゆるやかに落ち込んできました。
なんでだろう…。
ひとつは、自分ではどうにもならないイライラ感ですね。なにがどうにもならないかというと、「落ちそうな生徒がそれでも勉強しない」という、いつものヤツです。
「4月〜3月までの涙」と「3月の涙」は、持っている意味あいが全然違います。そのことをわかってほしいんだけど、ほんとうにせっぱ詰まらないとわからないヤツがいます。というか、結果が出ないとわからないヤツもいたりして…。これはストレスだわ…。
もうひとつは、あるメールです。
こいつのほうは、いろいろ考えさせられました。でもねぇ…。いろいろ考えて、なんとなく「メールを出した人、すごくしんどいんだろうなぁ」と思いました。まじめな人なんですよね。そのまじめさが、時として相手への「刃」になることもある。
復活はいつかなぁ…。
やっぱり受けとられ方はさまざまだなぁ…
たまぁに自分の名前でググってみたりするんですが、けっこうおもしろいですね。大半はまぁなんということもない内容なんですが、たまに話を聞かれた感想だとか番組を見られた感想だとか、そんなのが出てきます。特に話の感想についてはけっこう考えさせられたりします。
「へぇ〜、そんなふうに受けとられたんだ」
とか感じる時は、やっぱり
「何があかんかったのかなぁ…」
というふうに思います。
例えば、
わたしたちは誰もが冷たい氷の中に閉ざされている。その氷を溶かす方法はふたつある。ひとつは外からの熱で溶かす方法。もうひとつは自らが動き、氷との摩擦熱で内側から溶かしていく方法。わたしは後者を選ぶ。
というフレーズ。これについて感想が書いてあるブログがあって、
「そうきたか…」
と思わず考えてしまいました。
この方、
「どっちも大事だから両方やればいいじゃん」
というふうに書いておられたんですが…。これ、無理です。「後者」の実践のためにえらい時間と労力と肝臓(笑)を使っていますんで…。これにプラスロビーイング活動なんてぜったいに無理です。
ついでに言うと、わたしは
「わたしは後者を選ぶ」
と言っているだけで、
「前者はダメ」
と言っているわけではないんですよね。というより、
「前者しかダメ」と言っている人がおられまして。
性的マイノリティが生きやすい社会をつくるためには何が為されるべきなのか。O氏は、政治で解決するしかない、ときっぱり言う。
これへのカウンターなんですけどね。
まぁええか…。
どこまでがサポートの範囲だろう…
Anno Job Logにあった「性同一性障害患者の生活支援」のニュースなんですが…。
昼休みの時間帯(笑)に友だちからメールがありました。
化粧のしかたとかボイストレーニングはわかるんですけど、下着や洋服の選び方って好みの問題じゃないんですかね?FTMの場合、誰かに聞くとしたら、小さいサイズの靴を売ってる店くらいなんですけど(笑)。
で、わたしの返事は
ブラのサイズとかむずかしいかも。で、女性は店員さんに聞けるけど、MtFはきついんちゃうかなぁ。
まぁ原文そのままじゃないですけどね(笑)。
で、友だちからの返事
あぁぁ乳隠し!
店員さんに聞けないのはFTMもですねぇ。◯◯もスーツ買う時すんげぇ困った。けど、それって、ホルとかしてパス度あげるしか解決方法ないですよねぇ。
まぁこれも原文そのままじゃないですけどね(笑)。
でも、ホルとかしてパス度をあげるしか方法はないんでしょうかねぇ。少なくとも、諸先輩達の時代はそんなサポート体制なんてなかったし、わたしの時代ですら手探りでやってきたし*1。
本当に大切なのは、わからなければわかる人を探し、あるいは聞くことができる社会性をどう身につけていくかということなんだと、わたしは個人的には思っているのですが…。でもまぁ、そういうテクニックを身につけないと、社会性を身につける機会を奪われてしまうのかなぁ…。
*1:除く化粧(笑)
「仕事」とは何か?
タイトルのような、そんなたいそうなものじゃないんですけどね。でも、これ、「おんなたちの新年会」で出てきた話題の中のひとつなんです。
まぁ「高校教員」なんて仕事をしていると、もう、どこからどこまでが仕事で、どこからが「趣味」なのかがわからなくなります。例えば、生徒と放課後ダラダラと話をするのは、ある意味仕事ですが、ある意味「好きでやってる」ところがあります。在日外国人生徒交流会なんて、もっとそれがきつい。まぁ線引きをしようとすると、うちの生徒をつれていったら「引率・出張」なので仕事になりますが、つれていかなかったら出張じゃないので、仕事じゃないことになります。でも、それはあくまでも制度上の話であって、「気持ち」の問題としてはそういう線引きは、実はとてもむずかしい。
これが「大学教員」になるともっと厳しいみたいです。そりゃそうですわ。勤務時間が特にあるわけでもなく、研究と教育と趣味が渾然一体となっていますからねぇ。で、その中で「成果」をあげることを要求され、「実績」がないと予算がカットされる。ノルマとしても論文を書かなきゃならない。そんな話を聞いていると「しんどそうやなぁ」と思わざるを得ません。
で、わたしにとっての仕事の定義とは何かという話をしていたのですが、それは「エントリのつけかた」と、身もふたもない返しをしてしまいました。でも、あらためて自分のエントリのつけかたを考えた時、ほとんどが「趣味」だったりするわけです。
実は、「高校教員」として求められている「最低限の仕事」って、本当に少ないなぁと思います。授業と授業にまつわるさまざまな準備、そしてそれにまつわる評価。あと分掌の仕事。それ以外に教員として要求されている雑務。そんなものかな。在日外国人生徒交流会とかトランスジェンダー生徒交流会なんて、その中に入っているとは思えません。ましてや、某在日外国人教育関係の会議なんて、完全な「趣味」です。もっというならば、授業への工夫とか生徒との雑談とか、家庭訪問とか学級通信とか、なんだとかかんだとか、こういうのもある意味「趣味」です。「趣味」といって悪ければ「思いこみ」かな。
で、こう考えるとすごく楽なんですね。
ゼロベースはすごく低くて、そこに足していくのはすべて自分の選択。自分が「好きでやっている」と考える。
まぁ逆に考えないと、生きること=仕事になってしまいますからねぇ*1(笑)。
*1:引っ越す前はまさにそうだった