もしかしたらこっちかな?

まぁ東京のことはわからんというかわかるというか…。
で、大阪なんですが…。
もしかしたら大阪の人って、今すごく財布のヒモが固いのかも。
いや、大阪府大阪市も、すごく福祉に力を入れてきました。でも、大阪の「普通の人」は、そういうのに飽き飽きしていたのかもしれないなぁとふと思いました。だから、「自己責任論」が大手をふるいはじめたら、結局そこに流れていく。そこへ持ってきて、東京への対抗心*1が相まって、「大阪維新の会」なんかが台頭をしてくる。
いや、よくわからないし、違うなら違うでいいんですが…。

ちなみに京都は…。
もともとケチだし、まぁそんなに変わるものでもないわけで。だから、大きくは特に変化なしな気がする。

*1:コンプレックス?

「スピードの中で精神は肉体を超越する」

昨日の夜録画をしておいた「つかこうへい」のビデオを見ました。
もう…。のっけから涙です。
いや、なにが涙かというと、
「つかこうへいが動いてる」
っていうこと。こんな涙は、芥川がたばこを吸ったり木登りしたりしているのをテレビで見た時以来ですね。
で、なによりすごいのが口立ての稽古のシーンです。話には聞いていたし、かつて映像を見た記憶もあるけど、今回ほど延々とそのシーンを見たのははじめてです。すごいです。よくぞあそこまでねちねちといけるなぁと思うけど、それが役者への愛なんですよね。それがびんびんと伝わってきます。
で、終盤。つかが自分の芝居について語るシーン。

芝居っていうのはね、F1なんだよ。同じ車が同じコースをぐるぐるぐるぐるまわっている。そんなの、どう考えたっておもしろくないんだよ。でも、それを世界中で70億人が見ている。それはね、スピードなんだよ。
技術だけだったら、車庫入れとか縦列なんとかの方がもっと難しいよ。でも、そんなの誰も見たくない。
技術とかそんなんじゃなくて、スピードなんだよ。みんながコーナーへ向かってノーブレーキでどーんとつっこんでいく。
それが芝居なんだよ。

あぁそうだ。それなんだよ。わたしもそれをめざしたいんだよ。もちろんつかの足下にも及びませんが…。
つかが芝居をF1と言ったのなら、わたしは自分の「お座敷」の遙か遠い目標をWRCにしようかな。まぁグルグルまわらないけど、ピン芸人が全速力で滑りながらコーナーをまわっていく感じ…。

きのうのまとめ

まとめというか、最後にちょこっと話をした内容です。
いつも書いている話ですが、
「人間の行動を変えるのは、外圧ではなく内圧である」
ということでした。でも、その内圧を高めるために外圧が必要だったり、その外圧を高めるためには内圧が必要だったりするわけで。
結局「突破口」なんていうものはおそらくなくて、内圧を高めたり外圧を高めたりするサイクルをどうつくりだしていくのかなんだろうなぁみたいなことです。
なんか、まとまってないですね^^;;

てことで、振り返り

昨日のシンポの何がおもしろかったかですね。
まずは「旧世代に新世代がもの申した」というところですか。
矢吹さんをはじめ、会場にも「旧世代」の人はたくさん来られていました。それに対して、熊谷さんは一貫して自ら(の世代)を「牙を抜かれたわたしたち」と表現してこられました。つまり、ある程度システムができ、スタイルもできた後の世代ということになるでしょうか。そこでは、スクラッチから運動を起こすのではなく、既存の運動にとらわれながらも「そのままでは行き詰まる」という中で、「修正しながら運動をつくる」のか、はたまた「既存の運動を壊して新たにつくり直す」のかみたいなことを考えざるを得ない。ところが、前者をとれば旧世代からは「修正主義」とかいわれかねないし、後者をとれば「おまえらにはわかっていない」と怒られるし(笑)。
で、それだけじゃないですよね。熊谷さんは自分が小児科医をしているという、自分自身のステータスを十分に理解し、それを可能にしてきた運動の歴史も、これまた十分に理解をしておられます。そういう熊谷さんが話をしたところに、とてもおもしろさを感じたわけです。

で、内容ですね。
まずおもしろかったのは「手足論」≒「自己決定論」への疑問の呈示です。
スピードが速すぎてtsudaることはできませんでしたが、こういうフレーズがありました。

究極の自己決定は、例えばお風呂に入った時にこう言われるわけです。
介「どこから洗いましょう」
当「じゃぁ、手から」
介「右手ですか、左手ですか?」
当「じゃぁ右手から」
介「親指からですか、それとも小指からですか?」
当「じゃぁ小指から」
介「指先からですか、つけ根からですか?」
当「もう、どっちでもええわい!」
(笑)

つまり、ある程度自己決定をしなくてすむ状態が一番居心地がいい。ところが、その自己決定をしなくていいシステムが、障害を持っていない人を基準につくられていることが問題であるという話です。なるほどなぁと思いました。

では、どうすればいいのか。そこで、「世界認識」「身体認識」「身体論」が出てきます。
身体と世界の境界線は、おそらくそこに「ずれ」があるから認識できるという感じでしょうか。で、そのずれの中で、身体と環境をチューニングしていく。そうする中で、少しずつ自分の身体の範囲を認識できるようになるし、一方世界認識も獲得できていくという感じ。そうやって身体や世界を認識したとき、次に問題になるのが「介助者との関係」になるわけです。これが「手足論」と絡まってくるところかな。
ここで、介助者との関係についても「チューニング」という言葉が出てきます。

当事者と介助者の世界認識が一致してくると、何も言わなくても介助者は
「あ、あの段差は無理だな」
とかわかってくる。
一方、当事者って障害を持っていない人は万能と思ってしまうわけですよ。そうすると、坂道で車いすを押してもらっている時、後ろからなんとなくあえぎ声が聞こえてきたら
「あ、健常者も万能じゃないんだ」
という当たり前のことがわかってくるわけです。

こうやって、両者の世界認識が一致すると、おそらくは「不要な自己決定」が必要なくなる関係ができてくる。そうした時に、介助者は「手足」となるということのようです。
つまり、なにげなくやればいいことはなにげなくやればいいし、そこをいちいち意識化してやることこそが不自由であるということ。

で、最大におもしろかったのが、「痛み」についての話でした。
これ、もともとは「2次障碍」についての文脈だったので、はじめはあまり興味がなかったのですが、聞いているうちに
「おぉ!」
という感じになりました。
まず、痛みには「急性疼痛」と「慢性疼痛」の2種類ある。で、前者は原因が治ればなくなる。でも、後者は、そもそも原因(患部)がない。
じゃぁ、慢性疼痛ってどういう時に感じるのか。それは、ざっくりと言ってしまうと、身体の「変化」であるということです。
つまり、障害が重くても、その症状が一定していればそれほど「痛み」はない。でも、症状が軽くても、その症状に変化があり、その変化が不安を呼び起こす時に「痛み」が起こる。その時
「どこが痛い?」
と聞かれても
「とにかく痛い」
としか答えられないというんですね。
となると、たとえば生まれながらのCPの人と、中途障碍のALSの人を比較した時、どちらが「痛い」かというと、これは
「ALSの人とちゃうん?」
というわけです。
これは、杉江さんに対する小泉さんの

この人も以前はわたしを差別していた可能性があるのかもと思っていた。

という言葉へのトリプルクロスカウンターになるんじゃないかなぁ。
というのと、なによりもこの話を聞きながら、わたしが思い出したのは、annojoさんの次の一連の考察です。
性同一性障害の苦痛は変化に対してである1
性同一性障害の苦痛は変化に対してである2
性同一性障害の苦痛は変化に対してである3

1. 性同一性障害の悩みは、不一致そのものより変化にある。
2. 変化は自分自身の場合と、比較するものの変化の場合とがある。

これにさらに自分がつけ加えたのが微分と積分というやつです。

変化が急激であっても、その変化を受容できるキャパシティがあれば、それはそれなりになんとかなるんじゃないか。キャパシティって、もしかしたら「風船」のようなものかもしれないと思うのです。あるいは、「シャボン玉」とか「ゴム」かな。
中に入っているものが少ない量だったら、それなりに急激な変化であっても持ちこたえられる。でも、キャパシティすれすれになった時、それがゆっくりの変化だったらそれでもまだまだ持ちこたえられるのかもしれないけど、少量であっても急激な変化(負荷)が加わった時、キャパシティを越えてしまう。
つまり、前提として、それなりの「受容量(積分)」があり、その先に「変化(微分)」があるのかな、と。

で、その「痛み」からの脱出方法がおもしろい。それは、「「知(医療)」の獲得と、それ(医療)を信じること」と言われるんです。ここでおもしろいのが「医療」であって「医者」ではない。つまり、個々の医者については信用しなくてもいいけど、医療全体は「ツール」として使おうということなんですね。
で、信じたあとどうするかというと、「怖いけど、身体を動かす」というんです。なぜなら、「動かさないとチューニングできない」からです。
つまり、常に外界と自分の身体の「ずれ」を意識し続けて、そこから自分の身体のありようを再認識し、自分の身体認識を再獲得し続けていくという感じでしょうか。

この話、もうひとつ思い出すのは、オールロマンス事件の虚構と真実で語られた前川さんの言葉なんですよね。

で、前川さんが「低位性は部落だけにあるのではない。誰かが貧困であるとするならば、その原因がどうであれ、等しく保障されるべきである」という話をされたことに対して、次のような話が出てきました。
「他の貧困はそれが解消したらそれでいいかもしれないが、部落の貧困は、解消されても差別は残る」
あぁ…。久しぶりにこのフレーズを聴いたなぁ。

まぁこれは余談ですが…。

こういう熊谷さんなんですが、

野崎さん「あえて反論を。世界への信頼感が自己決定を担保。では、世界への信頼をかけることができるのか。自分としてはイメージを崩させるものを大切にしたい。言語化できないものの存在が世界への信頼感につながるのでは。
実践的には不安を排除するわけだが、不安を排除することが信頼につながるのか。

に対しては、

破壊することに希望を持てる人は、安定を享受している。ポストモダンとかね(笑)。崩せることに希望を見いだせるのは、マイノリティであれマジョリティであれ安定を享受している人。そうではない人には破壊だけじゃなくて安定へのエネルギーが大切。

と一刀両断なわけです。まさに「旧世代vs新世代」です。
でも、よく考えてみると、熊谷さんって、「変化」が「痛み」を生み出すと言いながら、一方で、

安静にしすぎるとボディイメージが更新されないので、ますますだめの可能性がある。

いままでの自立運動を否定するのではなく、プラス、そのことを考えないとまずいんじゃないのか。いろんな人が入ってくるとシステムは壊れる。すると、牙を抜かれた私たちは考えなくてはならなくなる。システムを温存するだけではリスクが上がる。
先輩たちは「牙を抜かれた」と私たちを言うけど、新しいわたしたちを排除してはいけない。継承したものを受け継ぐためには一回崩さないといけない。

とも言っておられるんです。
このあたりがすんごくおもしろい。

で、わたしなりの結論。
熊谷さんって、バランスをとる達人なんだと思います。で、そのバランスは、「スタティックなバランス*1」ではなく「ダイナミックなバランス*2」なんだろうな。

ちなみにわたしが一番ウケたのは

*1:動作をとめて得られるバランス

*2:動きの中で得られるバランス

読書を邪魔するもの

今日はちょいとお勉強をしに行きたくなったので電車に乗りました。リュックの中には本*1とパソコンが入っています。
さて、本を読もうと広げたんですが、2ページほど読んだところで
「あ、昨日の日記を書かなくちゃ」
と思い立って、ふとパソコンを広げてしまいました。
結局これなんだな。だから本を読めないんだ。
あ、30日締め切りの原稿もあったOπ

*1:旧版『非抑圧者の教育学』(笑)

そういう生き方が大切だと思う

なんの京都組かというと、「まんまるの会」です。
「まんまるの会」の京都組は、今のところMtFの人数がちょい多め。まぁ全体にMtFの方が多い目なんですけどね。その代わり、年齢層は高い(笑)。
で、今日はなんとなく「集まろうか」という感じでMtFが3人集まりました。ちなみに、MtFだけでは寂しいので大阪から2人ばっかFtMを調達。
集まって最初に一番若いMtFから報告。
「就職内定しました」
すごい!
この人、ホルモンは1ヶ月目なんで、やってないに等しいです。改名もしていません。にもかかわらず、望みの性別での就職が可能になったとか。
こういう人が出てくることが大切なんだと思います。
もちろん、みんながみんな可能なわけではない。また、ひとりでやったわけじゃなくて、たくさんの先達がいることも確か。でも、先達が変えてきた社会をこういう人が引き継ぎ、さらに社会を変えていくんだと思います。

そんなことを熱く(笑)語りながら、飲み屋に到着。
あとは、みんなで脱走癖のある手長ダコをつついてみたりしながら、ダラダラの呑み会でした。ふぃ〜…。

なにができるだろう…

まぁなんかいろいろ盛りあがるのはいいんだけど…。
どうにも「ネタ」にしてはしゃいでいるみたいにしか見えない。
例えば「語る」ことひとつとっても、「(自分が)伝えたいこと」と「(相手が)聞きたいこと」にはギャップがある。ついつい
「自分には伝えたいことがある」
と考えて
「語りたい」
と手をあげがちなんだけど、わたしは
「聞きたいことがある」
と言われて
「ありがとうございます。では…」
でありたいと考えている。
基本は相手のニーズにあわせて考えること。
さて、今、わたしになにができるだろう。
とりあえずは淡々とした日常を送ること。過剰に饒舌になるのではなく、静かに動き続けること。そこに、ほんの少しの「笑い」を加えること。そんな感じかな。

送電できない理由

今夜のうちの会話

子「関西から関東に送電できないらしいな」
い「うん、理由知ってるか?」
子「知らん」
い「関西の電気はな」
子「うんうん」
い「ネタが入ってるからや」
子「…」

すんません。

なんのために、誰に向かって

実は会議の最中もずっとニュースのサイトとtwitterをチェックし続けていました。というか、昨日の晩からずっとですね。
twitterでは大量のRTが流れていました。
家に帰って当然テレビを見るわけで。そこでも大量の情報が流れていました。
そんな情報を見ながら、これらの情報は、いったい誰に向けてなんのために流しているんだろうと、ふと疑問に思ってしまいました。
もちろん大切な情報、有用な情報、「ここにいてできる」ことを呼びかける情報、さまざまな情報があり、15年前と今の圧倒的な違いを肌で感じ、それを驚きもし、「すごい」とも思ってはいたのですが…。
でもその一方、ずっと妙な違和感が自分にまとわりついていることを感じ続けていました。
それを言葉化するのはちょっと後になるかな。