「誰かのせい」史観

なんか、最近「悪者探し」みたいなのが横行しているなぁと。あ、最近でもないですね。かなり前からですよね。
そんなことを考えながら出勤していたのですが…。
そういえば、生徒たちと人権について話をしていると
「結局誰が悪いねん」
「政府が悪いんか?」
「政治を変えたらええんや」
「大人が悪い」
といった意見が出てくることがよくあります。そのたびに
「う〜ん、そういうわけではないんだけどね…」
と言うのですが、なかなかわかりにくいみたい。
でも、考えてみたら、わたしたちもかつて
江戸幕府は厳しい身分制度をつくり、その最底辺に被差別身分を置いた」
みたいな話をしてきたので、「誰かのせい」にしていたなぁと。いや、部落差別だけじゃなくて、なんとなく歴史を「原因と結果」みたいなとらえ方をしてきた気もします。でも、こういう「因果関係」だけでとらえてしまうと、結果には原因があって、「悪者がいる」というふうになってしまう。でも、たぶんそんな簡単なものではないんでしょうね。で、言われるわけです。
「わかりにくい!」
「もっとわかりやすく!」
でも、わかりにくいものはわかりにくいものなんです。それをわかりやすく説明した時、どこかに「ズレ*1が混じってしまう。それが、実はすごくこわいところ。
やっぱり、「わかりやすさ」を求めず、わかりにくいことをわかりにくいまま、それでもていねいに話をする以外、方法はないんだろうなぁ。

*1:というよりも「ウソ」

イライラ

と思ったけど…。
大阪なぁ…。
みんなイライラしているんやろうなぁ。でも、その選択があれか…。自分の首を絞めるだけだというのに…。でも、もしかしたら、「選択」をした人は自分の首が絞まっても、それは自分の選択のせいとは考えず、だれかのせいにするのかな。

流儀の違い・全同教2日目

朝起きると軽く頭痛。これはきっと風邪の影響がまだ残っているのでしょう。とりあえず朝食を食べたら、それでもけっこう体調は回復。
てことで、分科会へ。
今日も思わず発言しまくりです。もっとも、わたしよりもっと発言している人はおられましたが…。

ところで、それぞれの地域の置かれた状況で、子どもへのかかわり方の「手法*1」はそれぞれ違うと思います。すごくシステマチックにやるところもあれば、ベタベタのかかわり*2をするところもあります。また、高校なんかだと、校内のポジションによっても全然違います。たとえば担任だとクラス運営をしながら子どもたちにかかわるだろうし、それ以外の分掌だと、ピンポイントで課題のある子にかかわることになります。そんなことを考えながらも、やはり「流儀の違い」みたいなものが気になったりします。
ちなみにわたしは…。
おそらくいくつかの「時代」があったように思います。
まずは「ベタベタのかかわり」をしていた頃。あの頃は、担任を持たせてもらえず、教科でしか子どもとかかわれなくて、それでも一生懸命子どもと「話」をしていたなぁ。
続いて担任をはじめた頃。あの頃は、おそらくすごく熱いかかわりをしていたんじゃないかなぁ。「非行は宝」と心に刻んで、「謹慎上等!」みたいな感じでした。家庭訪問の件数は学校の中でずば抜けて多かった頃ですねぇ。
そして担任末期。この時が大きな転換点でした。「子どもを変えるのは子ども」ということがわかった。それを教えてくれたのはMという生徒をはじめとするクラスの子どもたちでした。わたしがやったことは、子どもたちのネットワークをどうつなぐかということ。子どもたちがどう動くか。その動きをじゃましないようにしながら、その動きを側面からサポートする。どのことどの子をつないだらどうなるかということを意識していたし、どのことどの子がつながっているか、その関係が変化しているかを、常に見ていました。そうして、子どもたち同士がつながっていった。
現在は…。とてもではないけどシステマチックにできるような状況ではありません。そこへ持ってきて、担任をしていないから、自分の「実験場」も持っていません。とりあえず、それでも自分が「実験」できる場としての授業から、子どもたちのネットワークづくりをどうしていくかということかなぁ。そんな中で、しんどい生活をかかえている子や、ともすれば脱落しそうな自分を叱咤激励しながら疲れてしまった子や、学力をつけてこられなかった子や、あんな子やこんな子が、それでも自分なりに学べる空間をどうつくるかということ。そこに、「学び」をコーディネートする人間として存在したいなぁと思っています。そうとう難しいですけどね。
そしてもうひとつは、学校の外に「場」をつくること。「場」と「場」の出会いをコーディネートすること。子どもたち同士が話せればいいんですよね。わたしはそこにいるだけで、たぶんいいんです。「わたし」はいるけど、「わたし」はいない。そんな感じ。
どんどん存在は引いていっているけど、仕掛けは前より増えたんじゃないかなぁ。

*1:作法?

*2:これはもちろんほめ言葉

金魚の気持ち

うちにかれこれ3〜4年飼っている金魚がいます。うち一匹が、ここ数日水槽の底で横になっています。いよいよ最期の時が近いのかな。
ところが、けっこう長生きしてくれています。
パートナー曰く。
「横になってるの、メスやねん。で、オスがな、一生懸命かまってやってるねん」
そうなんや。確かに横に行って一生懸命つついたり、起こそうとして下に潜ったり。ヤツはヤツなりに一生懸命なんですね。
でも、そんな姿を見て、「死」というものを妙に身近に感じてしまいました。

やっぱり電車が楽

今日は午後から出張。で、夜は呑み。少し考えたけど、今日の出張は電車で行くことにしましょう。
で、実際に行くと。
楽ですね。ほんとうに。車だとのんびりできないし、バイクだともっと集中していないといけません。でも、電車だったらぼーっとしていてもいいし、他のことを考えていてもいい。あたりまえのことだけど、あらためて感じます。そうそう、駅から歩くというのも、これまたいいかも。
マジで、ライフスタイル変えてみたい気がしてしまいます。まぁ、無理だろうけどね。

子どもたちが聞く話

今日は保健関係の講演がありまして、わたしは例のごとくセッティング。まぁそれはそれでいいのですが。
せっかくの話を生徒たちはぜんぜん聞いていない。大切な話をしてくださっているのになぁ。それにしても、人権学習の講演とはまったく違います。なんでなんだろう…。
たぶん、子どもたちのなかで、話には二種類しかないのかな。「いい話」と「おもしろくない話」。で、「いい話」は、たいてい当事者性をおびた具体的な経験談。たとえ「大切な話」であっても、「おもしろくない話」であったら聞かない。
でも、「大切なこと」って普遍的な部分があって、必ずしも当事者でないと話せないとは思わないし、逆に当事者だと体験の強烈さにマスクされて伝わりにくい側面すらあると思うんやけどなぁ*1」。
まぁ、「大衆操作したい人」にとっては、すごくやりやすいだろうけど、それはまずいだろうと。
で、そういうふうになってしまう原因のひとつに、「子どもたちに聞かせよう」として、当事者に話をしてもらってきた「わたし(たち)」のやり方がある。やっぱり一度そういうのを聞いちゃうとねぇ。
あぁ、ジレンマ。 

*1:あと、「なんで当事者がしゃべらなあかんねん!」てのもあるんだけど、それはここではおいといて…

ほんまにようがんばってはる

今日は午後から学力向上の指定を受けた中学校の研究発表会に行って来ました。
この中学校、いまから15年ぐらい前に、そこの教員が「うちの学校は、京都府で一番学力が低い学校です」と胸を張っていっていた学校です。いまはどうだろう…。最下位かどうかはわからないけど、まぁそこそこのところで闘っているんじゃないでしょうか。
ここ、かつては「就学保障」のとりくみに重点を置いていたと言います。まさに「今日も机にあの子がいない」をどうするかというとりくみですね。その後「進路保障」にとりくみの重点は移っていきます。「高校進学率を全国並みに」という感じでしょうか。で、現在は「学力保障」です。つまり、「高校に進学しても、その後の進路はどうなっているか」ということなんでしょうか。
でも、学力保障って、一口に言えるほど簡単なことじゃないです。なぜなら、現場の教員がどれだけがんばっても、実はそう簡単につくものじゃないからです。で、どうするか。この中学校の場合、中学校区全体のとりくみとしてさまざまな連携をはかっています。というか、中学校ひとつの問題じゃなくて、その街全体の課題として学力保障のとりくみをしています。だから、教育委員会はもちろん、保育園・小学校・地域、そして卒業後の高校も含めて、どうやって子どもたちに学力をつけていけばいいのかを、15年ぐらい前からずっととりくんでいる。その通過点としての発表会でした。
授業はとても楽しくわかりやすい。でも、そこで話をされている内容を聞いて、やっぱり愕然とします。まぁ、うちの子どもたちと同じとも言えますが(笑)。
研究発表会を聞いて、もう、すごいていねいなとりくみをしておられるのがよくわかります。というか、発表会を聞くまでもなく、保・小・中のとりくみは日々知っていますから。でも、その時に子どもたちの教室での話を思いだして、やっぱり「あぁ…」と思ってしまいます。
なにをどうすればいいんだろう…。

いつきの取り柄

  • 笑い

ただし、すべることが多々ある。

  • 深く考えない

ただし、右往左往してしまうことが多々ある。

  • 酔うと寝る

ただし、大切な話を聞き逃したり、いらんところで降りたり、必要なところで降り過ごしたりすることが多々ある。

まぁ、これくらいか…。3つもあったら上出来としよう。

温故知新

慌ただしい数ヶ月が終わって、ふと我に返ると日常の日々です。
てことで、日常業務にもどりましょう。まずは、各クラスから出された感想文打ちかな。淡々とした日常を大切にしないと、やばいやばい…。

スタートかゴールか

今日は京都府北部の学校で人権教育の研究指定校の発表会です。なので、授業が終わって速攻でかけました。
まずは公開授業。1年生は「調べ学習」の発表会です。高校では今日日珍しいんじゃないですかねぇ。2年生は「多文化共生」がテーマですが、教室をのぞいてみると、やってることがバラバラです。いいなぁ…。担任さんが自分で考えて、自分の伝え方でやっておられるんでしょうね。きっとうちの学校でもできるんだろうけど、そこに踏み切るのが難しいんですよね。
そのあとは講演。こちらは…。まぁお弁当直後だったということで(笑)。
で、研究発表会。
冊子を見ると、ほんとうにいろんなことをやっておられます。頭が下がる思いです。でもなぁ。
来年度以降も続けられるんだろうか。
うちの職場で言うなら、発表会の翌年から人権教育は縮小されちゃいましたからねぇ。
指導主事の方は
「これをスタートに」
と言っておられました。ほんとうにそうしたいし、そうでないといけないと思うんだけど…。