いまのところの一里塚

今週一週間、基本的には金〜日の寝不足が響いて(笑)あまり高いテンションではなく過ごしてきました。でも、あくまでもそれは現象面のことであって、その中でずっと「人権」のおかれている状況についてフラフラと考えてました。
というのは、この間、大切ななかよしさんが、ふと
「社会って枠組みの本質を、みんながみんなで見直さなくちゃって思わないのかなぁ… 」
ってことをつぶやいておられて*1、そのことが自分の経験とからまって、ずっと頭にひっかかっているからです。

で、今日、なんとなく
「こんなものなのかなぁ」
とふと思ったこと。

今日、とある研修会がありました。とある受験産業の方が来られて、そこの資料を使った進路指導方法についての研修会でした。
まぁ、最新の情報も入ってくるし、資料から引き出せるさまざまな情報は、進路指導だけじゃなくクラスづくりにも生かせそうだし、教科担当としても個々の生徒への声かけのヒントがもらえるし、それはそれなりに有意義ではあったのですが…。
でも、結局、「枠組みの本質を見直す」ことではなく「枠組みの中でどうやっていくか」なんですよね。
でも、たぶんその方が役に立つ。だから関心もひきやすい。
もっと言うと、「枠組みの本質を知り、見直す」ことへの切実さを持つ人は少ないんだろうなぁと、あらためて実感したということでしょうか。

もちろん漠然とした不安はあるかもしれないけど、日々の忙しさの中で落ち着いて「枠組み」について考えることもできず、そこに疑いを持つヒマもなく、そこで生きていかざるを得ない。
あるいは、「枠組み」のなかで生きることこそが善であるという人もいるかも。
学校教育労働者だからといって、みんながみんなリベラルなわけではないし、「そうあるべき」と思っているわけではない。というより、学校って、本来「枠組み」を維持・強化することを要請されている面があります。
となると、「枠組みの本質を見直したい」と思うわたしは、ほんとうにアウェイやなぁと。

そう考えた時、今の自分の感覚が理解できたような気がしました。それを認めることは本当はしんどいことなんですが、かつてやってきたことでもあります。そして、かつての状況よりは、おそらくははるかにマシ。
であるからこそ、あえて

独りであること
未熟であること
これがわたしの10*n歳の原点である

(笑)

*1:ついったではないです

毎年のことだけど…

で、懇親会。さぁ飲むぞと思ったら、なぜか「あいさつ」がはじまりました。そのあいさつが長い!もうね、頼むわ。目の前にビールとご飯があるのに食べられない。でも、あいさつしている人は、まったく気にせず、いいたいことをしゃべっています。
だからぁ!
話したいことと聞きたいことのギャップをうめる努力をしてくれ!ったく、教員ってヤツは(笑)
まぁ去年みたいなことはしなかったから、わたしのちょっとは大人になったのかな(笑)。

透明な存在としてのわたし

今日は、午後に「国際理解教育」なるものがあります。これ、実はうちの職場では人権担当の仕事じゃなくて、別のセクションがやっています。まぁ、もともとが留学生なんかとの交流っぽいことをやっていて「異文化を英語を使って知る」みたいなところからスタートをしていたので、当然といえば当然なんですけどね。
でも、基本、そこから人権を考えるというスタンスはやっぱりあるわけで、そういう意味では「いろんなセクションが人権を担当する」といういい方向なんだとも思います。
で、今日はゲストを招いての講演会。講師は坂本達さんです。
それはどーでもいいんですけど、わたしとしての関心事は「なにをするか?」なんですよね。それにともなって必要な機材が変わってきますから。
で、教えてもらったところによると、パソコンでスライドショーをするから、プロジェクターがほしいと。なるほど、じゃぁスクリーンもいるわけね。で、パソコンから音を出したいと。なるほど、ミキサーもいるわけね。って、フル装備じゃん。うれしいです(笑)
てことで、3時間目から準備開始。授業をはさんで、昼休みに機材セット。そのまま坂本さんが来られて調整開始。
で、いよいよ本番。とは言え、第一声が出る瞬間までは緊張です。
無事講演が始まってホッとひと安心。それから昼ごはん。って2時かよ!食べ終わったらすぐ授業。授業が終わったら撤収。終了したら4時。
ちなみにわたしは今日の講演会の実施要項の役割分担には入ってません(笑)。でも、一番肉体は使ったよなぁ。まぁええか。それが放送スタッフ。透明な存在としてのわたしです。

あ、講演そのものはお弁当食べて授業があったので、まったく聞けませんでしたよ(笑)。

タスク管理

でも、トド狩りの最中にジャマが入ることがあります。イレギュラーな仕事なら、それはしかたありません。でも、わたしが自分のペースでやっている時に、、他の人がその人のペースでわたしにタスクを入れてくると、これはきつい。
ちなみに、わたしは他の人にタスクを入れることはほとんどないし*1、仮に入れる時は
「ごめん、ちょっといい?」
と、とりあえずひとこと言います。
それがないと、わたしはきついなぁ…。

*1:簡単に言えば、ひとりで仕事をしてるってこと

プライベートとパブリック

去年までうちの職場にいたある教員が
「最近の生徒って、プライベートとパブリックの区別がついてへんのと違うかなぁ」
と言っていました。それをここしばらくよく思い出します。
たしかにそうなんですね。
例えば、ふつう見つかっちゃいけないこと(笑)は、パブリックなところでは隠すものです。でも、それを隠す意識が希薄。だから見つかる(笑)。ものに対する意識も同様です。パブリックなものをプライベートと勘違いしている。
つまり、すべてのことが、プライベートと地続きになっている。もしかしたら、生徒たちにとってのパブリックは、バイトぐらい?
これ、もしかしたら、保育園・幼稚園〜高校までの間の子どもたちと教員・保育士の距離のとり方に原因があるなかもしれないなと思いました。
当然就学前ではすごく近くて当たり前。でも、おそらく小学校に入った時、子どもたちに
「ここはパブリックなところ」
という感覚を少し教えなくちゃならないんじゃないかな。さらに中学校では、その度合いを高める。そして高校では「社会」という完全パブリックへの準備をさせる。発達段階に応じて、パブリックな場所を増やしていくトレーニングを校種間で連携しながらやっていく必要があるんじゃないかなぁ。
でも、しんどい子がたくさんいる学校では、おそらくとてもじゃないけどそうはいかないんだろうな。それは家庭の経済状況や教育力とも関係があるかもしれない。
例えば、家の中でのパブリックとプライベートをきちんとつけていれば、それは外でも応用できます。でも、プライベートが保障できない家であれば、必然的にその境界はにじみます。
それでも例えば、
「よそはよそ、うちはうち」
と言い切れれば、また違うかもしれない。
あるいは、道端で「おいた」をしている子どもに
「公共空間でなにをしている」
と怒る地域の人がいれば、また違うかもしれない。
ほんとうに、社会全体でとりくまないとどうしようもないなぁと思いながら、電車の中で音楽を聴きながらスマホをいじるわたしですよ(笑)。

踏み込め!

最近、電車通勤に変えたおかげで、すっかりバイクに乗らなくなって、かわりに短時間ではあるけど自転車に乗るようになりました。
うちから最寄りの駅まではゆるい下り。行きは急ぐから本当に助かります。
で、帰りは…。疲れてはいるけど、ここをがんばって走ってみます。
頭の中には
「ペダルをクルクルまわすな。踏み込んで負荷を感じろ!負荷を感じなくなったら、負荷を感じられるところまでさらに踏み込め!」
という声がこだましています。
ヤバイかもな。

ある訃報にふれて

昨日の夜、大切な友だちから一本のメールが入っていたみたいです。それを読んだのは朝。「○○さんが亡くなった」とだけ書いてありました。はじめ誰かわからなかったのですが、フルネームを知って、ようやく誰なのかわかりました。おそらくわからなくて当たり前なほど、あまりにも若すぎる死でした。
その訃報を抱えたまま、通勤電車に揺られながら、職場への坂道を登りながら、いろんなことを考えました。
それにしても、なぜいま自分は生きているんでしょうねぇ。考えてみると、不思議です。今の世界を見渡すと、死なずにいる自信がない。ほんとうに、ごく身近に感じます。でも、わたしは生きている。なんでやろ…。
ふと思いました。
たぶん、わたしの場合は、仕事してるからだな。仕事が充実しているとか、そんなことではありません。仕事をしていることそのものです。だから、思索が中断される。それはわたしの場合は仕事だけど、なんでもいい。思索が中断された時、思索をしている時近くにあった死から、ふと遠ざかる。
逆に言うと、たとえ仕事をしていても、思索を中断しない力のがわたしにあったら、案外死は近くにあるのかもしれない。

思考の継続と中断

まぁ、「思考」というほどのものではないですが、それでも少なくともわたしは、たいていの時間をなにか考えながら過ごしています。まぁ、その中身は、家に残ってるビールの本数とか、そこから逆算していつビールを買いに行かなくちゃならないかとかいった、きわめて日常的に重大な(笑)ことから、ガチで深く思考の中に潜り込まなきゃならないこともあるわけです。
で、いまわたしにとっての喫緊の課題としては、人権学習の資料づくりというのがありまして。
いや、本来はそんなもん担当する人が自分でやらなきゃならないと、わたしは思っています。少なくとも、わたしは自分が担任の時、人権学習に限らず、たいていの資料は自分でつくってきました。だって、その方が使いやすいもん(笑)。
でもまぁ、今はニーズがあるからやるわけですが…。

人権学習に限らず、資料づくりって、まず「何を伝えたいか」について、ボンヤリと考える時間が必要なんじゃないかなと思います。はたから見たら、単にサボっているようにしか見えません。で、自分でも頭の中がフル回転しているわけじゃない。やっていることは、その辺に浮いている雲か綿菓子を集めるような感じです。でも、それをしばらくしていると、やがて自分がなにを感じているかが少しずつ形になってくるのです。そこからやっと「どう伝えるか」のフェーズに移行します。わたしはそんな感じ。
で、一番時間がかかるけど、一番中断を嫌うのは、そのボンヤリと考える時間なんです。
ところで、ガッコというのは、とにかく「中断」の多いところです。まずは、50分刻みの授業。そして、あちこちから飛んでくる「声」。すべてがチャイムで厳密にタイムキープされていますが、やはり授業や掃除などの「時間」を記憶しています。すると、それそのものが、すでに思考を中断することにつながります。
人によっては、もしかしたらさほどのストレスではないかもしれませんが、この状態で「考える」というのは、わたしにとっては、かなりのストレスになります。

今日もそんな感じ。今日は出張日なので、授業のコマ数は少ないのですが、長い時間をかけて考えることができずに、かなり苦しみました。
それでも、まぁなんとか「雲」をまとめてひとつの形にして、資料はできました。できあがったものは、たいしたものではないかもしれませんけどね^^;。

半信半疑で

中間試験も終わって、今日から授業再開。とりあえず、今日はテスト返しです。
最近、あえて生徒たちに点数の分布を紹介するようにしています。というのは、クラスの傾向が丸わかりになるからです。ただ、そこからどういうメッセージを伝えるかは、伝える側の問題というか、さじ加減なわけです。こいつを自分の都合のいい方向に解釈して人民を操作することもできるし、子どもたちを勇気づける方向にも使えます。
でも、大切なのは、そこに意図があることを意識することかな。意図を忘れて自分のメッセージを自分自身が信じてしまうのが一番こわい気がします。

文章を書くということ

いままで自分が書き散らかしてきた文章って、どれくらいあるだろうと、ふと考えることがあります。
まぁ、子どもの頃の作文はともかく、高校の頃に行っていた塾では任意で論文添削なんていうのがあって、そこにしょーもない文章を書いて出していました。それでも、塾の人はガチで添削してくださってたみたいで、今思うとすまなかったなぁと。
大学の頃は、クリスマス礼拝をやる時に「趣旨文」みたいなのを書いたり、頼まれた文章に好きなことを書いたりしていました。この間、本棚を整理していたら、そんなもののうちのひとつが出てきて、読んだ瞬間「キャッ」っと言って、布団をかぶりたくなりました。
教員になってからは、どちらかと言うと、実践報告がメインでした。はじめのうちは好きなことを書いていたけど、全国の研究集会に出さなきゃならなくなった頃から、あきらかに文章が変わりはじめました。まぁ、トレーニングをうけたってこともありますね。最近はそんなレポートを書くことが減って、今度はオファーがあって書くことが増えてきています。

なんか、そんな文章遍歴を見ていると、自分が書きたいものから、少しずつ「読み手」を意識しはじめて、さらに「読まれること」を前提にするようになって、いまや「読まれるための文章」に変わっていってるなぁと思うのです。

で、今日、「おべんきょ」のあと、「おべんきょ仲間」で呑もうと思ったら、きょうの「おべんきょ先生」も混じって下さって、なんかいろいろ話をしました。すると、先生、なんの話からか
「M論文は、読み手のことを考えず、評価を考えず、とにかく自分が納得することを書かなきゃダメ!そうでないと、自分の軸がぶれてしまう。すると、その先論文が書けなくなる。M論文は、人の評価を気にせずに、本当に書きたいことを書く経験をするためにあるの!」
と力説されました。
いや、身のすくむ思いがしました。果たして自分にそんな文章が書けるだろうか。それ以上に、今の自分に本当に書きたいことがあるんだろうか。
まぁ、でも、今って、それを自分の中から見つけ出し、熟成させるまたとない時間なんでしょうね。