中間試験までまだ一週間半あるというのに、もはや試験範囲が終わってしまいました。
なにしよう…。
まぁ、週末課題を配って
「今やってもいいよー」
ってことで逃げ切るかな。
てことで、朝からプリントをせこせこつくりました。
で、教室に行ってプリント配付。
と、大切なものを忘れていることに気がつきました。で、あわてて職員室にとりに帰って、再びプリントを配付。
「みんなね。これ、忘れてた。でも、絶対忘れちゃいけないものだった。みんなが忘れそうにになってる今、もう一回思い出そう」
子どもたちは、不思議なほど一生懸命読んでました。
うん、まだまだやれる!
カテゴリー: 考え
空約束
まぁ、終わっとるな。
「困る」ということ・管理職との面談にて
かつて管理職なんてケンカ相手だと思ってたわたしですが、最近はめっきり丸くなりまして(笑)。もちろん管理職になりたいなんて気は毛頭ないですが、それでも「ご苦労さんやなぁ」とは思うわけです。
そんな中でも、教職員評価なんてものが導入されて、管理職の仕事量が激増しているみたいです。
そもそも「管理職」が「管理」するものはなにか?どうも「評価せい!」とか言っている人々は「教職員を管理する」って誤解してるんじゃないかなぁ。じゃなくて、学校全体の管理責任者なわけで、その仕事はもっと多岐に渡るし、そのすべてを「一人で管理」ってやると不可能だから、役割分担があるわけです。もっと言うなら
「ボク*1が管理者なんだから、みんな言うこと聞け!」
では学校は動きません。じゃなくて、各セクションから出てきた話を総合的に調整したり追認したりして「最終責任をとる」ってのが、おそらくは管理職なわけです。
ま、そんなことはいいんですが…。
で、教職員評価の関係で、年2回の面談と年1回の授業参観がありまして、まぁそれだけでもたいへんだなと。だって、講師以外の教職員、うちのガッコだと60人くらいいて、面談ひとり1回30分と授業が50分。うわぁ(笑)。
ま、そんなことはいいんですが…。
で、今日、管理職と面談をしたわけです。
で、開口一番
「去年、やってほしいと頼んだこと、覚えてる?」
^^;;。
忘れました(笑)。
ま、いいんです。それを直接は忘れても、課題は同じですから。基本的に「経験の継承」です。
これは難しい。なにせ、最近雇用される人は優秀です。そつなくこなすんです。わたしのような大量採用時代の粗悪乱造教員が3年とか10年かけてできるようになったことが、1年とか2年でできるようになります。
でも、なにかがちがうんですよね。それは、たぶん雑味かな。灰汁といってもいいかな。
そんなことを考えながら、校長に
「あの子ら、困ってないんじゃないでしょうかねぇ」
と言ってみると
「われわれとはベースが違うから」
と同意されてしまいました。あ、そうか。困るところまで行ってないというか、困ることをしていないというか。
「同和教育で何を学んできましたか?」
って聞かれたので、いろいろ考えたけど
「「保護者や地域の思いを聞く」って、やはりすごくおおきかったですね。最近は保護者や地域の思いや願いを聞くというより、「学校の思いや願いを聞いてもらう」みたいな感じな気がしますからねぇ」
っ言ったら、笑われてしまいました。
「「学校の思いを聞いてもらう」その通りですね」
って。
保護者や地域の思いを聞くと、困るんです。できることとできないこと。できるけど困難なこともある。現実との乖離もある。その狭間でもがくのがわたしにとっての、教員というか担任というか、そんなのの役割でした。それが雑味や灰汁を育ててくれました。
学校の思いを伝えるなら困りません。なぜなら、子どもや保護者にとって、学校は権力を持っているからです。ふたつの「正しさ」がぶつかった時、権力側の「正しさ」が勝つとは、月曜日の金城さんの言葉です。だから、どう伝えるかという困り感はあっても、「自分の価値観そのもの」に揺るぎはない。だから困らないんです。
てことは、どう困ってもらうのか…。あるいは、困った体験をどう共有するのか。
今年のテーマにしてみようかなぁ…。
*1:ここはあえて「ボク」(笑)。
京都府民の人権意識調査からわかること
今日は某研究会の総会です。眠い目をこすって(笑)参加しました。まぁ、事務局やってるから当然のことです。
で、午後は記念講演。講師は「おべんきょのセンセ」です。
講演の内容は、個人的にはすでに2回ほど聞いていますが、でもだからこそ「みんなに聞いてほしい」と思う内容でした。
とても簡単に言うならば、京都府民の部落への忌避意識は、10年前も20年前も現在も、さほど変わっていないということです。となると「んじゃ、やっても意味ないじゃん」となるのですが、実はそうでもない。それは地域差があるからです。有り体に言うなら、京都府中部・北部は忌避意識が低く、京都市内と南部はそれが高い。なぜなら、中部や北部は人権啓発をかなりていねいにしておりるからなんですね。ま、それ以外に、「部落のありよう(周囲の捉え方)」みたいなのも関係するんじゃないかと、なんとなくは思いましたが、それはおいといて…。
では、どんな啓発が有効かというと、ここで「接触仮説」というのが出てきます。簡単に言うならば「差別と闘っている人間と出会ったことがある」という回答と「差別はいけない(「どちらとも言えない」とは回答しない)」という回答の相関関係があるってことです。で、この時の「差別と闘っている人間」は、別に当事者である必要はない。てことは、例えば、学校で言うなら当事者ではない教員でもいいし、社会教育で言うなら、当事者ではない人権擁護委員でいいわけです。
これはとても気が楽です。だって、自分がやればすむわけですからね。
また「魅力ある啓発」としては、やはり当事者の講演はとても有効です。
つまり、このあたりを組み合わせていくことで、学校教育の中での人権教育のヒントが手に入るわけです。
まぁ、ぶっちゃけな話をするなら、直感的には感じていたし、結局昔からやっていたことなんですけど、昨今の状況の中でくじけそうな気持ちになることもあるわけです。それをデータとして見せてもらうことは、ちょっと後ろから背中を支えてもらえる気がして、やはり元気になるんですよね。
「これまでやってきたことを、もう一歩前へ」
って。
朝起きると、やはりめっちゃしんどいです。この体調で…。悩みます。しかも、なんだか仕事が詰まって、やりたい仕事がろくにできない状況です。頭の中を「おべんきょー」という言葉がよぎります。行くべきか行かざるべきか。
とりあえず、お友だちのS納さんに
「今日の集まり、出席連絡してないんですが、頭数に入ってるんですか?」
とメール。すると、電光石火で
「もちろん!二次会もさくっと」
という返事。
「り、りょうかい」
「ふひひ」
というわけのわからんやりとりがあったので、すべてを振り払って行くことにしました(笑)。
向かった先は、関西沖縄文庫。今日は「ちゃんぷるーを食べながら、戦争と平和の境目について語る会」という謎の集まりがあるとか。ちなみに話題を提供して下さるのは金城馨さんと辛淑玉さん。いやがおうにも期待が高まります。
ちなみに、金城さんの話は何度か聞いていますが、辛淑玉さんの話を聞くのははじめてです。どんな話をされるんだろo(^^)o。
会場に到着すると、いきなりS納さんが辛淑玉さんに
「カウンターの闘士」
とかいう紹介をされます。いや、ちゃうし^^;;。でも、リュックについてる缶バッチを見て、辛淑玉さん、「おぉ!」みたいな反応されていました。普段はいきなり殴られるんじゃないかなんて思うこともあるだけに、いいこともあるもんだなと。
で、おふたりの対談。
硬と柔、急と遅。クリスタルブレードのような輝きを持つ辛淑玉さんの言葉。かたや、金城さんの言葉はしなやかに届いてくる、なんと表現すればいいのか、例えようがない感じです。
そんなおふたりの話を聞いていると、自分の中から「考え」が引き出されてくる感じです。
辛淑玉さんの
「帰化した韓国人も日本人とみなされていない。沖縄も日本人とみなされていない。たぶん部落もそうでしょ。セクマイだってそう」
という言葉は、実はストンと落ちてくるものでした。かつて金城さんの講演で聞いた話とつながるものでした。初めて会ったふたりとは思えません。
にしても、金城さんのものの考え方、好きですねぇ。
「深く考えると疲れて考えるのをやめちゃうので、「もう少し考える」んです」
なるほどなぁ…。「少し考える」ことを続けていくことで、いろんなことを考えることができますよねぇ。
ま、そんなこんなで、30分ちょいのセッションのはずが1時間近くになって、晩ごはんタイムです。まさに「ちゃんぷるー」な食卓にさいぼしの差し入れがあったりして、めっちゃ豪勢です。オリオンを飲みながら、今度は自己紹介。ひととおりまわったところで、突然辛淑玉さんからの金城さんへの質問タイム。これがいいツボついています。聞いてる人、みなさん爆笑しながらも「なるほど」を連発です。
で、9時をまわったところで二次会会場へ。
ここでわたしはちゃっかり辛淑玉さんの隣に陣取って、あれやこれやと話。テンション高く見えるけど、情が深い人ですね。
うーん。この場を去るのがあまりにも惜しいです。結局、最終電車を見送って、デッドライン電車で帰りました。
でも、一点の悔いもないです。
素晴らしい企画をありがとうございます→S納さん!
半径1メートルをつなぐこと・「地球のステージ」がやってきた!
今日は朝から緊張しまくりです。なんせ、午後を半日使って「地球のステージ」鑑賞ですから…。
今年度、うちの職場の人権学習のやり方を大きく変えました。これから3年間かけてそれを完成させていこうと思っているのですが、その第一弾が、今日ある「地球のステージ」なんですよね。
にしても、同じ日に「生徒会選挙」があるのが致命的ではありますが^^;;。こんな日程組んだの誰やねん!って、わたしか^^;;。
でも、なんだかんだで無事開演。
うーん、ざわつくなぁ…。なぜだろう。たぶん、一部の人間なんだと思うんだけど…。
たぶん、「聞かない生徒」は「無関心」なんだと思うのです。じゃ、そういう生徒が関心があるのは?もしかしたら「半径1メートル」の範囲の出来事なんじゃないかなと思うのです。なので、そこからはみ出た「地球」には関心がない。アフリカで起こる戦争や、そこで死んでいく子どもの姿、あるいは熱が下がって喜ぶ桑山さんの表情には関心がない。
じゃ、「聞く生徒」や「わたし」の世界は半径2メートルなのか?
それは違うと思います。やはり、わたしたちの世界も「半径1メートル」でしかないのです。じゃ、なぜ関心が起こるのか。それは「半径1メートル」同士が重なる部分を感じるからじゃないかと思うのです。
「半径1メートル」のふたりが、ほんの少し近づくと、「20センチの重なり」ができる。すると、「重なり」の向こう側に「180cm」の「和集合部分」ができる。そうやってできた「和集合」をたどっていけば、やがてそれは100メートル先にまで届く。そうやって「世界」を広げ、そこに感心を持つことができるようになる。
そんな気がするのです。
世界を広げるためには、人と人との距離を少し近づける。のかな…。
うわ。桑山さんが厳しい言葉を!
水を打ったような静けさです。時にはこんなのも必要なのかもしれません。注意を向けることによって関心を持つこともあるかもしれません。
でも、桑山さんが厳しい言葉を向けたのはわかります。自分の「地球旅行」は無関心でも耐えられるけど、「震災」の話は耐えられない。
そんな桑山さんの気持ちを、自分のこととして子どもたちに伝えることで、桑山さんの笑顔と、そして厳しい言葉の裏側に込められた「無関心への悲しみ」と「無関心への怒り」を伝えることができるのかもしれません。そして、それがわたしたちの仕事なのかな。
公演終了後、何人かの生徒が真っ赤な目をして桑山さんのところに行きました。あとで
「「1年生ですが、うちの学校の生徒がすみません」って誤ってくれた」
と、桑山さんは話してくれました。そして
「今日は、とても満足できた公演でした」
と笑顔で話してくださいました。
きっとそれはホントのことなんでしょうね。
うーん。
明日からが勝負です。まずは、授業の雑談からかな…。
エネルギーの処し方とか…
今日も「人生」を聞かせてもらいに行きました。
まぁ、わたしは精神科医やカウンセラーではなくて、一介の教員というか、「おべんきょ途中」な人ですから、人生を聞かせてくれるのは「話してくれることが可能な人」ばかりなんですね。でも、そういう人の話を聞くことが、実は大切なんじゃないかなぁというふうにも思うのです。まぁ言ってみると「問題解決型」の「ソリューションバンク」です(笑)。
なんか、話を聞いていて、内側にどんな形でエネルギーがたまるのか。そのたまるスピードと、そのエネルギーをどう処すのか、そんなあたりがすごく大切なんじゃないかなぁという気がしてきました。
にしても、ほんとにみなさん、しんどかったことも話してくださいます。それだけに、恐縮もするし、なんか、びびってしまいます。でも、感謝なんでしょうね。
ネタはいたるところにある
今度、車いすユーザーを含む飲み会をすることになりました。で、店を探すわけですが…。
その過程で、いろんなことに気づかされます。
いや、かつて「電動車いす3台縦列駐車」な飲み会をやったことはあるので、その気になればバリアを参加者一同で踏みつぶすことも可能だってわかってるんですけど、それは車いすユーザーさんの「意思」というか「趣味」というか「ノリ」というか「茶目っ気」というか、そういうのにかかってるんですよね。で、今回は「踏みつぶしタイプ」じゃないので、車いすユーザーがあたりまえに一緒に飲める店にしようと思いました。
で、探しはじめたけど。
わからない!
「ない」とか「ある」とかじゃなくて、そもそも情報がない。いや、探せばいろんな人がそういうサイトやブログをつくっているみたいなんですけど、例えば、食べログとかぐるなびとか見ても、わからない。例えば、「バリアフリー対応」って書いてあっても、それが「どの程度のバリアフリー」かがわかりません。てか、そもそも「バリアフリー」についての記述がない。いや、店としたら情けない話なんだろうけど、「バリアフリー非対応」と書いてあれば、それはそれでひとつの情報です。でも、書いてなければ、いちいち問い合わせないといけない。
まぁ、結局は「あそこなら大丈夫だろう」と思ったところに実際に行って、店の予約をして、ユニバーサルトイレの確認をして…。ユニバーサルトイレ、施錠されてます。「事務室までインターホンを」って、自然がガッツリ呼んでる時はどうすんねん(;_;)。
まぁ、そんなこんなで、数日いろいろ悩ませてもらいました。というのと、いかに「障害がない状態」を前提に社会がつくられているかということの一端を教えてもらいました。
でも、こんな経験しなければわからないよなぁって思った時、これ、授業のネタになるなと。15分はもつなと。
そんなことを考えてしまうわたしですわ^^;;。
「すべてのわざには時がある」
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
とは、旧約聖書の伝道の書の中の有名な一節なんですが…。
この一節をふと思い出す瞬間があります。今日もそんな瞬間があった日でした。
仮に、トランスというもののひとつの側面が「内と外の不一致を一致させる作業」だとします。あくまでも「仮に」ではありますが…。
で、通常、この「内」と「外」は固定されたものと捉えられている。そして、「一致させる作業」とは、一方を他方にあわせること、具体的には「外」を「内」にあわせると考えられているのかもしれないなと。
でも、実際には「内」も「外」も動いている。で、動いている「内」と「外」の一致は、単に片方を片方へとあわせるだけでは不可能で、あるいはそういう作業ではなくて、「内」と「外」が重なるタイミングをはかることなのかもしれない。そして、タイミングをはかりながら、「ここぞ」という「時」を掴んだ時に「飛び移る」ことなのかもしれない。早過ぎたら届かなくて落っこちてしまう。タイミングを逸する「次のタイミング」を待たなきゃならない。イメージ的には「SASUKE」か、はたまた「マリオ」みたいな(笑)。
まぁでも、「落ちる」より「待つ」ほうが安全ではあるな^^;;。
他者の人生に触れる
わたし個人の「おべんきょ」も、本腰入れないといけない段階になりつつある今日この頃です。とりあえず、いろんな人の話を聞かなくちゃ。
ふだんしゃべりまくってる(笑)わたしが、他の人の話を黙って聞くって想像できないかもしれないけど、お酒飲んでなければ聞けるんです(笑)。
で、今日はHくんの話を聞かせてもらってたんですけど…。
「話を聞かせてもらう」って、ある意味残酷なことなんだなって、あらためて感じました。
「当事者から搾取する行為」と言ってしまえば、とてもクリアなんですけど、そういうポリティカルな、ある意味定形的なひとことにはまりきらない「残酷さ」をHくんに強いているということを感じながら過ごす時間でした。
なんだろ…。
話を聞かせてくれる人って、基本的にはなんらかのしんどかった過去を持っているんですけど、でもその「しんどかった過去」に一定の評価をするところまではきていて、まぁ「冷温停止状態」までは持ってきているんですよね。でも、その「しんどかった過去」を聞かせてもらう、しかも「意図を持って」「掘り下げて」あるいは「しつこく」聞かせてもらうという行為は、「しんどかった過去」を「臨界状態」くらいまで持ってこさせてしまうことなんじゃないかなぁと思うんです。
でも、そのしんどい行為につきあってくれるわけです。なぜなんだろう。どうやって返せるんだろう。まぁ「形にする」なんていうのも、これまた定形的な言葉で、たぶんそんなものでは返せない。というか、返しようもないんでしょうね…。
まぁ、その日については「ごはんをおごる」くらいのことでごまかしてるんですけど^^;;。
なんてことを考えながら、Hくんの言葉に耳を傾ける半日を過ごしました。
Hくん、ありがとね!
って、読んでないよな(笑)。