友達からの電話

いま、を騒がせている庄司陽子のG.I.D.ですが、「いつきさんも協力してくれないか?」という電話が、友だちからかかってきました。
で、わたしについていうならば、個人的には、もう、樹村さんのコメントの上の方の「・」なんですよね。たとえば、「MtFかどうかを判断するにはのど仏を見ろ」とか「あやしかったら手術した跡があるかどうかを見てみろ」とか、んなこと書かれても、別に「わはは」なわけです。さらに言うならば、スタンスとしては、「語れる社会をどうつくっていくか」なんですから、「この身を晒してなんぼ」というところなわけです。

ただね、ただ…。
友だちが困っているんですよ。その一点なんです。でも、その一点って大切なんですよ。
まだ原典(笑)にあたっていないので、どう対処していいのかわからないのですが…。
いまのところ読んだのは、
さとしさんのところくらいなんですけど…。ほか、どなたか資料とかお持ちだったりご存じの方、おられますか?

「変わる」ということ

夜、第7回GID研究会を一緒にやった人が、今度転勤で関東に行かれるということで、「送別会」という名目の宴会がありました。
で、その席上でのこと。
某O島さんから「いつきくん、だんだんと言うことが変わってきているよね」という指摘をされました。ふぅむ…。
たしかに、いろいろな人から指摘をされてきたことではあるし、たとえば1年ほどのスパンでものを考えると、自分でもたしかに変わってきていることは実感せざるを得ません。なぜなんだろう…。
自分の中の「軸」となるものは、そうそうずれてきてはいないと思うのです。基本的には「社会を変えていく」というスタンスに変化はない。そのために、いま・ここで何を発言し、行動するのか。それが、基本的な線です。
じゃぁ、何が変わったのか。おそらく、人間関係とそうした人間関係をとりまく情況の変化です。個人的には、いわゆるGIDと言われる場所に深く入り込むことになりました。当然、GIDと言われる人たちとのつきあいが増えてきます。その人たちが、いまなにを求めているのか。そのことと、自分が変えたいと思っている社会の方向との間に、どう折りあいをつけていくのか。それが、「現場」ということなんじゃないかと思うのです。

例えば、「同和対策特別措置法とその後の法律の延長による施策が、部落の人々の甘えを生みだし、腐敗をつくった。だから、そうした施策は間違っていた」という論を、述べる方もおられます。それは一面の正しさを持っているでしょう。わたしも決してすべてを否定はしないです。でも、大切なのは、部落解放という軸をぶらすことなく、そういう「今」をどう変えていくのかということであって、だれかを・なにかを悪者に仕立てあげ、遠くから断罪をすることが大切なんじゃないと思うのです。

「変わること」って、忌避すべきことなんだろうか。もしかしたら、開き直りかもしれないという恐怖を自分に対して持ちながら、それでも、迎合を拒否しつつ変わることを拒否しない自分である必要があるかと思ったりします。そのことが、「変えること」につながっていくんだというかすかな希望を持ちつつ。

「普通」ということ

きのうの晩、あるトランスの友だち(Aさん)から「自分は普通というアイデンティティ(も)持っています」というメールが来ました。これ、
***
Aさん
「『ドラグァ・クィーンと一緒にされたくない。』とか、『同性愛とGIDは違う』等のセリフ聞いてると、GIDというアィデンティは何なのか・・・・ですね。(苦笑)」
わたし
「う〜ん。でも、同性愛者の中にも「わたしたちは、性的指向が違うだけで、それ以外は「普通の」人」みたいな人もいるじゃないですか」
***
というやりとりの中から出てきた話なんですけど…。
このことを考えていて、ハタと気がついたことがあったんですよね。「普通」という言葉には2種類の使い方があるんじゃないか。
1、既存の「普通」に自分をおしこむニュアンス
2、既存の「普通」の意味を自分も含まれるように拡大していくニュアンス
たぶん、Aさんは2の用法で言ったんだろうなぁと。
まぁただそれだけのことなんですけど…。でも、きっと自分は「普通」とは言わないだろうなぁ。

問題…

某所に「ドーナッツ化現象」という記述があって、「ふぅむ…」となり、自分がなぜGID研究会に行くのか考えてみました*1
たぶん、遊びに行っている。もしくは同窓会気分。でも、とりあえず「自分のトランスの参考・実現のために行っている」とはとうてい考えられない。
このあたりで、お得意の在日の話に横滑りさせると…。
たとえば、某在日外国人教育関係の研究集会に、当然在日外国人も来ます。そのなかには、在留資格の問題などで、支援のアピールをしに来られる方もいます。あるいは、ひどい差別を受けてそのことを訴えに来られる方もいます。あるいは、中学生・高校生あたりだと、「仲間との出会い」を求めたり「アイデンティティ探し」に来たりという人もいます。まぁいうならば、「問題を抱えている人」が「自分のために」来ているということができるかもしれません。もちろん、それはそれですごく大切。
でも、「個人としてはきわめて「成功」した在日外国人」もまた、来られるんです。経済的にも安定した生活もし、まわりの人たちも理解をし、本名で生活し、精神的にも安定し…。たぶん、個人として問題は抱えていない。たぶん、わざわざ年1回、時として遠方まで時間とお金をさいて来る必然性はありません。その時間があるならば、他にやりたいことはたくさんあるはずです。でも、来られるんです。
それは、「自分のために」じゃないと思います。おそらく、「自分<たち>のために」なんです。そしてその「たち」に含まれているのは、在日外国人だけじゃなく、日本人も含めて、この社会全体をどうしていくのかということを、ともに闘う仲間たちから学び、一緒に考えるためになんだと思うのです。
まぁ、これはあくまでも某在日外国人教育関係の話ですけどね…。

で、わたしにとってのGID研究会。
う〜ん。なんだかんだ言って、楽しいから行っているらしい…。

*1:「司会をしに」というのはなしね(笑)

ある問いかけ

午後から家庭訪問。
その時のお母ちゃんとの会話。
「先生、いま、悩みあるか?」「う〜ん、あんまりないなぁ」「先生、いまやりたいことあるか?」「う〜ん、なんやろう…。手術かなぁ(笑)」「わたしはな、いまないねん。それが悩みやねん」
「先生、後悔ってあるか?」「う〜ん、昔はいっぱいしていたけど、最近はあんまりないなぁ」「それはあかんで。後悔をうやむやにしてるんとちゃうか?」
「先生、自分は好きか?」「そうやなぁ、2〜3年前までキライやったけど、最近「まぁええか」と思えるようになってきたなぁ」「わたしもそやねん」
波瀾万丈の、とてもしんどい中を生き抜いてきたお母ちゃん*1の言葉は、いつ果てるともなく続きます。でも、けっこうおもしろい…。
家庭訪問を切り上げたのは6時半。4時間半かぁ…。まぁこんなもんかなぁ(笑)。

*1:オモニ

Iメッセージ

「態度」の問題の根幹にかかわることは、今回は「Iメッセージ」についてでした。
「youメッセージ」ではなく「Iメッセージ」というのが、ここ数年人権教育の部分でよく言われています。つまり「あなたの考えは〜だ(だからまちがっている)」というふうに攻撃するのはなく、「わたしは〜と思う」というふうに、それを単に「違い」として交換しあうところから、「非攻撃的自己主張」という態度をとっていこうということのようです。
まぁ、これはこれでかなり眉唾なところがあるとは思うのです。他者を尊重するための「Iメッセージ」ならばそれはそれでいいのですが、自己防衛としてのこのやりかたは、結局逃げにしかつながらないと思うのですよ。
というのは、おいておきます。
で、今回パートナーとのやりとりで話になったのは、こうした「言い方」的なことより、もう少し深い「Iメッセージ」かな。「なにか「こと」が起こったときに、その原因がどこにあるかを考える態度」という感じでしょうか。その原因が「他者」にあるのか「自己」にあるのか。もちろん、たいていの場合、両者にあります。でも、そこで簡単に「両者」と言い切らない態度が、大切ではないかと思うのです。「両者」とまずはじめにたててしまうと、「他者」への原因追及がどうしても含まれてしまいます。それでは、多分「イーブンな論議」にならないんじゃないか。まずは、「自分のなかを(深く)くぐらせ」て、「自己の責任を追及する」ところからスタートをすることが必要なんじゃないかということなんです。
「Iメッセージ」というのは、その結果として出てくるメッセージのあり方なんじゃないかなぁ。

人間として・補足

トイレに入る瞬間ですね、なにかが生まれてくるのは。今朝、トイレに入ろうと思ったときに、ふと思い出しました。
そういえば、昔「わたしのことを「人間として」見てほしい」と愚痴っていたことがありました。あのころは、「◯◯をやっているいつき」としてしか評価がされていなかったという思いが強烈にありました。「担任をやっているいつき」「在日の子らにかかわっているいつき」「部落の子らとバタバタやっているいつき」etc,etc。そうじゃなくて、「「単なるいつき」じゃあかんのかい」、「「単なるいつき」には価値がないのかい」、「◯◯をやめたら価値がなくなるのかい」と思っていたんですよね。
「人間として」ということにこだわった、もう一つの深層心理は、そのへんにあるのかもしれない…。

「人間として」

昨日、大阪のH市でちょっと話をしに行きました。
幕間から見ていると、この方が最前列に陣取ったりして、かなり緊張しました*1
で、いつもの通り、口からでまかせの漫談をして、いちおう1時間半+αの話が終わりました。司会の方が「質問はありませんか?」と言われたのにこたえて、この方が「ハイ」と挙手。それはないっすよ…。
曰く「子どもが大きくなってくると、なかなかいままでみたいにうやむやな感じではいけなくなってきますよね。子どもたちや子どもの学校のPTA、あるいは地域の中でどうされていますか?」という感じの質問。きついところを突いてこられました。
で、わたしの答え。
「わたしはトランス前もトランス中もずっと同じ場所で住んでいました。なので、みんなわたしのことを知っています。そんな中でトランスをしてきた。いま、別の場所に引っ越したけど、やっぱり少しではあれ、いまだに子ども会の手伝いはしに行きます。PTAも自分なりに積極的にかかわりました。上の子どもが6年の時は会長もしました。会長として何ができるか考えたとき、みんなが楽しんでくれるPTAにしたいと思いました。そんなわたしを、みなさんは受けとめてくれていたと思います。結局、大切なのは、男であるか女であるかよりも、こんな言い方はしたくないんだけど、やっぱり人間としてどうあるかということなんじゃないかなと思うのです」。

で、終わった後の飲み会。「この方」は帰られたのですが、若い参加者たちとの見ながら、「人間として」ということをめぐってしばらくやりとりがありました。簡単に言うと、こういうことだと思います。

みんながみんな「人間として」すぐれた生き方ができるとは限らない。でも「人間として」という言い方をしてしまうと、結局「(すべてのトランスに)人間としてすぐれた生き方をしなくちゃならない」と言うことになってしまうのではないか。

まぁ、たしかにそれはそうなんです。ちなみに、わたしが人間としてすぐれた生き方をしているかというと、どっちかというと、人間のクズとして生きているので、吐いたつばが自分にかかってしまうんですけどね。
でもね、トランスであることも、実は「わたし」という人間の一属性でしかないんですよね。だから、そのひとつの属性のみでわたしを測ることはできないんです。「カテゴライズ」を拒否して、「自分」というそのものを他者に差し出そうと思ったら、トータルとしての「わたし」をどうしていくかということにしかならないんじゃないかという気がするんです。
「トランスだからしかたがない」というのは逃げだと思うし、イヤなんですよね。もちろん「トランスだけどがんばっている」というのも違うんです。ただ単に、「トランスであるわたしは◯◯だ」ということなんです。で、この「トランス」には別の言葉*2が入ってもいいんですよ。トランスであることも、その程度のことでしかないというふうに考えていかないといけないんじゃないかということなんです。
そうすると、結局残るのは「人間として」になるんじゃないのかなぁ。

*1:なんでも、シマを荒しに来られたと思ったらしい(笑)。んなわけないですm(_ _)m

*2:例えば、「スキーが好き」「酒を飲むと寝る」「バイクで数年おきに事故る」。あ、忘れてた「教員」か。まぁなんでもいいんです

名言

学校ではよく「生徒は主役」と言います。「生徒が主役なんだから〜」という感じですか。でも、前々からわたしは「ちがう」という気がしていました。「生徒が主役」という言い方は、考えようによっては、「主体のをすり替え」や「責任の転嫁」の時に都合がいい言葉なんですよね。例えば、「卒業式の主役は生徒なんだから、◯◯を持ち込ませない*1」とかね。なんかずるい気がするんですよね。やっぱ、「自分の主義主張としては、卒業式に◯◯は持ち込ませない*2」と言うほうがすっきりすると思うんですよ。
で、それが授業でもあらわれる。「生徒が主役になる授業」…。いやだなぁ。わたしは前から思っていたんですよね。「教室は舞台、主役はあたし!」。だからこそ、客である生徒が「つまらね〜」と思ったとき、その責任は自分が背負わなくちゃならないわけなんですよ。だからこそ、舞台は楽しい。
跳べない舞台は、ただの舞台だ(by Ms.M)」

*1:これはあくまでも「例え」ですよ。◯◯には別に特定のなにかがはいるわけではないです(笑)

*2:あくまでもた例えです(笑)

最近頭浮かぶフレーズ

で、宴もたけなわになった頃、いろいろと騒いでいたのですが、当然論議もするわけです。で、ある人とやりとりをして、ちょっとテンションが高くなってしまいました。反省です。
なにに反応してしまったかというと、「いつきさんが言っていることは、結局は、社会が変わらなくちゃならないんじゃなくて、当事者が変わらなくちゃならないことになる」という意味のことだったんですよね。いや、これは完全にわたしの話をミスリードしているんです。でも、その一方で、確かにそういう面も感じさせてしまうのかなぁとも思います。なんというか…。かつて、蔦森さんが「自分が弱者だと思った瞬間に、弱者になってしまう。一度弱者になってしまうと、そこからはいあがるのはほんとうにたいへんになってしまう。だから、自分は弱者じゃないと言い続ける」みたいなことを言っておられました。あのときの言葉が、いま、しみてきます。

わたしも、そのある人も、ともに闇の中にいるんです。光があるかどうかもわかりません。そんな状況の中で、わたしは「それなら、どこかにある光を待つよりも、自分で光をつけよう」と思うタイプなんですよ。最近、頭の中にふと出てくるフレーズがこれです。

「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。*1*2

なんで今時「心のともしび」やねん!という話ですわねぇ。でも、そこからスタートする以外ないと思うんですよね。

*1:パウロの言葉より

*2:そういえば、「高いと不平を言うよりも、いつもニコニコ現金払い」っつーのもあったなぁ…