「つなぐ」ということ

でも、宇和島の人たちの話を聞きながら、「うらやましい」と思ってしまったのは、やっぱり「伝える」「つなぐ」ということについてなんですよね。「親から子へ、子から孫へ」というのがよく言われるのですが、セクマイのギョーカイではあり得ないことです。でも、そうした「つながり」から学ぶことはたくさんあります。
セクマイのギョーカイでは、そうした「つながり」を、血縁や地縁、あるいは民族とは別に、自覚的につくりだしていく必要があります。
部落や在日の場合、世代間で価値観の対立があったとしても、それを越える別の「つながり」というものをまだしもつくりやすいのかもしれないけど、セクマイの場合はそうはいかない。そこの対立は、決定的な対立になってしまいます。しかも、「前の世代を越える」という形だったらまだしも、「前の世代を否定」という形での対立になると、「つながり」というものがまったくなくなってしまう*1
でも、誰かが誰かとつなぐ役割を担わないといけないと思うのですよ。もしもその一端を担うことができるなら、やはりやらなきゃならんかなぁと思ってしまう今日この頃です…。
そうそう、特別報告のトリを努めたK口くんの話の最後の一文。「自分は部落民として生きることを「選んだ」。こんな自分をちょっぴり誇れる気がします」っていうの、すごくよかった!

*1:そういう意味では、やはり障碍者運動から学ぶべきところがたくさんあるのかなぁ。

外と中

中にいたら外のことがわからないことがたくさんあります。もちろん逆のこともまた言えるわけで。
例えば、それは学校。中のことは外からはわからないし、外のことも中からはわかりにくい。
例えば、それはギョーカイ*1。々
例えば、それは議会。たぶん、国会議事堂でのやりとりも同じなんだろうなぁ。国会をヒューマンチェーンで取り巻いても、その声は国会の中には届かない。国会の中で通用するのは、まわりを取り巻いている人たちにはわからない価値観とか力関係とか論理とかなんでしょうね。そして、どんどん数の横暴とそこへの妥協をする人たちによって勝手にことが決められていく。
1年ちょっと前の衆議院選挙の時の予感が、ほんとうにいま現実のことになっていく。

*1:なんの業界かはここでは言いませんけどね・笑

結局タニンゴトだよなぁ…

教育再生会議*1がいじめへの8項目の緊急提言をまとめたそうな。
曰く「いじめた側の子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる」とか、「傍観する行為をも許さない」とか、「過程や地域と一体となって解決にとりくむ」とか。
こんなん「いまさら」な話ばっかりですわ。いままでこんなことはさんざん言ってきたことです。てか、「いじめ」を「差別」に置き換えたら、言われる前にとりくんできました。こんなことを、いまさら「緊急提言」とか言われてもなぁ。
それと思ったこと。
なぜイジメが起こるかという根本的なところは放置して、表面上をなぞって「起きたことへの対応策」を強化することによって対応しようとしている。簡単に言えば「罰則規定」を強化して防止しようとしているということ。こんなことやっても、ひずみはどこかに出てきます。
なぜこんな提言が出てきたんだろう。
結局、みなさん直接かかわっていない人なんですよね。なので、傍観者的なわけです。
簡単に言うと、こういう感じ。

Aさん「いじめなんて、いじめるヤツが悪いんやんけ!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、いじめたヤツには厳しい罰を与えたらええんとちゃうか?」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「端で見ているヤツも同罪やで!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、「端で見てたらアカン」て指導ささんとアカンで!」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「だいたい、教師が悪い!放置するとか助長するなんてもってのほかや!」
全 員「そやそや!そんなヤツは処分したらええ!」
解決
Aさん「あとは、家庭や。もっと家庭がしっかりせんとあかん!」
全 員「そやそや!ほなそれも言うとこ!」
解決

まぁこんな感じじゃないですか?
イジメの構造が重層的だったり、立場が流動的だったりするなんていうことについての考察はどうやらなさそうです。誰かのせいにしたり、強制力を働かせたらそれで解決するわけで、その対象として唯一教師だけが「処分の対象」となります。また、こんなとき例えば「共働き」をすぐに問題にするんですが*2、共働きをしないと教育費はおろか、日々の暮らしもままならない経済の状況には言及せずに、簡単に「家庭の教育力」を求めます。そして、「いじめ←→いじめらる」という関係が、実は経済とか権力関係という形で、大人の社会にも存在し、自分たちもその網の目の中で生きているという観点。ましてや、自分たちが「いじめる側にいる(かもしれない)」という自分自身への洞察が決定的に欠如しているように思われてなりません。
常に「自分は足を踏んでいるかもしれない」という想像力を働かせるところからしか、実はイジメの克服・加差別の克服はないと、わたしは思っているんだけどなぁ。自分たちは永遠に「正義」で、まわりを「評価」しているようにしか思えない提言では、結局イジメを増長することにしかならないんだと思うんだけどなぁ。
まぁ、「美しい日本」っていうのは、そういう「正しさ」のまかり通る国なんだろうとは思いますけどね。こうやって「教育を再生」しようとしているのかと思うと、マジ、書いていてイヤになってきた。

*1:このネーミングもひどいなぁ。「結論ありき」だし。

*2:これ、問題にするのもなんだかなぁ。場合によっては、共働き家庭の子どもの方がはるかにしっかりしていたりすることもありますしね。

会議の極意

朝、再び水くみ。だって、おいしい水でコーヒーを飲みたいです。ついでにポテトサラダをつくって、音楽を聴きながらゆっくり新聞を読む。みんながなかなか起きてこないので、久しぶりのゆっくりした朝です。
今日は午後から、某キリスト教系の人権教育関係の会議です。
ところが、蓋を開けると集まったのはたった3人。1時からの開始時間ですからみんな昼ご飯はまだ。結局「みんなでごはんを食べながら会議をしようか」ということになりました。で、京都駅近くの定食屋兼居酒屋に行って、会議。もちろん、わたしは軽く(?)呑みますけどね。
でも、ふだんは「あーだ、こーだ」となかなか話が決まらないのに、ものすごいペースで話が決まっていきます。そうか…。人数が少ないことと石橋をたたかないこと(笑)が、これほど決定的だったのか…。4時頃には昼ご飯(笑)も終わって突如決めた某所に打ちあわせ・仮予約までしてしまいました。
大きくことが進んだことで、みんな大満足。そして、夜は家に帰れて、これまた大満足(わたしだけ?)。よかったよかった。

自分の身を守るために

夜、パートナーと下の子どもが風邪のために医者に行ったので、上の子どもと二人でごはん。
今日のごはんは鍋。てか、こないだ鍋にしたらおいしかったからか、それともその時の野菜があまっていたからかわかりませんが、鍋が続いています。まぁ、おいしいし、あったまるからいいけどね。
ごはんの最中の話題は、昨日から今日にかけての社会の動きとか、今後予想される社会の動きとか。そんな話と自分の未来を重ねあわせて、上の子、かな〜り「将来は暗い」という感覚を持ったみたいです。で、わたしからの提言。

とりあえず、「いま」がそういう時だということを認識すること。そこから自分がなにができるのかを考えること。そこから道は開ける。もしもそれをしなければ、時代の中に巻き込まれていく。だから、まず認識することからはじめよう。

てことで、夕食後は数学の勉強(笑)。
去年はダメダメだった「三角形の合同の証明」がそれなりにできるようになっていて、ちょっと安心。

で、衆院も

通ったよ…。
なにより怖いのは、このことが職員室で話題にならないこと。
かつてだったら、ラジオなりテレビなりが鳴っていて、刻一刻と情勢を追う人もいただろうに、いまはみんな淡々と仕事をしています。もしかしたら、ネットで情勢を追う人もいないんじゃないでしょうか。
なんでこんなことになったんだろう…。
とりあえず、放課後、会う人ごとに「通っちまったよ」と声をかけました。

無力さ…

大学の頃から感じていました。時代のどうしようも流れの中で、はたして自分一人でなにができるんだろうという無力感。そんな思いをますます強くする今日の出来事でした。
いや、実はぜんぜん知らなかったんですよ。のんびりと子ども達といっしょにテレビを見ていて、「あ、津波警報や」としか知らなかったんです。さらにその後、「へ〜、松阪は60億円かぁ」とのんきに構えてました。と同時に、トップに来ないんだから、強行採決はなかったんだろうと思っていたのです。ところが、ネットニュースを見たら、すでに通っていた…。
先の衆議院選挙の結果が出た翌日に日記に書いたことが、いま現実のこととして展開されていることを、ひしひしと感じます。
学力低下少子高齢化・教育の荒廃・不景気etc…。すべてを「誰か」のせいにして、「誰か」をたたくことでよしとしてきた勢いは、とうとうそれらを含めすべてを「法律」のせいにして、「法律」を変えるところまで来ました。
いや、人のせいにするのはやめないといけないですね。少なくとも、わたしは。
後々、子どもたちから「あのとき、父ちゃんはなにもしなかったの?」と言われた時、「これくらいのことしかできなかったけど、それでもやった」と言える程度のことはしないといけないかなと思います。そして、それでもこの国に住むならば、「非国民」という称号を胸に生きていくしかないかとも思います。それが、残された「ひとりでもできる闘い」かもしれないです。

言ったからなにかあるの?

最近、校長さんの自殺が相次いでいますね。なんか暗澹たる気分になります。
ちょっと前までは「先生なんてぜったいするのイヤ!」とか言っている生徒に「まぁ、教員という仕事も悪くはないよ」と話していたんですけど、最近は「まぁ、よほどしたいんならとめないけど、やめたほうがいいんじゃない」という気分です。現役の教員がそんなことを言いたくなるような世の中ですから、そういう感じなんでしょうね。
で、「言ったから」っていうのは、「報告」にかかわる話です。
「できたこと」の報告をするのは、別にたいしたことじゃないです。もっとも、「できたこと」ばっかり報告するのは変だなぁと勘ぐられるかもしれませんが、それはまぁおいといて…。問題は「できなかったこと」の報告です。これ、しにくいですよね。でも、もしもきちんと相談できる人間関係があって、適当なアドバイスがもらえるなら、案外「できなかったこと」も報告しやすいのかもしません。
じゃぁ、イジメの話。
仮に、「ウチの学校でイジメがあります」という報告を、教育委員会にしたとしましょう。すると、教育委員会はどう動くか…。まずは「いじめられている子どもを守りなさい」とか「家庭訪問などにより、親の理解を得られるように、きちんと対処せよ」という話でしょうか。あとは「いじめている子どもの心の内面に迫れるように指導をせよ」という話でしょうか。
いや、こんなことは現場はやっているわけです。なんのアドバイスにもなっていないです。
で、さらに「より詳細な報告をあげよ」とかいう話が出てくる可能性もあります。これ、ほとんど意味がないし、逆に仕事の増量なわけです。そんな報告書をまとめているヒマがあったら、現場としては、生徒と話し込まなくちゃならないわけです。
となると、教育委員会に報告するメリットってなにもないです。
さらに、そのことが勤務評定とかかわってくるとすれば、デメリットの方が大きくなる。となると、だれが報告なんてするんでしょうか?
で、もしもなにか起こったとしても、結局頭を下げるのは現場*1です。教育委員会は責任をとってくれるわけじゃないです。ましてや、文部科学省が責任をとるかというと、んなわけがない。逆に、「指導」を強めるだけですわ。
となると、だれが「どこかに報告をしよう」と思うかということです。で、なにもなく穏便に過ぎたらそれでOKなわけです。だって、何かおこったとしたら、どうせ責任をとらなくちゃならないのは現場ですから。

もしも、報告をあげた時に、例えば至急にスクールカウンセラーを派遣する。あるいは、教員の増員をする。さらには、なんらかの予算措置をして、その事態に直接かかわっている教員の授業時数を軽減するなどの処置が執れるようにするという、具体的な支援をしてくれるならば、報告をあげる意味があります。んなもんないのに、逆に「なんでやねん」と責められるならば、ねぇ…。

「話をしない」人に対して「なぜ話をしない!」と怒るんじゃなくて、「なぜ話してくれないか」とその問いを自分に向けるような考え方をすることが大切だと思うし、それが教育にかかわる人間の発想だと思うんだけどなぁ。

*1:含む、校長

ないしょの箱

いまさらなんですが…。わたし話をする時に、いつでも「心の中につくった秘密の小箱」の話をします。ところが、前に「箱のこと、「心のノート」にあるよ」と言われたことがあって、気になっていました。調べてみると、石坂啓の文章で

低学年用のこのテキストの中に「ないしょの箱」というページがある。「あなたの心の中にないしょの箱はありますか」とくるので、もちろんないしょはあるだろうと思って見ていたが、前後の脈絡から見るとどうやらこれは「大人に対して秘密があってはいけないよ」というニュアンスらしいのだ。

というのがありました。
ちょっと反省。
なにが反省かというと、「箱」の話をする時に、きちんと最後まで言い切っていなかったなぁということなんです。
なぜわたしが「箱」の話をするかというと、ほとんど誰でも「箱」を持っているだろうなと思うからなんです。で、そんな箱があることすら忘れてしまうような生活を強いられている。でも、「その箱をもう一回見つめてみようよ」ということなんです。
それと、「箱の中身を見せあいっこしよう」と最後にくくります。もちろん「いやじゃ!」という人がいるのは当たり前。それはそれでいいんですよ。あれ、「見せたくても見せられない」という状況の人へ向けてのメッセージなんです。だから「語*れる*社会」なんですよね。
「語らなきゃならない社会」はとんでもないです。ただ、語りたいと思った時にそれが語れない社会は問題だと思うし、それをどう変えていくかということがわたしにとってのテーマです。
てことで、こりゃ言い訳だな(笑)。

履修のことなぁ…

個人的には、しゃーないんとちゃうの、という感じ。たしかに、必修科目を履修していないのはルール違反だけど、実際問題として、今の学習指導要領はひどすぎ…。あちこちで取りざたされていますが、小・中でやることがメチャクチャ少なくなって、大学の要求水準が変わっていないから、歪みが全部高校に来ます。で、学校現場はというと、自由化の波が来て「いい」生徒*1を集めないと生き残れない*2ということで、入試にあわさざるを得ない。となると、一番歪みが来るのは、一番「めんどくさい」教科ですわ。その結果があれかな。
でもまぁ、今回の話の対象になっているところって、基本的に未来のプチエリートを育てる学校だから、結局同情とかも集まるし、なんとかなるんとちゃいますか(笑)。

*1:ってなんやねんと思うけどね

*2:と思ってるだけだけだと思う。あまりにもミクロな考え方をしていると思うけどなぁ…