昨日の行きの電車の中でKよぽんとふたりでつくったネタ。
水谷修は夜回り先生 | いつきは夜遊び先生 |
水谷修は深夜も歩く | いつきは深夜徘徊 |
水谷修はしゃがんで子どもとしゃべる | いつきはしゃがんでマーライオン |
水谷修の眉間には社会を憂えたタテジワがある | いつきの眉間には二日酔いのタテジワがある |
ダメじゃんorz
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今日は朝、出勤がてらパートナーを送らなくちゃなりません。てことで、一緒に車に乗っておでかけ。
道中のラジオを聞いていると、なにやら行政の広報コーナーがはじまりました。なんでも、人権啓発室かなにかの誰かが話をしているみたいです。そういえば、もうすぐ人権週間だよなぁ。
で、パーソナリティーが
「これを機会に人権について考えてみませんか?」
と、まぁ原稿を読まれたんですが…。
その瞬間、ものすごい違和感が…
「人権について考える?」
もしかしたら
「う〜ん、人権…」
とか言って、腕組みしながら考えるのか?
で、パートナーにそのことを言うと、
「まぁそんなもんちゃう?」
と大人の答が返ってきました(笑)。
でも、これって、T川さんなんかが聞いたら3秒で沸騰するんじゃないかと思うのです*1。
「考えてどうすんねん!行動するんとちゃうんか!いつから人権は道徳になったんや!」
みたいな。
まぁ、それはそれとして、パートナーが言うには、
「おそらく日常的に人権を意識して生きている人って少ないんじゃない?」
ってことなんですよね。よくわからないけど。でも、そんなものなのかなぁ…。
なんちゅうか。
生活すること*2って、わかれ道の選択の連続だと思うんですよね。で、どの道を選ぶのかということを、意識的であれ無意識であれ、常にやり続けているんだと、わたしは思っているんです。その時、なにを基準に選択するか。例えば、快楽であったり、お金であったり、楽さであったり、それは人それぞれだし、時と場合によっても違うし、ひとつのことだけじゃなくて、いくつかのことを判断基準にしたりもするんだと思うのです。
で、わたしの場合は、そこに「人権」というのが組み込まれている。で、その「人権」というヤツはいったいなにかというと、わたしにとっては「いろんな友達」の顔なんですよね。
「この選択をすることが、あいつにとってどうかな?あいつにとってどうかな?あいつを傷つけないかな?あいつは喜ぶかな?」
そうやって選択をしていく。で、新しい友達ができると、その分だけ選択の基準が豊かになるのでおもしろい。
だから、わたしにとっては「人権」というのは、どこかよそにあるものではなくて、自分が生きることと一体になったものなんですよね。だから、ぜんぜん難しくない。
なんてことを考えていたのですが…。
あ、そうか、これが「人権について考える」ことなのか(笑)。
昨日の日記の内容を、通勤途中に考えていました。
で、いろいろ考えているうちに、ふと出てきたフレーズが「公正な競争」という言葉でした。
で、次の瞬間、「あれ?」と思ったわけです。はたして「公正さ」に裏打ちされた「競争」ってあるんだろうか。そもそも、「競争」ということと「公正」ということは、相反する概念なんじゃないだろうか。
例えば、「誰に対してもカンニングを許さない」というのは、「公正さ」を保証するための大切な方法です。でも、例えば日本語が不自由な子が設問の意味がわからないために、設問が問う意図にまでたどりつけないとするならば、「意図」にたどりつくまでの説明をしないと「公正な競争」にはならないと思うのです。でも、この時の説明って、実はすごくむずかしいんじゃないかなぁ。
まぁ、この例はあまりよくないかとも思うのですが*1。
「公正な競争」というフレーズは、スタートラインが同じということを前提にしているように思うのです。でも、実際にはスタートラインはバラバラなことの方が多いだろうし、その「責任」が必ずしも個人の努力のみで解決できるとは思えないことも多々あるんじゃないかとも思うのです。
てことで、なにが言いたいかというと、
「競争と公正は相容れない概念である」
ということを前提に物事を考えないといかんのじゃないかなぁということを、バイクに乗りながらふと思ったという、ただそれだけのことです。
*1:だったら出すなよ(笑)
教員とてひとりの生活者です。
わたしのように、他の仕事につく能力のないものにとって、「職をかけて異動を求める」ことはできません。ですから、与えられた場所で淡々と仕事をするのです。でも、そこでサボろうとしている人はあまりいない*1と思います。ほとんどの教員は、与えられた場所で、精一杯のことをしようと努力をしていると思います。
ちなみに、わたしが現在勤務している学校がどういうところか、おおよその想像は、ここを読んでおられる方々はおわかりと思います。わたしは、現在まで23回の人事異動の調書には、すべて「留任する」と書き続けてきました。わたし、世間からなんと言われようと、けっこううちの学校の子どもたち、好きなんですよ。
しんどい学校に勤務したい教員志望の方がおられたら、仲間として、心の底から大歓迎します*2。
あらためて、TPOの語源を考えてみたら、TとPはわかるのですが、Oが「?」でした。なので、ググってみると「時間(time)、場所(place)、場合(occasion)」とありました。なるほどね。さらに、「あえて英語で言うと”common sense”あたりが近い言葉になるそうです」とあったので、ますます「なるほどね」と思いました。
TPOを決めるのは、「世間」じゃないかと、わたしは思っています。「世間」とは、法や制度と一定程度の依存関係を持ちながらも、そこからは独立して存在する価値観なんじゃないかと思います。そういう意味で、法や制度と密接な関係を持つ「社会」とはわけて考えています。
子どもたちがよく愚痴を言います。
「わたしばっかり注意されるねん」
で、わたしの答はこれです。
「お前な、目立つ恰好をするかしないかは、お前が選択したんやろ。目立つ恰好をしたら、その分だけ注意をされるのをわかってやっているんやろ。これからもその恰好を変えへんのやったら、その注意に抗いながら生きていく覚悟を持たんとあかんのと違うか?」
これは、わたしなりの子どもたちへの精一杯*1のエールです。
「学校への評価」という守りの意味でのTPOとは別個に、今学校が世間から期待されている役割を担うとするならば*2、TPOを教えることは、やっぱり必要かなと思います。それは、世間の中で生きていく際、判断のひとつの基準として必要だからです。
そういう意味で、わたしは「(事細かな)校則は必要ない」と考えています。なぜなら、校則に定められていることで、子どもたちが判断する機会を奪われていると考えるからです。
では、その「判断」の中身とは何か。
それは、「世間に抗う時と世間に従う時を判断する」ということです。
例えば、わたしは高座の時に「あの、ジーンズでもいいですか?スーツの方がいいですか?」と聞くことがたまに(笑)あります。それは、呼んでいただいた方を取り巻く世間に従うことが、TPOとして必要だと思うからです。
しかし、「教員らしくないからジーンズで授業をするな」と言われると、おそらくはケンカになるでしょう。わたしの教員としての仕事内容とジーンズをはくということは無関係であると考えるからです。
では、「お前は生まれたときの性で生活しろ」と言われたらどうするか。わたしは今の生き方をやめません。でもケンカもしません。なぜなら、世間とわたしの間に大きなズレがあることがわかっていて、そこでのケンカは意味がないと判断するからです。ではどうするのか。そこでわたしは、「世間を変えていく」という方向をとります。
あの学校の判断以前の問題として、×にされた子どもたちの出身中学校の教員のしんどさを思います。
きっと
「そんな恰好で行ったらあかんで」
とさんざん指導をされたんだろうと思います。でも、子どもたちは「その恰好」で行った。その子どもたちはTPOを身につけようとしなかった。なぜなら、TPOをわきまえることを必要とする実感がなかったからだと思います。
「なんやかんや言うても通るやん」
という経験しかしていなければ、学校の指導は通りません。
じゃぁ、なぜ通らないのか。それは、それを通している「世間」があるんだと思います。そして、「世間」はその子どもたちに対して、自らの手を汚さないようにして、相応の「仕打ち」をするのではないかと思います。
世間に抗うためにも、そして、ほんとうにやらなくちゃならないケンカは何かということを見極めるためにも、TPOは大切だと、わたしは思います。
誰がそうさせたへのGID当事者ですがさんのコメントにすごく考えさせられたので、せっかくですから本文の方に考えたことを書かせていただくことにします。
まずは、「誰がそうさせた」の中で言いたかったことを簡単に書きますと、つぎのひとことになります。
「しんどい学校は、制度的につくられている」
ということです。もう少し言うならば、
「しんどい学校は、結果的に必要とされている」
と書いてもいいでしょうか。
入試制度って、「必要な子をとる」ためのものではなくて、「必要でない子を排除する」ための制度なんじゃないかと、わたしは思うのです。なので、トップ校は、まずは「受験するかしないか」という段階で入試以前の排除を行い、入試においてさらなる排除をすることで「優秀な」生徒を制度的に選別しています。それが、トップ校から「繰り下がり」ながら、それぞれの学校が「必要としている子」を選別していき、最後に「どこからも選別されなかった子」が残ります。その子どもたちが「しんどい学校」に来るわけです。
もしも現在の高校進学率が50%なんて状態であればこんなことはもちろん起こりませんが、100%に近い状態では、みんながどこかの学校におしこめられる状態があるわけで、そういう意味では「しんどい学校」の存在がトップ校の存在を担保していると、わたしは考えています。
わたしは、そういう現在の状況にさまざまな批判をもちろん持っていますが、しかし、「ええやないかい!」と、一方で思わざるをえない現実もまたあります。なぜなら、現在の序列化された学校制度でない場合、学校や教室の中に序列化ができてしまい、「しんどい子ら」がその中で排除されていく可能性があると思うからです。それならば、いっそ「しんどい子」が集まる学校をつくって、その子らに力をつけていけばいいかとも思うのです。このあたりが、わたし自身のジレンマではありますが、「この子、あそこの学校ではとうてい生きられへんやったやろうなぁ」と思う生徒を目の前にした時の、わたしのきわめて現実的な「解」がこのあたりになるわけです。
ところで、そういう「しんどい学校」への「世間」の眼差しはどうであるか?
この夏、人権教育の研修会で来られた方が、ご自分の学校で子どもたちに
「人は見かけによらないが、人は見かけで判断する」
と言っておられるそうです。わたしにはとてもよくわかります。
現在のように、学校が地域からどんどん切り離されている*1状況の中で、地域の人たちは、「どこの誰が通っているかもわからない、だらしないかっこうをしている生徒の通う学校」にどのような眼差しを送るのか、想像するのは簡単だと思います。
制度的に必要とされつくられていったものであるにもかかわらず、「世間」の眼差しはとても冷たいということを、わたしは感じています。そしてその冷たさの根拠を、「自己責任」という形で正当化しようとする世間の圧力もまた、わたしは感じています。
ちなみに、先の学校では、おそらく「服装で×」となった子どもたちの代わりに合格した生徒は、「服装で×」の子どもたちよりも学力的に低い子どもたちだった可能性が高いのではないかと思います。「どちらをとるか」という選択の時に、「それでもこっち」という判断をした、その背景にあるものはいったいなんだったのか。
あの学校のやったことは、たしかに「不公平」だったと思います。ただ、その不公平を行う必要のない学校がたくさんあり、そこでは入試以前の段階で選別がされているのではないかと思っています。
そこを抜きにして、あの学校のやったことだけを取りあげ、それもまた「自己責任」と切り捨てることは、わたしにはとうていできないのです。
Sちゃんから突然来た一本のメール
某中学校養護教員の会話
A:「あの」T井さんが講演に「きてくださる」んですって!!
B:まぁぁ「凄い」わねぇぇ
わたしの返事
某SちゃんとNさんの会話
N:「また」いつきさん来るみたいやで
S:どこで宴会しましょわたしは幸せ者だ(笑)
座布団3枚もらいました(笑)。
で、いま某番組をしている最中なのですが、明日の朝が早いのですでに布団の中です。
というか、見たい気持ちと見たくない気持ちが半々で、ちょっと複雑なんですよね。
見たい気持ちはもちろん言うまでもないのですが、見たくない気持ちってなにかというと、
「いつのまにか、出演者は全員東京の人になったんとちゃうん?」
ということなんですよね。
それって、かなり特殊な状況しか反映できないんじゃないかなぁと、わたしみたいな関西の片隅に住んでいる人間は思うわけですよ。
まぁ、制作費用を安くあげるためにはそうなるのかなぁと思うのですが、なんかモヤモヤが残るわけで…。
今日は、人権学習の日。
2・3年生は、担任が話をして、1年生は具志アンデルソン飛雄馬さんの講演というパターン。
はたしてわたしがつくった教材は使えるんだろうか。まぁ、そうとう気にはなっていましたが、そこはそれ、やっぱり担任さんなわけで、それぞれに持ち味を出してやっておられたようです。
で、1年生の講演ですが…。相も変わらず具志さんの浪花節のような講演はいいですね。子どもたちがほんとうに引き込まれて聞いています。
ただ、ふと気になることがある。
具志さんに限らずなんですが、当事者の講演って「その人にしか語れないすごさ」というのをしみじみと感じさせられることが、よくあるんですよね。それはそれでいいんだけど、聴く側はそういうのにだんだん慣れてくるなじゃないかという気がするんですよね。特に、子どもたち。
当事者の迫力に比較すると、わたしたち教員の話のなんと迫力のないことか(笑)。すると、当事者の「迫力」に慣れてしまった子どもたちは、わたしたちの話にどれほどの重きをおいてくれるのかなぁと思ったりもするのです。
でもねぇ。
波瀾万丈な人生を送る人なんて、そうそういるわけじゃないと思うんですよね。あるいは、波瀾万丈な人生を送ったからといって、そういう人がみんな、「語れる」わけじゃないと思うんですよね。大切なのは、波瀾万丈であろうがそうでなかろうが、どこかに自分の変わり目みたいなものを感じ、その変わり目から自分の人生をていねいに見つめ直し、そこからなにかを学び、そしてそれを言葉化して伝えることができるかどうかなんじゃないかという気がするんです。
まぁ「波瀾万丈」は、そういう意味では単なるカンフル剤でしかないんじゃないかとも思うんですよね。
とはいえ、「波瀾万丈」に勝つのはなかなかむずかしいわ(笑)。
神奈川県の高校が服装を理由に不合格にしていた件です。
まぁ、「叩く」人たちの気持ちもわからないわけじゃないけど、こういうことをやった学校の気持ちもよくわかります。
この高校、けっこうしんどい学校なわけですよ。で、昨今の情勢っていうのは、しんどい学校にはしんどい子が地域ごと、あるいは県によっては全県レベルで集まってくる。すると、その学校の風評は悪くなって、さらにしんどい子が集まってくるという、スパイラルになっています。
その時問題になるのは「風評」なんですよね。「あそこの学校は」と、世間から叩かれるわけです。地域や保護者*1の支援も得られない状況の中で、その学校は孤立無援の状況で闘わなくちゃならない。
さらに、教育委員会も「おたくの学校は成果があがっていない」と予算や人間などのリソースを引きあげてしまう可能性があるわけで。
きっとその学校の教職員は一生懸命「なんとかしよう」とがんばっている。でも、がんばってもがんばっても、入学してくる子は「しんどい子」なんですよね。すると、「成果をあげる」ことはすごくしんどくなってきます。ここに、スパイラルを加速する要因が出てきます。
まぁ、すごく雑感的なんですけどね。
で、こうやって、学校の「順位」は、そこにいる教員の頑張りとは関係なく、固定化されていきます。では、その固定化に抗おうとした時、どうすればいいか。非常に簡単でして、「いい子を入れる」あるいは「普通の子を入れる」方向へ走っていくわけです。で、それはとりもなおさずそこからはみ出る子を「入れない」ことにつながっていきます。だって、それぞれの学校には定員があり、入学予定者総数というパイには限りがあるからです。で、成功すれば「しんどい学校」から脱出できるかもしれないけど、新たな「しんどい学校」をつくっていくことになるわけです。で、失敗すると、「何をやってもダメな学校」というレッテルを、いろんなところからはられてしまい、これまたスパイラルを加速する要因になったりするわけで…。
なんだかなぁ…。
*1:「しんどい子」の保護者はたいてい忙しいので、なかなか教育に自分のリソースをまわすヒマがないっす。