だれがそうさせた?・ふたたび(入試制度編)

誰がそうさせたへのGID当事者ですがさんのコメントにすごく考えさせられたので、せっかくですから本文の方に考えたことを書かせていただくことにします。
まずは、「誰がそうさせた」の中で言いたかったことを簡単に書きますと、つぎのひとことになります。
「しんどい学校は、制度的につくられている」
ということです。もう少し言うならば、
「しんどい学校は、結果的に必要とされている」
と書いてもいいでしょうか。

入試制度って、「必要な子をとる」ためのものではなくて、「必要でない子を排除する」ための制度なんじゃないかと、わたしは思うのです。なので、トップ校は、まずは「受験するかしないか」という段階で入試以前の排除を行い、入試においてさらなる排除をすることで「優秀な」生徒を制度的に選別しています。それが、トップ校から「繰り下がり」ながら、それぞれの学校が「必要としている子」を選別していき、最後に「どこからも選別されなかった子」が残ります。その子どもたちが「しんどい学校」に来るわけです。
もしも現在の高校進学率が50%なんて状態であればこんなことはもちろん起こりませんが、100%に近い状態では、みんながどこかの学校におしこめられる状態があるわけで、そういう意味では「しんどい学校」の存在がトップ校の存在を担保していると、わたしは考えています。
わたしは、そういう現在の状況にさまざまな批判をもちろん持っていますが、しかし、「ええやないかい!」と、一方で思わざるをえない現実もまたあります。なぜなら、現在の序列化された学校制度でない場合、学校や教室の中に序列化ができてしまい、「しんどい子ら」がその中で排除されていく可能性があると思うからです。それならば、いっそ「しんどい子」が集まる学校をつくって、その子らに力をつけていけばいいかとも思うのです。このあたりが、わたし自身のジレンマではありますが、「この子、あそこの学校ではとうてい生きられへんやったやろうなぁ」と思う生徒を目の前にした時の、わたしのきわめて現実的な「解」がこのあたりになるわけです。

ところで、そういう「しんどい学校」への「世間」の眼差しはどうであるか?
この夏、人権教育の研修会で来られた方が、ご自分の学校で子どもたちに
「人は見かけによらないが、人は見かけで判断する」
と言っておられるそうです。わたしにはとてもよくわかります。
現在のように、学校が地域からどんどん切り離されている*1状況の中で、地域の人たちは、「どこの誰が通っているかもわからない、だらしないかっこうをしている生徒の通う学校」にどのような眼差しを送るのか、想像するのは簡単だと思います。

制度的に必要とされつくられていったものであるにもかかわらず、「世間」の眼差しはとても冷たいということを、わたしは感じています。そしてその冷たさの根拠を、「自己責任」という形で正当化しようとする世間の圧力もまた、わたしは感じています。
ちなみに、先の学校では、おそらく「服装で×」となった子どもたちの代わりに合格した生徒は、「服装で×」の子どもたちよりも学力的に低い子どもたちだった可能性が高いのではないかと思います。「どちらをとるか」という選択の時に、「それでもこっち」という判断をした、その背景にあるものはいったいなんだったのか。
あの学校のやったことは、たしかに「不公平」だったと思います。ただ、その不公平を行う必要のない学校がたくさんあり、そこでは入試以前の段階で選別がされているのではないかと思っています。
そこを抜きにして、あの学校のやったことだけを取りあげ、それもまた「自己責任」と切り捨てることは、わたしにはとうていできないのです。

*1:高校はもちろん、公立の小・中も学校選択制の名のもとに「地域の学校」ではなくなってきています

だれがそうさせた?・ふたたび(入試制度編)” に5件のコメントがあります

  1.  元のコメントは、私にも向いているのかも?と思っています。で、何か書かなくちゃ、と思ったのですが。

     いつきさんが大作を挙げて下さったので、もうほとんど補足することがない(^_^;)ですね。いつきさんのお書きになられたことを支持します。

     ホンの少し補足すると。小中高の学校っていうものは、大学や塾・予備校と違って、勉強"だけ"をするところじゃないと思っています。世間との付き合い方を覚え、習熟するという機能もあり、また大切かと。

     そう言う意味において、予告しておけば、身だしなみで輪切りにするのもアリだと思います。つか、色んな選別の仕方があって良いと思うんです。今みたいに学力だけで選別するトコがあっても良いし、一芸入試をするトコがあってもよいし、今もコッソリ?行われているようにスポーツで選別しても良いし。身だしなみで選ぶのも、またしかり。

  2. おもしろい記事なのでコメントさせていただきます。
    わたしはできの悪い人間ですのでできの悪い子供の気持ちがよくわかります。長く生きてきて思うのですが、TPOも大事ですが自分を見失わないでほしい。と思うのです。
    いつきさんはわが子をしんどい学校に進学させる気はありますか。
    私の子は二人いますがあえてそういう学校に行って大学へは推薦で行かせていただきました。ありがたいことです。熟にも行かずにクラブ活動を一生けんめいできそして進学できたのですからね。
    世間の目を気にしていればそこの学校にはなかなか行かせられないと思います。いつきさんはどう思いますか。学校の先生はわが子は有名私学へと行かせます。たてまえと本音は異なるのが現実です。

  3. 私の感情の入ってしまったコメントに対して、真剣に考え文章にまとめていただきましたこと感謝いたします。
    私自身が少し感情的になっていたようです。
    逆に、失礼なコメントを送り申し訳ありませんですが、今まで見えなかったいつきさんの部分を見せていただけたような気がします。

  4. > 樹村さん
    入り口が多様であるというのは、わたしもなんとなく「それもありかなぁ」と思います。ただその分、出口が多様であればいいなぁと思うのですが、出口があまり多様でないような気がして–;;

    > トシさん
    コメントありがとうございます。
    わたしは自分を見失わないためにTPOを身につける必要があるんじゃないかと思っているのですが…。
    で、子どもにどんな学校に行ってほしいか。率直に言って、「自由な学校」に行ってほしいと思っています。「しんどい学校」は、往々にして不自由なことが多く、それが教員としてのわたしにとっても不自由であるということから、子どもにはそういう経験をさせたくないなぁと思っています。わたしの場合には、その「自由な学校」が自分の出身校であり、同時にそれは有名私学でもあるのです。まぁそこに行けるかどうかは子どもの問題でもあるわけですが。
    ただ、現実問題として、「私学はやめてくれ〜」という切実な願いもあったりします(笑)。にもかかわらず、上の子どもは有名私学ではまったくない私学に、諸般の事情で通っています。結果的に、いまのところはそれでよかったかなぁとは思っています。
    で、下の子どもについても「私学はやめてくれ〜」と思っています(笑)。まぁ、京都の公立は、なんだかんだ言っても、他府県とは異なり、それほど「しんどい学校」が顕著じゃないので、結果的には「ボチボチ」になるんだろうとは思いますが…。
    ちなみに、「学校の先生は〜」とありますが、わたしの同僚にそういう人もいますが、そうでない人もいます。中には「子どもは中卒でいい」と言っている人もいます。教員にもいろんな人がいるようですよ。

  5. > GID当事者ですが さん
    こちらこそ、いい問題提起をいただいたと思っています。
    実は、もうひとつ「ネタ」を考えついていたのですが、最近ネタがつまってきているので明日の日記に小出しにしようかと(笑)
    で、わたしという人間ですが、とどのつまり、たんなる遊び好きの飲んだくれなんですよ^^;;

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