SSTキタ━(゚∀゚)━!

今日の話は「ソーシャルスキルレーニング」についてです。
これ、去年ガッコでやらされたので、まぁ中身はある程度はわかってるんですが、プロからきちんと、それも学問的に話を聞くのは、またとない機会かなと思い、ちょっと期待が高まります。

最近のガッコのセソセイたち、「人間関係づくり」が子どもたちに不足してるって考えているみたいってところから話がはじまりました。まぁ確かにそうです。が、子どもたちに限らないかもとも思ったりしたのですが、それはおいといて…。
で、なぜ人間関係づくりが苦手かというと、人間関係づくりを必要としない環境にいるからであると。
ただ、人間の行動はつくれる。まぁ、つくれるというと語弊があるけど、平たく言うなら「影響を受ける」。これを「モデリング」というそうな。これを実験で確かめたのが「ボボドール実験」ってやつらしいです。
なんでも子どもたちを3つのグループにわけて、ビデオを見せる。共通しているのは「大人がボボドールをボコボコにする」で、その後「その大人がほめられる」「その大人が怒られる」「なんもなし」。で、ビデオ鑑賞後、ボボドールのある部屋で「好きに遊んでいいよ」ってやると、最初のグループは乱暴で、2つ目のグループはおとなしかった。
つまり「大人の行動」だけではなく、その行動がどう評価されるかが「モデリング」としての影響力を持っているわけです。で、影響を与えやすい「人」は、身近な人・権威のある人・近しい人だとか。
で、この「モデリング」と「行動分析」をあわせたものが「ソーシャルスキルレーニング」になります。
まずは「ソーシャルスキル」の定義から。

1、観察可能な学習性のスキルであること
2、効果的な働きかけと応答から成り立ってること
3、親・教師・仲間からの社会的強化を最大に引き出すこと

「○○ができない」ということを「性格・素質・遺伝」と考えると「変えられないもの」となってしまう。でも、「人づきあいのコツを知らない」と捉え直すと、それは獲得できるものになる。で、そのコツを具体的に練習することで身につけることが可能になる。そういう考え方のようです。
で、身につけるための一連の流れを「ソーシャルスキルレーニング」というわけです。
その流れは
「アセスメント→ターゲットスキルの確定→SSTの実施→SSTの評価」
となり、さらに「SSTの実施」は
「インストラクション→モデリング→リハーサル・フィードバック→定着化と般化」
となります。ここで「モデリング」と「強化(フィードバック)」が出てくるわけです。
アセスメントでは、実際の行動を観察して、不足しているスキルを検討します。で、ターゲットになるスキルをピックアップして、そのターゲットスキルの「コツ」を検討します。その際気をつけることが
1、観察可能
2、第三者からも同じように観察可能
3、主観的ではなく具体的な言葉での記述
4、否定形ではなく肯定形
で、その「コツ」の中でも対象となった人間にふさわしいものをピックアップします。
「コツ」を伝える部分がSSTになります。センセはここで山本五十六の言葉を引用されました。
「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」
らしいです^^;;。
インストラクションは「言って聞かせて」らしいです。つまり「なにをするか、これをすればどういういいことがあるか」ってことを伝えるみたいです。この部分、わたしはあまり好きじゃないんです。でも、「宮崎大学派」は一連の流れをカッチリやるので、ここも重要視するとか。
で、モデリングは「やって見せ」。ここで「いい例とよくない例*1」をやる。
で…。
ここで本日はタイムアップでした^^;;。

*1:悪い例とは言わないらしい

「提示」と「表象」

今日のテーマは荻生徂徠の教育学です。
出発点は「しつけ」をめぐる話。
しつけ…。まぁ最近では「ぶちはたきがしつけか体罰か」みたいな矮小化された形で語られますが、たしかに「しつけ」って不思議です。だって、「間違い」を糾すだけで、その前に「正しさ」を言葉では伝えない。いや、伝えてるかもしれないですが、実像とはかけ離れている。で、違うときに「違う!」という。で、なにもなければ基本そのまま。
でも、「違う」と言われることの集積の中で子どもたちは学んでいく。それを「習熟」っていうみたいです。「習熟」って、「習熟度授業」みたいに使われて、学力基準によるクラスわけみたいに使われますけど、たぶん本来の「習熟」の意味は「身につける」=「身体化する」みたいなことだったんじゃないかと。

そう考えた時、「あ、でも計算って習熟するべきものなんじゃないかな」って思いました。
子どもたちは「計算」でてんやわんやになるんですけど、あんなもんは作業でしかない。本当に必要なのは「解へといたる道の入り口に立つこと」だと、わたしは思ってます。
よく子どもたちは「長〜い解答」を見ると「難しそう」って言うんですけど、難しいかどうかは、その長〜い解答の最初の一行なんですよね。

てのはおいといて…。
で、徂徠は
「過剰に語ることはない。すべては文字に書いてある」
ってやっちゃいます。これ、闇斎の講釈への批判です。闇斎は、講釈を通して、事細かに指示をする。そこに解釈の自由はないわけです。に対して、徂徠は講釈をしない。すなわち解釈の自由がある。
このあたりのことを、センセは「提示(presentation)」と「表象・代表的提示(representation)」という形で示してくださいました。
事細かに支持を出し、反復によって模倣するのが「提示」。に対して、「例」→「バリエーション」みたいなのが「表象」です。当然、闇斎は前者で、徂徠は後者です。
でも、ここで徂徠はズルい手(笑)を使います。つまり、シカケを使ってその自由を制限する。そのシカケは「書物の権威」を持ち出すところにあります。
さらに徂徠はこうした「学び方」は武士にしか要求しなかった。で、「愚民^^;;*1」は日常生活を通して習熟を重ねればいい。逆に言うなら、日常生活を通して習熟を重ね、よりよい生活へと導けるような政治を「よい政治」とした。

ここでまた、「あ!」って思いました。
これって、クラス経営か(笑)?
「愚民」を「生徒」に置き換え*2、「政治」を「学級経営」に置き換えると
「生徒は日常生活を通して習熟を重ね、そのことでよりよい生活へと導けるのがよい学級経営」
うーん。かなりビミョーです^^;;。

でも、教育って、たぶん「提示」と「表象」の間を行ったり来たりするんじゃないかなぁ。
「模倣」を繰り返し習熟することで、それそのものが「表象」として「例示」するものへと突然変異を起こす。その時、次のステージへと進化し、またそこで「模倣」を繰り返し習熟する。
なんか、「提示」「表象」の解釈とは違うのかもしれないけど、そんな気がします。
で、「表象」には自由さがつきまとうんですけど、それを制限するシカケがある。やはりそれは「権威」なんでしょうね。その権威は、例えばかつては「学校」であったり「教「師」」であったりした。いまはそんなもんの権威は地に落ちてるというか、地に落とされてるというか、ま、そんな状況ですが、やはりそれでも「教科書」というメディアであったり、「教「員」」であったりするわけです。
シカケっていうのは、それがまるわかりになるとシカケではなくなります。
おそらくは「うまい教員」っていうのは、うまく「シカケる」人なのかな。

*1:って著者が書いてた

*2:別に「生徒」=「愚民」と言っているわけではないです

で、夕方からおべんきょ。
今日の内容は「認知行動療法」。最後はパニック障害の治療法までやっちゃうっていう、とても実践的な内容でした。

そもそも、ある出来事があって、それに対して感情がわきおこるわけなんですが、そこはストレートにつながっているわけではないというところが今日のスタートです。
なぜなら、ある悪い出来事があったとしても、「落ちやすい人」と「落ちにくい人」がいるからです。そこで、出来事と感情の間に「信念(belief)」があるとしたのが「エリスさん*1」みたいです。
とても簡単に言うと、エリスさんは、「落ち方向」に行く原因を「信念」が不合理な方に行くところに求めて、その「不合理な信念」に対して「論駁」することで「合理的な信念」に気づかせようとしたとか。なかなかハードです(笑)。

で、もうひとり、「ベックさん」は、その「信念」の部分を「自動思考(自然にわきおこってくる心の中の声)」と、そういう「自動思考」の背後にある「スキーマ(考えの傾向)」にわけて考えて、両方あわせて「認知」ってしました。
で、認知療法はベックさんの考えの延長にあって、「認知」全体を変える方法を考えた。ま、最近は「スキーマ」はきついので「自動思考」を変える方向でやるみたいですけど。
で、その方法として紹介されたのが「カラム法」。
「出来事」「それに対する感情」「結果としての考え」「その考えとは別の考え」「別の考えによって感情はどうなったか」というのを表にして、具体的に「別の考え」があることを実感し、身につける方法みたいです。

で、こうした認知療法と、パブロフなんかがやった「古典的行動分析」がくっついて、「認知行動療法」が出てきた。
認知行動療法の基礎的なモデルは、ある「環境」にとりまかれた時、「認知」「行動」「感情」「身体」がたがいに関連して動くってことみたいです。
で、その一例として「パニック障害」がとりあげられました。

今日紹介された治療の場合、中心となるのは「段階的エクスポージャー」と「カラム法」です。つまり「不安を取り除き」「より合理的で現実的な考え方を身につける」ってことですか。
ただ、エクスポージャーって、簡単に言うなら「慣れ」です。パニック障害起こしてる人間を、パニック起こしそうなところに連れて行って慣れさすんですから、まぁたいへんっちゃあたいへんです。なので、その前段階として、ラポールだの、治療方針の説明だの、「怖さの一覧表」をつくるだの、いろんなことをします。

しかし、完全に心理屋さんの世界になってきましたよ^^;;。でも、知っておくのは悪くないですよね(^^)

*1:どこかで聞いたなとずっと思ってたんですけど、「舞姫」か(笑)。

連続と不連続

今日のテーマは、すごく簡単に言うなら、「江戸時代の眼差しで近代を見る」っていうことでした。
従来の教育学という教育史というか、そういうのって、「起源は明治」「欧米型の教育が入ってきた時を起点として考える」みたいなとらえ方でした。それに対して、今やっているメディア論は江戸時代の教育の再評価というか、近代の教育のありようは江戸時代からの連続性の中にあるという観点が通奏低音として流れています。
で、その時に大切な観点は「今」から江戸時代を見るのではなく、江戸時代の眼差しで江戸時代を見、さらには江戸時代の「次の時代」を見ることであるとしています。
なぜなら、「今、ここ」にいる人間にとっては、「未来」は「今」の眼差しでしか見ることができない。それに対して、近代の教育の起源を「明治」ととらえる観点は、「未来」から「今」を見る見方である。で、そうではなくて、江戸時代からの明治時代への移行をとらえようとするならば、明治時代(未来)を江戸時代(今)の眼差しでとらえないとわからないということなんですね。
で、そうやってとらえると、江戸時代からの連続性の中に近代の教育はあるし、近代の教育のありようを考えるためには江戸時代にさかのぼらないといけないということになります。
ただ、この本、常に「現代はメディア革命の時期で、教育のありようが根底から揺さぶられている時代なんだ」っていうのが出てくるんですけど、それはどうかなと。
まぁ、今日の論議はそのあたりを中心に進みました。というか、進めました(笑)。

なんというか。
常に「今」って激動期であり転換期な気がします。それは、10年前の「今」がかつてそうであり、10年後の「今」もきっとそうであろうという意味で、です。そして、激動期・転換期は、常に「ここが不連続点なんだ」という主張とつながります。
でも、わたしは「歴史は連続と不連続を併せ持ちながら進行していく」んじゃないかなと思うのです。そして、その連続と不連続の間には「きしみ」がある。そのきしみをもって「転換点」との主張がされる。でも、それはいつだってある。

こういう話に対して、「「不連続」という主張がなされる時、きっとそこには「そこを不連続」ととらえる「意図」がある。実は注目すべきことはそこなんじゃないか」という指摘がセンセからありました。
これ、すごく納得します。
「誰が、どのタイミングで、なにを不連続というか」ということへの問いかけこそが大切である。でも、ついついそれを忘れてしまう。

そうそう。
わたしがこういうものの考え方というかとらえ方というか、そういうことができるようになったのは、まぎれもなく「部落史の見直し」に触れたからなんですね。
例えば、敗戦前後の連続(行政や経済構造・政治構造)と不連続(一部の法律)。あるいは明治維新期の連続(民衆の意識)と不連続(支配体制や社会構造・経済構造)。その中で部落はどのような眼差しで見られてきたのか、あるいは地区改善への意欲はどうであったか。そんなことを考えるきっかけをもらいました。
まさに、歴史に触れることによって歴史のとらえ方が変わり、そのことがものの見方の変化へとつながったわけです。

もう一つの論点は「稽古と反復練習の違い」でした。
おそらく「反復練習」は練習課題の習得のためにやるのですが、意図は明確であり、練習する側も「意識化された課題をより早く正確に」するためにやる。
ところが「稽古」は、練習課題が明確なのかどうなのか。もちろん「内容」は明確なのですが、なぜやるのかというと「身につける」ため。じゃ、「身につける」って?おそらくそれは「身につける」としか言いようがない。あるいは「行為を身体化する」。「稽古」って、「なぜこれをするのか」を超えたところにある。
で、そういう方法って、あるんだけど、学校の中ではカリキュラム上にはあらわれない。つまり「表のカリキュラム」の不連続と「隠れたカリュラム」の連続があり、そういう意味では、近代以降の教育のありようは、その「きしみ」の中にあった/あると考えることができる。

で、その「きしみ」の中からもうひとつのテーマ、「学力観の転換」が出てきます。
不連続点には「価値観の転換」みたいなのがあって、教育をめぐる価値観の転換は、「学力観の転換」につながるように思います。
ただ、これ、「連続・不連続」の話と通じるわけですが、「誰がいつどのタイミングでなにを不連続というか」と密接にかかわっています。
そういう意味では、「今」、「学力観の転換」が叫ばれているのですが、果たして今は「不連続」なのか「連続」なのか。「不連続」であるならその中身はなんなのか。そして「不連続と連続が同居」しているなら、なにが連続しておりなにが不連続なのかを今一度見つめ直さないと、「誰か」の意図に乗せられてしまうことになってしまう。
そんなことでしたかねぇ。

おべんきょの前は疲れてたんですけど、おべんきょが終わったら、妙に元気になってましたとさ(笑)。

研究者って人間だなぁ

今日のテーマは「古典的条件づけ」です。「レスポンデント条件づけ」ともいいます。
すごく簡単に言うと、「パブロフの犬」の話です。
これまでの話は「オペラント条件づけ」といわれるもので、スキナーが考え出したもので、スキナー以前という意味で「古典的」と言われています。
レスポンデントとオペラントを比較すると、前者は「先行刺激によって反応が生じる」「生物学的基礎を持つ反応」「対提示(餌とベルみたいなペア)」がキーワードになるのに、後者は「結果事象によって増減する」「強化経験によって獲得」「行動と強化の随伴性」がキーワードになります。
つまり、レスポンデント条件づけは、いわゆる「条件反射」なわけで、ベースになっているのは「無条件反射」なわけです。
で、行動療法のおもしろいところは「一定の法則で関連づけられたものは消去できる」ってことです。
これが発揮されるのは、「恐怖症」の治療みたいです。
恐怖症は、元来恐怖を感じないもの(中性刺激)に対して「無条件刺激(無条件反射を起こさせるもの)」がセットになることで(対提示)、元来「無条件反応」だったものが、「中性刺激→条件刺激」となり「無条件反応→条件反応」と関連づけられることにより起こります。
なので、それを消去(レスポンデント消去)すればいいということのようです。
で、消去の方法はめっちゃ簡単で、「段階を追って慣れさせる」です(笑)。
なーんだって結論なんですけど、でも、経験的に正しさを感じるのではなく、理論的にそれが正しいと言えるっていうことこそが「治療」につながり、そのことによって治療が「よりよい方法の模索」へといくわけですから、やはり意味があるんでしょうね。

にしても、ところどころではさまれるエピソードが…。
生後11ヶ月の「アルバートくん」にレスポンデント条件づけの実験をしてすごい成果をおさめた「ワトソンさん」は、助手と不倫して大学をクビになったとか、とある心理学者は自分の子どもが生まれた時に、ついレスポンデント条件づけの実験をしてしまったとか。
ま、研究者って、あまりにも人間なわけです(笑)。

「今」とはいつで、「日本」とはどこか

で、夜はいつものおべんきょです。
今日の内容は「日本教育史の成立」をめぐる話でした。
もともと日本において、教育学の一ジャンルとしての教育史はなんのためにあったかというと、教職者に「よい教育の伝達」としての必要性があった。なので、教職課程のひとつとして、文部省が必要としていた。で、当時(明治期)の教育史は、江戸期を切り離し、西洋から輸入されたものを「正式な教育」ととらえ、それを認定していた。
ところが、大正期に入って、江戸期に注目する教育学者が登場してくる。ペーパーにはその代表として3人とりあげられました。
で、それぞれに主張は違ったり対抗したりするんですけど、おそらくはナショナリズムみたいなものがあったのではないかと。それは、例えば「日本の教育の本質は教育への情熱で、それは江戸期にすでに見られていた」とか、「明治維新から半世紀にも満たない短期間で欧米諸国をうわまわる教育制度をつくり実現したことを考えると、西洋の教育の輸入だけでは論じられなくて、江戸期(寺子屋)に遡らなくちゃならない」みたいな主張が出てくるわけです。
で、筆者は、近代から近世を見つめるのではなく、近世の目で近世や近代を見つめる必要があるみたいなことを提起して、とりあえず終わったわけですが…。

たぶんこれって、いつの時代も同じことがあるんだろなと。制度改革をしたものは、「これこそが正しい」「これを正史とする」みたいなことを考えてしまう。でも、時代が過ぎていく中で、歴史の重層性みたいなものに着目して「もっと遡らなくちゃ」みたいな論議が出てくる。部落史の見直しも同じ論議ですよね。
ま、そんなことを考えてました。

で、センセからの提起は「では、いま、みなさんが「今の日本の教育」という時の「今」とはいつのことで「日本」とは何を指しているのか」でした。

はじめは、おべんきょ仲間からの「今の日本の教育といった時、受験偏重へと舵を切って以降」みたいな話からスタートして、例えば、「キャリア教育をしろといわれるけどそんなんできない」みたいな話が出てきました。
で、わたし、困っちゃいました。というのは、例えば京都の高校だけを考えても「学校」とか「教育」という一括にはできない多様性がある。例えば、キャリア教育は特別支援学校ではやっているわけです。でも、そんなもの、みんな知らない。なぜなら、特殊である。あるいは伝達する価値のないものとして、知らされていないからですよね。
で、「知らされていない人」って、そういう非常に限られた情報の中にいるのに、あたかも「知っている」かのような錯覚に陥らされている。
それは、教育再生実行会議も同じですよね。てか、より性が悪いです。
それと「今」と言った時、ひとつはまさに「昨日今日のレベルでの今」なんだけだ、もうひとつは教員として働いてきた29年間の「流れ」を今と捉える。まぁ、そんなことを考えていました。

あと、「教育」と言った時、その範囲はどこで誰が担うのかという問題もある。
例えば、高校進学率がさほど高くない時は「学校」を通過しなくても職につくことができた。で、そういう子どもたちの教育はおおざっぱな意味での「社会」が担っていた。ところが、98%あたりになると、「学校」を通過しないと職につけなくなった。すると、「教育」は学校にのみ押し付けられる、社会は関与しなくなる。しかし、学校をコントロールしたい勢力はあるわけで、必然的に素人が自分が責任を追わない形でコントロールすることになる。
あと「なぜ社会への関心を失っていくのか」みたいな問題提起がセンセからされて。
そこで、センセが紹介してくれたのがハンナ・アーレントでした。privateの語源は「なにかを失った状態」をあらわし、その「なにか」とは、「他者から関心を持ってもらうこと」である。で、privateが居心地のいい人は他者から関心を持ってもらわなくてもやっていける人であり、そういう人は強者である。でも、強者が権力を持つ限り、privateな社会へと移行するし、そこで格差は拡大していく。
そう言えば、「組合」って、privateとは真逆の存在です。で、この「組合」ってものの存在は法律によって保障された労働者の権利なんですよね。これ、厚生労働省が作成している労働者の権利にかかわるパンフレットにも書いてあります。でも、privateの広がりの中で、労働者自身が「組合」へと拒否感を持ってしまっている。なーんてことも、ふと思いました。
まぁ、そんなあたりまで話が広がって、さらに大阪市の小学校教員から大阪市の赤裸々な実態が話されて、なかなか「今」につながる話がてんこ盛りのひとときでした。

今日の内容は「行動の記録」についてでした。
ターゲットにする行動のありようによって、「単純に頻度を測る」「秒に区切ってそのインターバルの間に行動があれば一回とカウントする」「分単位でカウントする」。あるいは「行動の持続時間を測る」「行動がはじまるまでの時間を測る」など、さまざまな計測方法があります。
あと、常についてまわるのが信頼性と妥当性です。とりわけ信頼性をあげるために、どの計測方法を選択するのかということと同時に、ターゲットとする行動の定義を厳密にしていく必要があります。
で、実際にインターバル法である行動の回数をカウントしてみたのですが、おべんきょ仲間と比べっこすると、案外あわないもんなんですね。
おべんきょの中ですらこんなんですから、実際の観察の現場では、当然あわせるのはもっと困難みたいです。基本的には一人では信頼性に問題があるので、二人ペアでやるみたいなんですけど、観察する人は相当訓練を積んで観察に臨むみたいです。
てことで今日の内容はおしまいなんですが…。

「思想」を誰のものとするのか

今日は「石田梅岩」と「石門心学」が題材でした。とはいえ、石田梅岩の「思想」がテーマではなく「伝え方」がテーマでした。
そもそも儒教というか朱子学というか、そういうのって「読む」ことからはじまります。はじめは意味がわからなくてもとにかく読む。そして、言葉を身体化させて、思考の言葉を身につけていく。で、そうやって身につけた儒教の話をやりとりできる相手は、同じ言語を身につけた人なわけです。であるからこそ「素読」からはじまる儒教の習得の仕方が決められていた。
ところが、石田梅岩は、メインストリー厶の儒学の勉強をしていないんですね。でも、「体得」してしまった。体得してしまったけど、メインストリームの儒者からはぜんぜん相手にされない。でも、体得した限りは「伝えたい」と思う。で、「一番伝えなくてはならないのは?」って考えた時、それは儒者ではなく一般大衆であると考えます。一般大衆とは、例えば「第一次産業ではないがゆえに差別されていた商人」であり、あるいは「女性」であるわけです。そういう人たちに伝えるためには「文字」ではなく「講話」のほうが伝えやすいわけです。
そこから、「いかに伝えるか」という試行錯誤がはじまり、やがてそれは「道話」という石門心学の「伝え方」へと結実していきます。
それまでの儒教との一番大きな違いは、「Mass・rogue」であること。それまでは「Dialog」、すなわち一対一で「思想」を師匠から弟子へと伝えていたのを、大人数を相手にした伝え方へと変わっていくわけです。
そこで例えば、「高座」みたいなものを用いることで劇場的要素を取り入れる。あるいは日常の言葉を使う。普通に起こる出来事を取り入れる。オノマトペを取り入れる。そうすることで、梅岩の思想は大衆に広がっていきました。
で、従来の思想史の考え方としては、梅岩はまぁいいとして、弟子たちは梅岩の思想をどんどん薄めていったと捉えられていたんだけど、そうではなくて、そういう「伝え方」をとったことそのものを評価すべきではないかという問題提起でした。

で、これを読んだわたしは大爆笑です。
まさにわたしが「お座敷」でやっていることそのままです。わたしの「お座敷」は劇場的でありパフォーマティブであると、わたし自身は思っています。そしてそれは、わたしの数学の授業にもあてはまります。

でも、ふと考えます。それは前回のテーマとも重なりますが、「批判的であることを身に着けていない人に「わかりやすく」伝えた時、学問としては死ぬ」ってことです。
「上手な伝え方」は、そのまま下手すると「洗脳」あるいはそこまではいかないまでも「だまし」につながってしまう。
じゃあ、そうではなく「自ら深めよう」とする伝え方との差はなにかというと、やはり「批判の芽をつまない」というところかなと思いました。そのためにはどうするか。そこで、「学びへの参加」が大切になるんじゃないかなと思うのです。
「参加」というと、つい「アクティビティ」と捉えられがちだけど、身体は止まっていても、心や頭が活動する「参加」ってある気がします。
つまり「正しいことをうまく教えるために伝える」のではなく「学びへの誘い」としての「伝える」です。たぶん、そういうことが必要だし、そういう「伝え方」を広げていくことが、社会全体が「洗脳」「だまし」に向かいつつある今、そういう流れに抗う一つの方法なんじゃないかな。そんなことを考えました。

で、とって返して

で、おべんきょ場所へ移動、行動分析のおべんきょです。
いままでは「行動の理論」についてやってきましたが、ここからは実践編になるみたいで、今日は「観察」についてでした。
最初に駐車場でぐずる子どもの映像を見せてもらったんですが、これはえぐいわ。にもかかわらず、おかぁちゃん、
「やれやれ^^;;」
って表情。慣れた感じです。なんでも、行動分析を知ってる人らしいです。なるほど、まさに「実践知」って感じですね。
で、今日のテーマは、その子をどう見るかってことです。
最初にすべきことは、ターゲットになる行動(回数を減らしたい行動)を決めるってことです。
で、どんな行動がターゲットになりうるかというと…。
自他に迷惑をかける・自他に危険を及ぼす・非行につながるなど、ま、困る行動ですね。それを「ひとつ」決める。そしてそれを、分析的に見られるように具体化する。
例えば、「暴れる」じゃなくて、「人を叩く」みたいに。かつ、観察可能であり、回数や時間がカウントでき、客観的であるように具体化する。
そうそう。大切なのは、「○○しない」だけじゃなくて、かわりとなる「適切な行動」を決めることのようです。
そんなことを教えてもらって、再び駐車場のグズりを見ると、あら不思議。いろんなことが気になりはじめます。つまり、おそらくはそれなりにではあるにしろ、「分析的に」見るようになっているんでしょうね。
で、今日は、とりあえず自由に観察して、ターゲットになる行動を考えるあたりで終了でした。

しかし、例えば授業中の私語に対して「生徒同士の私語」を減らして「授業への参加としての発言」を増やすなんてことはいつもやっていることなんですけど、ほんとにそのことを理論的にバックアップしてもらったというか、逆に自分が漠然とやってきたことをもう少し理論立ててできることにより、より効果的にできるようになるきっかけやなぁという気がしました。

なにを選び、どう伝えるのか

今日のネタは、日本における朱子学の系譜みたいな話でした。
ペーパーを一読して、まず感じたのは「ふーん」でした。つまり「系譜」ってのをそれだけで捉えると「ふーん、そーなん」な話なんです。でも、「系譜」っていうのは、実は「解釈の試行錯誤」とか「葛藤」とか、まぁ、学問の学問たる所以というか、その軌跡とでもいうものかな。とてもダイナミックで、まさに、それぞれの人が自分の存在をかけて打ち込む姿が浮かびあがるわけです。
ところが、今日の話で言うなら、そこに幕府(政治権力ですね)が絡み、中国の科挙とまではいかないまでも、「武士のたしなみ」みたいなものがうまれ、やがてそれが「正当な朱子学」みたいなものがうまれる。そして、それが印刷技術の発展により、それが一般民衆に広まっていく。一般民衆はそれを正当なものとして受け入れていく。そんな中で、「学問」としての瑞々しさとかドロドロさとか、そういうものが失われてしまい、やがては朱子学儒教をよりよく理解しようと苦心惨憺して書かれた渾身の本が「試験のための参考書」とか「朱子学のノウハウ本」に成り下がっていく。
ま、そんなあたりの話でした。

でも、これって、考えようによっては、今もまったく同じだったりしますよね。で、そのあたりが今日の論議のテーマでした。

まぁ簡単に言うならば「教科書を教える」のか「教科書で教えるのか」ということ。それから「(教科として)なにを教えるのか」という、選択の問題。そして、それをどう「評価する」のかということ。
そう言えば、小中では「主要5教科」とか「副教科」なんていいまわしがありますよね。高校ではそういう言い方はしませんけど。で、例えば、数学なんかは「主要5教科」に入っているんですけど、常々
「なんでだろう」
と思ってきました。
一般には「読み・書き・そろばん」ってところにその根拠を求めたりもするのですが、「そろばん」と「数学」はまったく異なるもので、どちらかというと数学は「ゲージツ」に近いんじゃないかと思っています。にもかかわらず、「主要5教科」…。
で、ふと思いついたのは「主要5教科の共通点は座学であること」ではないかと。で、座学の特徴は「大人数を同時に効率よく教えることが可能な教科」であるということ。ってことは…。「主要5教科に何を選ぶかという、選択の根拠はコストではないか」ってことなんです。ま、単なる思いつきなので、それが正しいかどうかは別なんですけど、「読み・書き・そろばん」なんていうのは「あとづけの理由」って可能性もあるよなって話なんです。

で、もうひとつは「観点別評価のわけわからなさ」みたいなあたりです。もうええやろと。わたしになにが評価できるねんと。「意欲」を測るものさしはなんだと。「関心」は?「態度」は?んなもん、測れないよと。てか、わたしに「測る資格」なんてないよと。
じゃ、わたしは何を測るのか。わたしにできるのは「与えた数学の問題に対する解答能力」のみであると。だからこそ「余計なものは取っ払って純粋に点数だけで」というふうに考えるのです。
で、これをベースにして、でも、クラスの状況なんかでそこに味つけをする。

ここで、体育のおべんきょ仲間とプチバトルしました(笑)。
「体育とスポーツは違う」。
「スポーツ」は「勝つ」ことに重きを置くけど、「体育」は「知・徳・体」を総合的に学ぶ「教科」であるということです。なるほど。で、「知」に重きを置くわけではなく、例えば、「徳」の側面からも「評価」するも。
そういう意味では、わたしの数学の評価のしかたは、たぶんに「スポーツ的」なんだと思います。
ちなみに、バトルの内容は「評価の中身(なかよくしたら評価が高いとか)」にかかわることで、そのあたりは「ムニャムニャやなぁ」と思っていまして。
「いや、ヘイトスピーチやってるヤツらには「なかよくしよう」って言いますけど、職場になかよしがいないわたしは評価低いですよね(笑)」
みたいな。
このあたり「効率のよい主要(笑)5教科」と「そうではない教科」との違い、あるいは小学校と高校の評価のありようの違いなど、いろんな違いがあるでしょうから、まぁ、評価は可能かもしれません。わかりませんが…。

そうそう。もうひとつ思ったことは…。
ひとつの学問というか領域がメディアによって「わかりやすさ」を獲得することの怖さですね。そこにどんな意図が働くのか。あるいは批判的な見方を身に着けていない人がそれを見た時、あるいはその学問が「わかりやすさ」を身につけた時、学問として死んでいくということ。これまた、巷に溢れかえっているよなぁと。
そんなことを考えた1時間半でした。