なにを選び、どう伝えるのか

今日のネタは、日本における朱子学の系譜みたいな話でした。
ペーパーを一読して、まず感じたのは「ふーん」でした。つまり「系譜」ってのをそれだけで捉えると「ふーん、そーなん」な話なんです。でも、「系譜」っていうのは、実は「解釈の試行錯誤」とか「葛藤」とか、まぁ、学問の学問たる所以というか、その軌跡とでもいうものかな。とてもダイナミックで、まさに、それぞれの人が自分の存在をかけて打ち込む姿が浮かびあがるわけです。
ところが、今日の話で言うなら、そこに幕府(政治権力ですね)が絡み、中国の科挙とまではいかないまでも、「武士のたしなみ」みたいなものがうまれ、やがてそれが「正当な朱子学」みたいなものがうまれる。そして、それが印刷技術の発展により、それが一般民衆に広まっていく。一般民衆はそれを正当なものとして受け入れていく。そんな中で、「学問」としての瑞々しさとかドロドロさとか、そういうものが失われてしまい、やがては朱子学儒教をよりよく理解しようと苦心惨憺して書かれた渾身の本が「試験のための参考書」とか「朱子学のノウハウ本」に成り下がっていく。
ま、そんなあたりの話でした。

でも、これって、考えようによっては、今もまったく同じだったりしますよね。で、そのあたりが今日の論議のテーマでした。

まぁ簡単に言うならば「教科書を教える」のか「教科書で教えるのか」ということ。それから「(教科として)なにを教えるのか」という、選択の問題。そして、それをどう「評価する」のかということ。
そう言えば、小中では「主要5教科」とか「副教科」なんていいまわしがありますよね。高校ではそういう言い方はしませんけど。で、例えば、数学なんかは「主要5教科」に入っているんですけど、常々
「なんでだろう」
と思ってきました。
一般には「読み・書き・そろばん」ってところにその根拠を求めたりもするのですが、「そろばん」と「数学」はまったく異なるもので、どちらかというと数学は「ゲージツ」に近いんじゃないかと思っています。にもかかわらず、「主要5教科」…。
で、ふと思いついたのは「主要5教科の共通点は座学であること」ではないかと。で、座学の特徴は「大人数を同時に効率よく教えることが可能な教科」であるということ。ってことは…。「主要5教科に何を選ぶかという、選択の根拠はコストではないか」ってことなんです。ま、単なる思いつきなので、それが正しいかどうかは別なんですけど、「読み・書き・そろばん」なんていうのは「あとづけの理由」って可能性もあるよなって話なんです。

で、もうひとつは「観点別評価のわけわからなさ」みたいなあたりです。もうええやろと。わたしになにが評価できるねんと。「意欲」を測るものさしはなんだと。「関心」は?「態度」は?んなもん、測れないよと。てか、わたしに「測る資格」なんてないよと。
じゃ、わたしは何を測るのか。わたしにできるのは「与えた数学の問題に対する解答能力」のみであると。だからこそ「余計なものは取っ払って純粋に点数だけで」というふうに考えるのです。
で、これをベースにして、でも、クラスの状況なんかでそこに味つけをする。

ここで、体育のおべんきょ仲間とプチバトルしました(笑)。
「体育とスポーツは違う」。
「スポーツ」は「勝つ」ことに重きを置くけど、「体育」は「知・徳・体」を総合的に学ぶ「教科」であるということです。なるほど。で、「知」に重きを置くわけではなく、例えば、「徳」の側面からも「評価」するも。
そういう意味では、わたしの数学の評価のしかたは、たぶんに「スポーツ的」なんだと思います。
ちなみに、バトルの内容は「評価の中身(なかよくしたら評価が高いとか)」にかかわることで、そのあたりは「ムニャムニャやなぁ」と思っていまして。
「いや、ヘイトスピーチやってるヤツらには「なかよくしよう」って言いますけど、職場になかよしがいないわたしは評価低いですよね(笑)」
みたいな。
このあたり「効率のよい主要(笑)5教科」と「そうではない教科」との違い、あるいは小学校と高校の評価のありようの違いなど、いろんな違いがあるでしょうから、まぁ、評価は可能かもしれません。わかりませんが…。

そうそう。もうひとつ思ったことは…。
ひとつの学問というか領域がメディアによって「わかりやすさ」を獲得することの怖さですね。そこにどんな意図が働くのか。あるいは批判的な見方を身に着けていない人がそれを見た時、あるいはその学問が「わかりやすさ」を身につけた時、学問として死んでいくということ。これまた、巷に溢れかえっているよなぁと。
そんなことを考えた1時間半でした。

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