逃げ切った…

朝、野入さんのお宅を出て、どこに寄る元気もなく空港へ。空港では「金曜日に出します」と宣言したレポートを書き書き。
飛行機に乗って、しばらくは「あそこが那覇空港」「てことは、あれが普天間だな」「嘉手納基地が見えんなぁ」「うわ、辺野古は真下か」とか思っていたものの、沖縄本島を離れたところで爆睡です。目が覚めると高知のあたりを飛んでいます。まもなく着陸ですね。
空港からは「はるか」を使うことにしましょう。ほんとにしんどい。でも、車内でふたたびレポート書き書き。完成したところで送信です。
なんか、便利になったけど、どこまでも仕事ですねぇ。
レポートができたところで、きょうのおべんきょの準備開始。なんせ、事例報告しなくちゃならないのに、なーんにもできていません。
とりあえず家に帰って荷物を置いて、またまたおべんきょ場所へ移動。その道中、ずっとスライド作成です。結局、おべんきょ開始時間の5分前にスライド完成。あとは口先三寸でなんとかなるか^^;;。
しかし、20年近く前のデータがよくそろったもんだなぁ(笑)。

おべんきょのあとは、I城さんとか新しいおべんきょ仲間のF村さんなんかと打ち上げ。おいしいお好みをつつきながら、ジェンダー界隈のかなーり濃いぃ話をしてしまいました。
でもま、そろそろ身体も限界だな…。

学ぶ場所に正しいところはあるのか?

今日のおべんきょは事例研究でした。
んー
話を聞いていると、出口のないしんどさを感じます。なんか、泥沼に入り込んでいく感じかなぁ。なにがきっかけというわけでは、きっとないんですね。流れが「そちら」へと流れ込んでいく。あがいてもしかたない感じ。
そういう状態で
「みんなで話し合って」
とか言われて、どうしようかと。
「学校」で起こったトラブルに対する責任を「学校」はどこまでとれるのかなぁ。でも、例えば「友達関係」は「学校」を媒介にすることが多い。となると、「友達関係内のトラブル」も学校が責任をとるのかなぁ。でも、それって不可能なんじゃないかなぁ。だって、学齢期の子どもの生活はほとんどが学校にからまっているんだから、子どもの生活のほとんどに責任をとらなきゃならないことになってしまいます。
そんなことを考え、で、それぞれのグループごとにどんな話が出たかを紹介したあと「後日談」が話されたのですが…。

「学校とつながる」=「学びとつながる」
と、つい教員も保護者も考えてしまいます。しかし、ほんとはそうじゃない。
いや、「学校」がもっと「責任」から解放されれば「学び」とつながることも可能かもしれない。でも、「生活丸抱え」の「学校」である限り、子どもにとっての「学校」の持つ意味はあまりにも多くなりすぎ、それは「学び」以外のことを契機に「学校」から子どもが出ていく可能性が高まることを意味する気がします。
であるなら、純粋な「学び」を求めるために「学校」から「逃げる」という選択肢もありなんじゃないかなぁ。

「後日談」は、そんな「逃げ」の選択をした姿のような気がして、なんとなくホッとしました。

仕事を終えて…。というか、仕事を最後人にまかせて、とりあえず職場をあとにします。今日は久々のセンセとサシのおべんきょです。
でも、わたしのおべんきょ計画の話はあっというまにおしまい。あとは延々と「部落をどう伝えるのか」についての話が続きます。
端的に言うならば「部落ってなんだろう」っていう、今さらではあるけど、今も続く問いについて考える時間です。
ここで、どうもセンセとわたしの間にあるビミョーなすれ違いが明らかになります。まぁ、センセは部落問題のプロパーだし、わたしはしょせんはそんなプロパーの人たちから聞いた話で考えた人間なので、まぁレベルが違います。でも、そんなところで「まいりました」とかいうのもおもしろくないので、果敢に攻めるわけです。
センセは、わたしよりほんの少し上の世代です。でも、その少しの時期が問題で、大学時代を80年代に過ごしたか70年代に過ごしたかは、時間的には少しの違いだけど、社会的には大きな違いのようです。やはりセンセは、「マルクス主義的発想」でものを考えられます。に対してわたしは…。「マルクスを読んでない世代」というか、「マルクスを読むのをサボった人」なんで、そりゃズレますわ(笑)。
ただ、マルクス主義の影響をさほど受けなかったことは、それはそれで意味があるかなと。そこへもってきて、いわゆる同和対策の各種法律がどんどん切れていく過程を、見つめることしかしなかったけど、そこからなにをしていくのかを考えなきゃならない立場なわけで、そこから考える「こと」もあるわけです。
昨日のズレにひきよせるなら。
センセは、「部落であるメルクマールはなんだ」ということを考えられる。に対して、わたしは「メルクマールなんてあとづけじゃん」みたいな発想になるわけです。
「かつては川の向こうとこっちというメルクマールがあった。でも今はそういうものがない、あるいは希薄になっている」
「でも、その「川の向こうとこっち」というメルクマールは絶対的に存在していたわけじゃなくて、非被差別の側が恣意的につくったもので、根拠はないじゃないですか。だから、もとから希薄なものなんですよ。で、それを互いにつくりだしあい、維持しあう関係がある。メルクマールって、そういうもんじゃないんですか?」
みたいな。
たぶん、わたしは「かつての部落」をさほど知りません。なので、「絶対的な差がある」とは感じない。逆に「かつて絶対的な差」とされていたものも「川の向こうとこっちとで共同作業で維持されていたもの」と考えてしまう。
もちろん、これは個々の事例や個人の経験の語りには、表面上はあらわれてこないかもしれない。でも、たぶんそういう構造になっている。で、その「川」はあくまでも象徴であって、「川」は両者の「(表面上はあらわれてこない)ネゴシエーション」によって、その位置を変える。
そんな感覚があるんですよね。
つまり、「絶対的なメルクマールはない」あるいは「メルクマールはネゴシエーションの結果あらわれるもの」みたいな。

で、お互いに「ズレ」を残したビミョーな感覚を感じながら、おべんきょの時間は終わるわけです(笑)。

で、正念場

とりあえず、いつもどおりの時間に起きて、職場に向かいます。職場においてあるものをピックアップしたり、今日の最終準備をしたり。
で、おべんきょ部屋へ移動。
すでにおべんきょ仲間が集まって、なにやらものものしい空気が漂っています。
実は、わたしは昨日の夜、「なんとかなるか」って感覚を掴んでいたので、逆に自分の不足なところをいかに指摘してもらえるかってほうに気持ちは動いています。
で、いよいよ「中間発表」のはじまりです。わたしはなぜか最後…。まぁ、年齢順みたいなもんでしょう(笑)。
ひとりひとり発表が終わっていき、わたしの順番がやってきました。直前に「主体と客体」みたいな論議があって「その論議は90年代にあって」みたいな返しがあって、これは流れが悪いなと。で、
「なんか流れが悪いな」
とつぶやくと、司会のセンセ
「なんで?いい流れじゃないですか」
「いや、発表の文中に「主体」って言葉を使っちゃったんですよね」
みたいな会話をして、さて、スタート。いつものようにめっちゃ早口で15分間走りきりました(笑)。
で、10分間の「まな板タイム」です。何人かのセンセからツッコミが入りましたが、みなさん
「うぉい!そこ?」
みたいなツッコミで、少し欲求不満…。というか、一番掻いてほしいところを掻いてもらえてない感じ?はたしてうまくいったのかいかなかったのか、よくわからないままに「正念場」は終了。

夜中にやってくる

今日は昨日の反省に立って、問題箇所をほぼ全面書き直し。ふむ。羅列ではなく、キーワードを抽出しながらつなぎあわせ、しかも共通点をあぶり出して、持ち上げて叩く。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
半日コネコネしたけど、どうもイマイチしっくりなめらかにこないです。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
夕方、タイムアップ。やむを得ず、「寝かせ」にはいります。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
とりあえず、おべんきょ場所に行って、しばしセンセの話を聞いて、家に帰って、とにかくビール(笑)。
さてと。寝かせたネタをふたたびこねますか。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
と…。
寝ちゃいました。そりゃ、ふとんに横になってパソコン開いたら寝ますわな。
12時頃、ふと目が覚めて、仕方ないので「明日の朝にやろう」と決意。寝る準備をして、目を閉じ…。
来ました。コロボックルさんが運んできてくれました。にしても、「よりによって今か」と。このまま寝るか、パソコン開けるか。明日の朝までキーワードを覚えてる自信は…。ないです。てことは、パソコン開ける以外ないですね。
カチャカチャカチャ。あ、つながったo(^^)o。

行き先を見失わないこと

わたしはもちろん文筆家ではありません。でも、なんかしらんけど、文章を書かなきゃならないことがよくあって、なんだかんだと書いてきました。
でも、今は、これまで書いてきた文章とはまったく異なるタイプの文章を書いています。長いです。しかも、行き先はまっすぐ。あるいは…。いままでは人をびっくりさせて笑わせる文章。でも、今書いているのは人を納得させて安心させる文章。そんなの書いたことないです。
するとどうなるか。

スキーと一緒です^^;;。
初心者は足元を見る。上級者は前を見る。インストラクターは後ろも見る(笑)。

いま、わたしは文章を書きながら、下ばかり見ています。だって、なにがあるかわからないし、「これでいいの?」って、いつも不安だから。で、足元見て進んでいって、二週間に一回の「おべんきょタイム」に
「ここまで来ました」
って言って、センセとあたりを見まわしたら、センセから
「あんた、どこ行きたかったん?」
って呆れられる。で、わたしも
「あれ?どこでしたっけ」
「こっちとちゃうん?」
「あ、そっちでしたっけ?」
みたいな会話が続きます。
これはいかんなと。こんな会話を楽しめる間はいいんですが、もう、そんな時期ではありません。でも、初心者であることに変わりがない。
じゃどうするか。

とにかく、たまには顔をあげよう。ほんの少し立ち止まってもいいから、たまには行き先を見よう。その時気づいたことを形に残そう。
行き先を見失わないこと。

違和感

考えをまとめているときの「おべんきょ」はあきませんね。なんか、思考にノイズが混じります。なので、少し気は重かったのですが、行かなきゃならんものはならんので行ったわけですが…。

先週「ひさびさにおもろい!」と思ったおべんきょが「事例研究」でして、興ざめです。でもま、聞かせていただきましょう。
で、聞きはじめたのですが…。
なんだろう、この違和感。
いや、とても優秀な教員であることはわかるのです。でも、優秀すぎて、なんか違和感。
子どもを見る→分析する→方策を立てる→実行する→評価する→…。
みたいな。で、「一年間やりきりました。うまくいきました」。いや、学ぶべきことはたくさんあるんです。でも、直感的に「ここからは学びたくない」と思ってしまう違和感。
子どものありように名前をつけ、それを手がかりに分析し方策を立てる。自分の理想とする像があり、そこへいくためにさまざまな手立てをする。実際には違うのかもしれないけど、報告からはそういうふうに受けとめてしまうのはなぜなんでしょうかねぇ。
もしかしたら「あるべき像」みたいなものがあるという意味では、「四角」をめざすのか「雲」をめざすのかは、わたしには同じに見えているのかもしれません。では、わたしは?
たぶん、「ありたい像」はあるにしろ、現実にある「もの」からできるものは「それ」とは違うと考えているのかな。そして、できあがったものが「めざしてた像」とは違っても、「できたやん(^^)」って思っちゃう感覚。

うーん。
どうしようもないもやもやを抱えながらのいち日の終わりでした。

やはりこの空気がいい!

2年前は興味の向くままにしていたおべんきょですが、最近は「必要に迫られて」みたいな感じになってきています。なので、「んー」と思うこともないわけではないのですが…。
今日のおべんきょは久々にヒットでした。
元来わたしは「役に立たないこと」が好きなんですよね。ところが、なーんか「今日から役立つ」みたいなおべんきょが最近多くて、「役に立つなぁ」と思いながらも、イマイチ感がじわじわ来ていたんです。
ところが今日のおべんきょは、ひさびさに「だからなんなの」感があって、おもしろかった。

話の発端は「現代とはどういう時代か?」みたいな話で、いきなり「役立たず感」満載です(笑)。
ものすごく簡単に言うなら、前近代→近代→ポストモダンという流れの中で、近代からポストモダンの移行期にあるということです。
では、近代とはどんな時代であるかというと、「葛藤」の時代であると。例えば夏目漱石。「こころ」の「先生」は、ひたすら悩む。どこまでも悩む。解決なんてないけど悩む。そこには、「近代的自我」の芽生えと「エゴイズム・罪悪感・孤独」があると。そしてそれは「抑圧的パーソナリティ」であると。
に対して、現代は「解離」の時代であると。例えば「村上春樹」。「多崎つくる」は傷ついた自己を抱えている。で、巡礼の旅に出るけど、それは自らの主体的な意志で行ったというよりも状況の流れのままに行われる。そこには「現代的自己」があり、「心の傷つき・離人感・孤独」があると。そしてそれは「解離的パーソナリティ」であると。
で、この「葛藤」から「解離」へという移行期が「現代」の特徴であると。
ここで「アイデンティティ」が登場します。「アイデンティティ」とは、「「わたし」が「自己」であることの責任を引き受けること」「本来引き受けようのないことを引き受ける「主体的」な「判断」である」「「他者」からの承認を必要とする」ものであると。つまり、自分の中にあるバラバラなものを選択的に取捨する行為で、そこには「葛藤」が生じる。しかも集団なしには個は成立しない。
ところが、「解離」とは「パーソナリティを多様な自己のままにおいておく」。そこには「悩み」がない。

ちなみに、センセは
「どちらがいいのかわからないけど、自分が生まれ育った時代は「葛藤」と親和性が高いので、どうしても「解離」に否定的になってしまうんですよね」
って言っておられました。

で、この「解離的な現代」の思春期・青年期の特徴は「悩まない」「悩めない」。すると、もしも問題が起こった時はどうするかというと、その問題の所在を内面化するのではなく外面化する。具体的には「現実化」であり「外在化」させていまう。端的に言うなら
「悩まない人は他人を責める」
と。
では、なぜ「解離」へと進んでいったのか。
「葛藤」には、その悩みの伴走者となる他者が必要となる。しかし、そのような伴走者がいなくはってきているのではないか。
このようななかで、例えば子どもたちのコミュニケーションは直接性を強く希求する。と同時に冗長性への不寛容さが起こる。
しかし、今ある社会や学校のあり方は、このようなバラバラさを促進しているのではないか。

みたいな話でした。
あー、疲れた(笑)。

でも、なんか「あー…」みたいな。
ちなみに、わたしの村上春樹観は…。
「主体的な「判断」を下しても、結局それを実現できない社会の中で、小突かれながら生きていかざるを得ない。その中でアイデンティティを喪失しながら、状況の流れのままに「やっかいごと」に巻き込まれる」
みたいな感じがあるんですけどねぇ。そういう意味では、センセの言われるほど「現代的」ではないとうか、その「現代」を先取りしていたというか。

でもま、久しぶりにめっちゃ眠い頭が少しシャンとしました。

半日一緒だったな…。

わたしのスマホ、「はんにち」と打つと、最初の候補が「反日」なのは、まぁ(ry。
閑話休題
おべんきょ仲間のIさん、たしか木曜日にわたしの授業を見学に来るって言ってたけど、いつだったかなぁと昨日思っていて、朝、駅のホームでばったり会って、今日だったかと気がついた朝からスタートした今日なわけですが。
Iさん、すんごい積極的というか物好きというか。管理職以外見に来た人はほとんどいないわたしの授業を見たいとは。ま、そりゃ、経験年数は無駄に多いし、無駄な工夫もしてるし、そのおかげで「セオリー」からはずれてしまったダラダラの授業ですから、あまり参考にはならないんですけどね(笑)。
てのはどーでもよくて…。
午前中3時間つきあってくださいました。
やはりお客さんがいると子どもたちはどことなく緊張するのかなぁ。いつもより反応がいいです。これから週一回くらい、誰かゲストに来てもらおうかなぁ…。って、そういう目的なら日当払わにゃならんな^^;;。
で、Iさんはお昼に帰られて、そこからは自問自答の時間がはじまります。途中、ほんとに自問自答というか、問うだけで答えられない時間もあったりしましたが、とりあえず脳みそがとまるまで自問自答をし続けて、とにかく「形」をつくらにゃならんので、むりくり書くわけですが…。
つくづく「あたしゃネコだなぁ」と思いました。ネコって、どこかに行こうとして3歩歩いたら忘れちゃうみたいな。わたしも「何かを書こう」として、3行書いたら何を書こうとしてたか忘れたりするわけです。なので、最初に書いたことと、途中で書いてることと、最後に書いたことが、なんか食い違ってるというか、別になってるというか。
まぁ、そんなことに気づいても、それを修正する言葉が出てこない。これはヤバイです。

てなことで、夜はおべんきょです。
再びここでIさん登場(笑)。たぶん、わたしがグーギャーなるところを見に来られたのかなと^^;;。
とにかく、話の筋が一貫してないところは
「ここ、ミスです」
とか、てきとうにごまかします。で、そのままどんどん話を進めていきます。
にしても、今日はなんか「わからん」とか「論理が飛んでる」とか、あまり言われません。やはり、思いつきで書いたメモの集まりではないというのかいいのかなぁ。
なんだかんだで、1時間濃密な時間を過ごして、「終わり」とか言いながら、30分ばっかダラダラ話をして、今日のおべんきょ終了です。
でも、うん。前へ動きはじめたって手ごたえがあったなo(^^)o。

エビデンスはつくるしかないか…

「○○について書かれた文章はたくさんあるけど、そのほとんどは××で、△△についてはあまりない」
っていう文章を書こうと思ったけど、根拠がない。どうしようどうしよう…。しゃーない、自分で根拠をつくるしかないです。
てことで、とある検索システム(笑)でキーワード放り込んで検索かけました。700件以上ヒットしました。これ、分類するのか_| ̄|○
ま、考えている間に手を動かすかな…。