安保法制、いよいよ大詰めです。昨日、奥田愛基さんが参議院の中央公聴会に呼ばれて意見を述べたその内容がネットにあがっていて、それを読みました。で、これはみんなに読んでほしい。伝えたいって思いました。
なので、今日は伝えよう。
てことで、今日の衣装はこれです(笑)。
こないだの日曜日、靭公園で買いました。
読んだ瞬間、涙で言葉が詰まった箇所がふたつありました。ひとつは
2015年9月現在、今やデモなんてものは珍しいものではありません。路上に出た人々のがこの社会の空気を変えていったのです。
もうひとつは
新しい時代はもう始まっています。もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。私たちは学び、働き、食べて、寝て、そしてまた路上で声を上げます。できる範囲で、できることを、日常の中で。
でした。なぜだろう。おそらくそれはこういうことです。
わたしは、35年前からたいしたことはしてないけど、それでも路上で声を上げてきました。一時中断しました。でも、「教育基本法改悪」という敗北を経験して、「あきらめる」ことをやめました。「絶対にあきらめない」と決めて、自分の日常の場で、ひとりでも声を上げることにしました。そうやって10年たった時に、カウンターと出会いました。そして再び路上で声を上げはじめました。それが仲パレや東京大行進につながり、そして先日の日曜日の「大行動」へとつながっています。
でも、わたしの「持ち場」は、日常です。そこでひとりでも声を上げ続けること。「できる範囲で、できることを、日常の中で」と思いながら、自分の日常でやってきました。
そんなわたしに「それでええやん」と言ってくれた気がしたのです。だから「これからもやろう」と思わせてくれたのです。だから、声がつまったんだと思います。
奥田さんの発言には
自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動してください。
という一文があります。言うまでもなく、党議拘束を指しています。が、わたし(たち)がこれまでやってきたことです。ほんとうに孤独の中で考え、孤独に行動してきました。そんな人々がとうとう集まって動きはじめた。そこにわたしもいる。
そんな気がしました。
自分自身で、共に
とは「べてるの家」の「当事者研究」です。が、まさにその実践のもうひとつの場とも言える気がします。
さあ、伝えよう。そして、自分で(は)行動しよう。
ぜったいにあきらめない。もしも強行採決されたら、それはより激しい「次の闘い」の幕開けでしかありません。
> 路上で声を上げます。
路上で声を挙げるな などと言うつもりはまったくありません。
わたし自身 京都市内で開催された リベラル系のデモに何回か参加した経験がありますし 、 東京都内で反イスラエルデモが開催された際は 身体にイスラエル共和国国旗を巻いて (日本国籍者としては)一人で無言のカウンターをした経験もあります。
9月16日に 地元で横浜で安保法制についての地方公聴会が開催された際 、 安保法制への抗議として横浜市環状2号線をシットインで封鎖された方々がいました。
環状2号線周辺には 救急医療施設あるいは病院がいくつかあります。
自らの主張のために 医療を必要とする人々に影響を及ぼすことが許されるとは思えません。
主張する人々には どうか自分より弱い立場にある人々への配慮を忘れないでいただきたいと思います。
デモに参加している時に、救急車のサイレンを聞いてハッとすることがあります。
「命が大切だ」と言って今の行動をしているわたしたちは「命」を保障することは忘れてはいけないことだと思います。