今日の午前は出張。第二のふるさとで定例の会議です。
ここ数年、ずっと学力問題について論議をしてきましたが、今日はもっとざっくばらんに「これからの人権教育」についての論議です。とはいえ、なんらかの共通のエビデンスに基づいて話するというよりも、それぞれの園校の実態をもとに話しあうという感じです。したがって、論議をかみあわすというより、話題を提供しあうという感じになります。
こういう時、保育園と義務制(小中)と高校では、まったく感じが違うんですね。保育園は、個別の課題というよりは「友だちと仲良く」とか「命の大切さ」を人権と考え、すべての保育士さんがそれをベースに保育をされます。義務制は基本的に教職員の統制をとりながら、一枚岩でとりくんでいきます。なので、年間の人権教育のスケジュールをたてて、個々の差別についての学習や人権という概念の学習を、教科としても担任としても、全体でとりくんでいく感じです。
それに対して、高校はバラッバラです。何がバラバラかというと、ほんとに、バラバラです。まぁもちろん「人権は大切」とは思っておられます。が、もしかしたら「人権より大切なものがあると思ってるやろ?」と思うこともしばしば。その「より大切」は、それぞれの立場でバラッバラです。例えば、分掌によって、教科によって、部活動によって、バラッバラです。それだけ個々の立場の独立性が高いといえばそうなんですが、逆に共有するのが難しい。それは、ある意味いいことです。わたしだって起立礼はしませんからね(笑)。でも一方、人権についてまともに考えたり実践したりする機会は、それをしなきゃならないセクションに入った時に限定されてしまうという側面もあります。もちろん、いずれのセクションも人権をベースにしなきゃならないことは言うまでもないことなんですが、でも、直接的には「より大切」なことがあると考える人が多いんです。必然的に、人権についてまともに考えたり実践したりする機会は「人権担当」にならないとなくなってしまいます。でもまぁ、ほんとは人権担当であろうがなかろうが関係なく、はじめから人権をすべての教育活動のベースにすえて実践するのが望ましいことは言うまでもないことなんですけどね。
てのはおいといて。
人権担当になった人は、大きく3種類にわかれます。ひとつのパターンは人権担当になることで「人権が大切」と考えるけど、人権担当ではなくなったら「より大切」なことが出てくる人です。もうひとつのパターンは、人権担当になることで「人権が大切」と考えて、人権担当でなくなってもやっぱり「人権が大切」と考える人です。
もちろん、育てたいなと思うのは後者のような人です。そしてそういう人は、たしかに存在しています。例えば、人権担当同士のメーリングリストに、人権担当をはずれても「いれといてね」とかいう人、おられます。とてもうれしいです。
で、3種類目の人ですが、それは人権担当になることで「はまる」人です。言い換えるなら、人生が変わる人です。例えば、趣味が高じて引越しをする人とか、研究にのめり込むとか、まぁいろんな人がいますけどね(笑)。
今日の会議で、わたしの先代の人がいみじくも言いました。
「この世界は、はまるとおもしろいんだけどね」
まさにそのとおりです。おもしろい。ほんとにはまるんです。もちろんわたしもそうだし、日本全国見渡すと、わたしの友だちはみんなそうです。てか、たぶんわたしの友だちも、その人のまわりはみんなそんな人なんだろうと思います。
じゃあ、どうすればどはまりするのか。それは、どはまりした人と一緒に実践をすることです。一緒に行動をするのもあるし、「話し込むことやな」と突き放されることもある。そうやって、どはまりした人のブラックホールに飲み込まれ、もまれることで、ホワイトホールからぽんと出て、自分もどはまりして、自分のブラックホールをつくっちゃう。
でもまぁ、どはまりすると、誰かさんみたいに人権担当に居座ってしまって、そうすると、そこの学校では他の人が人権担当になれる機会が減ってしまうということになります。となると、さっきの3種類以前の話になってしまう。困ったもんですわ…。