とあるところから「いままでやってきたことや書いたことを表にせよ」というお題が降ってきたのですが、これが案外むずかしいです。
もちろん、やってきたことはやまのようにありますが、これが「表」に入ることなのか。たぶんほとんどが入りません。さらに、入るとしてもどこに入るのか。まぁメインのところじゃなくて、「その他」なんでしょうけどね。
でもこうやって表にすると、いろんなことをやってきたし、いろんなことを書いてきたなと思うのですが、一方で、今いるところはそれらがほとんど評価されないところなんだなと、あらためて考えさせられるわけです。じゃ、これから先の人生で、いままでやってきた「雑事」と同等な量を新たなフィールドでできるかというと、たぶん時間的に無理でしょうね。そう考えると、絶望的ですらあるのですが…。まぁ、質を変えるかないか…。
年: 2017年
承認欲求を満たすこと
今日は午前は第二の故郷に出張です。内容は、いつもの通り、学力問題についての論議です。
なんかどうもかみあわない。いや、かみあわないのはわたしだけなんですけどね。どうも焦点がズレます。たぶん、変なところ見てるんです。だって「参考になれば」とか言って、「フィンランドにおける包括的性教育のpdf」を送ったりしてますから。なんか、たぶん、あることを示すために、かなり遠いところに駒を置く感じなんですよね。まぁいいや。
で、午後は職場に行って、あれこれやって。そんな間にも、いろんな情報が入ってきます。
で、帰り道に「人をたぶらかす」ってことについて考えました。
これ、うまい人います。てか、わたしもうまいです。でも、それをどれくらい意識化し、それをどう使うかってすごく大事です。
「人をたぶらかすことがうまい人」は、たぶん「承認欲求が強い人」の「承認欲」をうまく満たすんですよね。「わたし、あの人と知り合い!」みたいな。で、それって、どこか依存体質とつながっていると思います。ちなみに、「承認欲求が強い人」をうまくたぶらかすことができる人も、実は「承認欲求が強い人」だったりします(笑)。なので、「承認欲求が強い人」によって「承認欲求が強い人」の承認欲求が満たされるということになります。ちなみに、この手の人が一番手っ取り早く承認欲求を満たす方法は「有名になること」です。てことで、講演の講師になったり本を出したり、まぁ、壮大なブーメランが飛んでくるわけです(笑)。
実は、人をたぶらかすのはとても簡単で、結論としては、依存の対象となることを引き受ければいいわけです。ちなみに、依存の対象になることもまた承認欲求を満たすことにつながります。「いや、引き受けるのはたいへんだろう」と。実は簡単です。ヤバくなったら逃げればいい。じゃ、その人はどうなる?それは「知らない」って逃げればいいんです。しかも、これ、意識化してなかったら、こういうことをやってることがわからないから、本人には罪の意識もない。でも、逃げられた側はたいへんです。依存体質を満たされたうえで、さらにはしごをはずされるわけですから、ヘタすると生死にかかわります。
まぁ、たぶん、というか、確実にわたしにもこういう過去があって、いまだにそのことを引きずっています。だから、とてもこわい。
でも、それをこわいとも思わず、意識化してかつ自分のためにやる人がいたら?それはこわいです。で、そんな人はきっと現実にいるわけです。
ほんとにどうしたものかなぁ。
ねむい
朝起きると、とにかくねむいです。おかしいな。一昨日も昨日も、けっこう早く寝たのにな。
職場に着いてもねむさは変わらず。まいったな。
それでも試験前だから、図書室学習です。いろいろ準備はしてあるから、なんとかなるでしょう。今回の試験は折り返しだから、いままで2回とは意味が違います。ヤバイ子は、今回コケると致命傷です。なので、挽回とは言わないまでも、そこそことってもらわないとまずいです。
それにしても、なんで三角関数ってそんなに理解できないのかなぁ。計算なんてほとんどないし、作図の繰り返しだから、パターンを覚えたらメッチャ簡単なんだけどなぁ。まぁでも、図形で考えられるところで、そもそも数学が苦手な子とは違うのか。
そう考えると、わたしの世界の認識方法と子どもたちの世界の認識方法は全然違うんだろうな。もちろん「あたりまえ」なんだけど、問題は「方法が違う」ってところで、これは情報「量」という話じゃなくて、もっと根本的なところなんですよね。なんせ、わたしは量はたいしたことないしなぁ。
これ、こないだの澤田さんの話の中に出てきてすんごいおもしろかったのに日記に書き忘れていた「コンテンツ」と「コンピテンシー」の話ですね。もちろん両方あると最強なんですけど、わたしは「コンテンツ」は少ないですけど、「コンピテンシー」はあるんだろうな。でもこれ、どこかで学んだわけじゃなくて、「コンテンツの少なさ」ゆえに、必要に迫られてこっちに流れただけなんですけどね(笑)。
まぁ、そんなこんなで、ひたすら眠い一日が終わって、ふとんに入るとようやく眠気が去って行きました。さて、これで寝られます(笑)。
多様な出会いをコーディネートしたい
朝、目が覚めた瞬間「ここはどこ?」って思ったけど、なんとかホテルであることを思い出して、次の瞬間「あれ?ロビーに何時集合だっけ」と不安になって時計を見ると、7時半。よかった…。
とりあえず朝ごはんを食べて、荷物を整理して、ひと息ついてロビーへ。どうやら集合は8時半だったらしく、余裕でした。よかった。
で、今日は分科会。レポートを頼まれているのですが、当然何も考えていません。まぁ、リビングライブラリについてはずっと考え続けてきた内容だから、いまさらなにか新しいことはないですよ。
てことで、いつもの通りなげやりなレポートをしてしまいました。でも、それを澤田さんがみごとにフォローしてくださるというか、盛り上げてくださるというか。ありがたいです。
で、岩手県からのレポート。アルバイト調査と労働についての授業です。
もしかしたら、全国的にアルバイトを禁止する高校が増えてるのかな。まぁ、禁止する理由はいろいろあるんだけど、それだけ社会と隔絶させてどうすんねんども思うのです。しかも、最近は「遊ぶ金ほしさ」というより、家計の補助とか将来の進路のためとか、かなり切実な理由が多いので、やみくもな禁止はきついと思うんだけどなぁ。
で、アルバイトをするなら、やはり労働法について知らなきゃならんと思うのです。当たり前だけど。でも、教員が知らないんですよね。わたしも含め(笑)。
ま、そんなことを考えているうちに、分科会も終了。
で、全体会もつつがなく終わって、解散です。
で、沖縄の人と一緒に、向かうは東山駅です。その向こうには「おたふく」があります。
で、4時くらいまで呑んで、さらに九条に向かって、8時くらいまでウダウダして、本日の行動はすべて終了。
さてと、家に帰る体力は残ってるかなぁ(笑)。
しまった、今日は天一の日だった(;_;)
疑問が少し解けた
今日と明日、「高校カリキュラム交流会」とかいう集まりがあります。これ、日教組主催の集まりで、特に高校教員が集まるものみたいです。で、そこにレポートしろと。まぁ、ここで出していないレポートはいっぱいあるから「ええですよ」と安請け合いした次第です。
で、今日は全体会。上智大学の澤田稔さんの講演とシンポジウムです。ちなみに澤田さん、どこか出会ったよなと思っていたのですが、どうやらこの日路上でお会いしたらしく、そのままfacebookの友だちにしていただいていたという。さらに、こないだのアブタークのイベントにも来られていて、わたしの話を「おもしろい」と言ってくださっていました。
てことで、講演を楽しみにしていたのですが、おもしろい、ふだん「学習指導要領」とかマトモに読まないのですが、やっぱり読んだほうがいいですね。文科省の考えが伝わってきます。
ちなみに「文科省」と言っても一枚岩ではないわけで、かなりリベラルな人もいるはずだと思っていたのですが、やはりそうだったんだなと。そういうリベラルな人と保守的な人と、さらには他の省庁の駆け引きの中で、落とし所として出てくるのが「学習指導要領」だったりします。そういうふうに裏側から読むと、とてもおもしろそうです。
さらに講演の後のシンポジウムで、そのあたりは深められました。ちなみに、このあたりになるとかなり疲れていて、頭が働かなくなっていましたが…。てか、1時から5時半まで休憩が合計20分くらいしかないのはきついでしょ。
ただ、結局は、現在の教育をめぐる多忙化は、教育を事務方によって操作されているところにあるらしいなと。つまり「整理された整った姿」を前提にしている。ところが、現場はそうはいかないです。次の瞬間、何が起こるかわからない。で、それを楽しむようなろくでもないのが教員してるわけです。なので、教員が文書づくりに親和性がないのは当たり前です。例えば、文書づくりひとつとっても、「ごあいさつ」でも「ご挨拶」でも「御挨拶」でもええやんと思うのですが、「ご挨拶」じゃないとダメとかね。
逆に事務方の人が「何が起こるかわからない」ところに放り込まれて動きがとれなくなる(だろう)のと裏腹なわけです。
ただ、教育の本来が「ハプニング」にあるのに、教育行政が「予定調和」を重んじるようになっているので、その歪が教員にくるわけです。
これをどうしていくかですね。
てなことを考えていたけど、ほんとに疲れたところで今日のプログラム終了。
で、懇親会です。さすがにこの交流会に来るのははじめてなので、知ってる人がそんなに多くはないです。でもまぁええかということで、九州ブロックの人と話したり滋賀の人と話したり。そんなこんなで、気がつくとウィスキーストレートと炭酸のチェイサーを握りしめてました(笑)。
で、二次会は地元のスナックへ。ここでわたしは澤田さんを独占。まぁ、名目は明日の分科会の打ち合わせですが、なんか、やたらおべんきょの話をしてました。
てことで、11時頃にはおひらき。ホテルに帰って、歯磨きをして、服を脱いでふとんに入った瞬間に爆睡です。
意外とできるな
昨日までの脳みそ使いまくりな日々をとにかく終え、今日はひといきつけそうです。ほんとに、なんでこんなことをやってるんだろうとは思うのですが、まぁしかたないです。
てことで、のんびりと数学のプリントつくったりしてたら、一通のメールが来ました。えーと。テープ起こしの校正ですか(;_;)。
2時間の講演の校正だからどれくらいかかるだろ。とりま、やるか…。なんでも、今日はノー残業デーらしいけど、みんな関係なく仕事してます。まぁそんなもんでしょ。
で、なんだかんだとやっていたら、6時頃には終わりました。なんだ、できるじゃん(笑)。
で、夜はstnのミーティング。今度の11月25日に交流会をすることに決定。やはりここは肉を食べたいということで、「変態肉食交流会」とか名前がつきそうになったけど、まぁ無難に「秋の交流学習会」にしようと。まぁ、変態でもええんやけど、正式ルートにのせるときにめんどくさいからなぁ。
うーん
今日の授業の「入り」のひとこと
「今日は「にっぽん、爆発しろ」という気分です」
です。
結局、リベラルといわれる層が議員にはすごく少なくて、そういう人数を全部かき集めても勝てないんですよね。その背後には、リベラルな中道という人が少ないってことがあるのかな。極右が増えることで極左に流れないとバランスがとれなくなった。すると、ネトウヨ的議員は山のようにいるけど、極左はそもそも議会制民主主義を否定したりもしてたから議員にいない。
まぁ、あれが現実的な解なんだろうけど、もう「カレー味のうんこかハヤシライス味のうんこか」なわけで、「どっちにしろうんこやろ!」なわけです。
だから、ほんとにもう「にっぽん、爆発しろ」としか言えない。
でも、ここで生きていくしかないのかなぁ。
授業の作法
この間、悩み深きあるセンセが、なぜかわたしの授業をヒントにしようとされてます。どうやら発端は、授業があまりにもうるさいので、そのクラスの生徒たちにそのセンセの授業についてのアンケートをとったところらしいです。すると、ある生徒が「怒鳴らなくても危機感をもたせる方法をいつきは知ってる」と書いたらしいです。なんかやったっけ?
でも、藁をもつかむ思いで見に来られた授業が、これまたやりやすい日で、一体感あふれた感じで、びっくりされたと。いや、その前の前の授業とか、みんな寝てたし(笑)。
でも、そのセンセ、ものすごく研究されてるし、準備も工夫もしておられる。どころか、子どもたちのアンケートを見たら「先生の授業は好き」って書いてます。だから、なんの問題もない。てか、問題があるのはわたしのほうのはずです(笑)。
そのセンセと話してて、わたしが留意していることを話すと「あぁ、一緒」ってつぶやかれてます。まぁ、だから見に来られたんでしょうけどね。でも、どこかでなにかが違うみたいです。それを、そのセンセは「人柄とテクニック」と言われます。が、テクニックはともかく「人柄」は違うでしょうね。そうなったら授業のよしあしは「人柄」で決まってしまう。そしたら普遍性もなにもなくなってしまいます。
で、つらつら考えていたのですが、子どもたちの前の「人柄」もまた「テクニック」なのかなと。
まぁ、基本、
「教壇は舞台!わたしは主演女優!あなたがたは観客!わたしの手のひらの上で踊るのよ!」
って考えてますからね(笑)。
役者である限りは、人柄もテクニックのうちでしょう。もしも、ほんとうに人柄があるとしたら、そのテクニックのさらに背後くらいの、かなり深いところなんじゃないかなと。
あとは「子どもであること」かな。そうすると、テクニックとしての人柄が前へ出てきます。喜怒哀楽ははっきりと。それも「I message」で。子どもは普遍化しません。するときは「みんなやってる」とかいう子どもの普遍化で、それに対しては「みんな〇〇したら、お前も〇〇するんか!」というアホな普遍化返しでおしまいです。
喜怒哀楽には、もしかしたら「びっくり」も入るのかな。そういや「おもしれーo(^^)o」は多用しますね。新たな知識や新たな気づきを楽しむ。子どもたちの小さな気づきを大きく育てて驚き楽しむ。
あるいは自分の疑問を徹底的に考えて、さらになぜその疑問を持ったのか、そしてなぜそれにその解答を導き出したのか。その過程も徹底的に考える。そして気づきに驚き喜ぶ。それは、子どもが「なぜ?」を繰り返してくることと似ているかもしれません。
そして、そういう演技をすることを楽しむということ。なぜなら、教室は芝居小屋だからです。
たぶんそんなことをやってるな。
あー、めんどくさいことやってるなー(笑)。
運が悪い
なんか、京都府の教員の中で無作為抽出をするクジにあたってしまったみたいです。てか、これ、無作為やないやろ。わたしみたいに、勤務時間を守っている人間に、この手の調査のサンプルにするって明らかな作為を感じます。もっと標準的な人を選ばんかい。
で、中身を見ると、高校と特別支援学校が使う表が同じらしいです。終わってます。同じなわけがないやろ。かたや、担任と分掌で業務がくっきりわかれる高校。かたや教職員総出で子どもと向き合う特別支援学校。これ、たぶん仕事の内容でわけてるんじゃなくて、管轄が市町か府かでわけてるな。仕事の中身を考えてないやろ。
さらに、やった仕事の中身を分類しろと。その中身を見たら、あたかも網羅しているようで、実は「よく知らない人が常識的に考えるとこんなもんかなと考えた分類」に思えてしまいます。基本的に「子どもにかかわる仕事」とか「校務にかかわる仕事」とか書いてますが、わたしみたいに「府全体にかかわる仕事」となると、どこにもない。つまり、分類不可能な仕事をしている人間はどうすりゃいいのかと。例えば「考える」という時間があります。これ、まわりからはなにしてるかわからないし、本人もなにしてるかわかりません(笑)。さらに、人権教育について考えることもあれば、教科について考えることもあります。でも実は、それらは不可分なので、そうなると「考える」ということは仕事に分類されるのかされないのか。あるいはどこに分類するのかがわからない。例えば「解放新聞」だって『部落解放』だって読みます。必要に応じて、ネットでジェンダー関連の論文を検索して、例えば『教育社会学研究』だって詠みます。新聞読んだり雑誌読んだり論文読むのは仕事じゃないと思われるかもしれませんが、この手の情報収集は、人権教育の「これから」を考えるためには欠かせません。こういう「自己研修」とでも呼ぶものはない。他にも例えば放送部のケーブルの修理とかしてますが、あれは校務かなぁ。まぁ、全部「その他」にすりゃいいのか(笑)。
しかも、期間が一週間。えーと、わたしの仕事は、けっこう季節もので、文化祭とか採点とかその他諸々、忙しい時はオニのように忙しいけど、ヒマな時はけっこうヒマで、そんな時は「考えて」いたりします。ただ、文化祭の時も「待機」が仕事だっりします。まぁ言うなら、消防士と同じです。火を消している時が仕事に見えるけど、待機してる時も仕事なんですよね。で、そんな時にコンビニにごはん買いに行ったら「仕事せい!」って怒られる。いや、火事がないぽうがええに決まってますやん。まぁ、どこを切り取るかでぜんぜん違う。
さらに、一週間の勤務の内容を30分おきに記録しろと。えーと、学校って、30分とか60分でまわってないのですが。
で、表が午前5時からはじまって午前5時で終わってます。アホかと。酒飲んでるわ!まぁ、でも、修学旅行とか合宿の引率とかだったら、やってるか。てか、そこまで仕事してることを想定してるんだったら、こんな調査いらんやろ。
ということで、10月の調査だけど、いまのうちに8時から17時まで「その他」の仕事をしているって書いておこうかな(笑)。
あらためて、「語ること、隠すこと、さらすこお」
こないだのアブダークのイベント、予想通り、あまり話題になってないから(笑)、誰も読んでないここで、自分で話題にしようかなと。というか、やはり準備不足が否めないというか、終わってからいろいろ考えるというか。
実は、シンポの中で、わたしは「打って出る」という話をしました。そのことを打ち上げの時に、兵庫のK川さんに話すと「わかってるよ」って言ってくださいました。たぶん、わたしが一番伝えたかったのは、そこだったんだろうなと思います。
つまり、いくら「さらされて」も、「それがどうした?」って言えること。「さらす」行為を無化すること。
お座敷の中では整理しきれてなかったけど、アウティングはクローゼットと背中合わせなんですよね。「隠す」からこそ「さらす」ことの意味が発生する。それを無化するためには「カミングアウト」しかない。
じゃ、カミングアウトが困難な状況があるじゃないかと。それはどうするかと。
そんなの、困難な状況がなくなった時はカミングアウトは必要なくなりますよ。つまり、困難な状況があるからこそカミングアウトに意味があるわけです。だからこそ、そのカミングアウトをアイデンティティにした瞬間、「困難な状況」の中に組み込まれることになると、フーコー大先生はおっしゃっているわけです。
では、カミングアウトのモデルとなりうるのは?
それは、障害者解放運動であり、在日朝鮮人やアイヌやウチナーやアフリカン・アメリカンやその他のエスニックマイノリティであり、クィアな人々であり、そして女性たちです。他にもいろんな人々が「24時間ひとりバレード」をしてきました。
いやいや、部落差別には「他とは違う特殊性」があるからという論は、もちろんあるでしょう。が、それを言うと、他のマイノリティ問題もまた、それぞれの特殊性の中で、その特殊性を理解しながら他のマイノリティとの普遍性も模索して闘っているわけです。
もうひとつ。打ち上げの中でも神奈川の人と話していましたが
「例えば大阪ではあれだけ解放教育やってきたのに、なぜ今の状態なのか」
という問いですね。これの答えは、シンポの中で阿K○さんがすでに話してました。
「闘い方を教えてこなかった」
です。いや、たぶん闘い方を教えてはきました。が、ベクトルがずれていた。
神奈川の人は
「capなんかを学んだ人は闘い方を知っている」
という趣旨のことを言っておられました。
たぶんそこに答えが隠されています。
つまり、ピンの闘い方を教えてこなかったんです。自戒の念をこめて言うならば「解放という理想の社会」を目指して闘う方法を教えてきたんです。それが、あえて言うなら「集団主義」ということになるのかなと。でも、その「解放という理想の社会を目指す」ことこそが、現在の権力構造の中に組み込まれる行為であると、フーコー大先生はおっしゃっているのです(笑)。
ちなみに、「集団主義」についてはここに「部落解放教育における集団主義とは、集団を個に優先させる考え方ではない。部落解放運動の闘いの論理に根ざしたものであり、すべての人の人権を土台に据えた考え方である」とありますが、中身がよくわかんないです^^;。
やはり、解放教育の背後に解放運動があった/あることは間違いないし、そのことのメリットはすごくありました。いや、いまもあると思っています。ただ、やはり「集団」に依拠してしまうんですよね。だから、例えば「差別発言を受けた時どうするか?」というその時その場での闘い方をきちんと教えてこなかった。まぁ、「教えてこなかった」は言いすぎだと思うけど、でも、capのようにメインにはおいてはこなかったと思うのです。
つまり、ミクロとマクロを往復しながら、自分の持ち場でピンで闘うこと。これがおそらくは普遍なんじゃないかと思ったりもする今日このごろです。