あらためて、「語ること、隠すこと、さらすこお」

こないだのアブダークのイベント、予想通り、あまり話題になってないから(笑)、誰も読んでないここで、自分で話題にしようかなと。というか、やはり準備不足が否めないというか、終わってからいろいろ考えるというか。
実は、シンポの中で、わたしは「打って出る」という話をしました。そのことを打ち上げの時に、兵庫のK川さんに話すと「わかってるよ」って言ってくださいました。たぶん、わたしが一番伝えたかったのは、そこだったんだろうなと思います。
つまり、いくら「さらされて」も、「それがどうした?」って言えること。「さらす」行為を無化すること。
お座敷の中では整理しきれてなかったけど、アウティングはクローゼットと背中合わせなんですよね。「隠す」からこそ「さらす」ことの意味が発生する。それを無化するためには「カミングアウト」しかない。
じゃ、カミングアウトが困難な状況があるじゃないかと。それはどうするかと。
そんなの、困難な状況がなくなった時はカミングアウトは必要なくなりますよ。つまり、困難な状況があるからこそカミングアウトに意味があるわけです。だからこそ、そのカミングアウトをアイデンティティにした瞬間、「困難な状況」の中に組み込まれることになると、フーコー大先生はおっしゃっているわけです。
では、カミングアウトのモデルとなりうるのは?
それは、障害者解放運動であり、在日朝鮮人アイヌやウチナーやアフリカン・アメリカンやその他のエスニックマイノリティであり、クィアな人々であり、そして女性たちです。他にもいろんな人々が「24時間ひとりバレード」をしてきました。
いやいや、部落差別には「他とは違う特殊性」があるからという論は、もちろんあるでしょう。が、それを言うと、他のマイノリティ問題もまた、それぞれの特殊性の中で、その特殊性を理解しながら他のマイノリティとの普遍性も模索して闘っているわけです。

もうひとつ。打ち上げの中でも神奈川の人と話していましたが
「例えば大阪ではあれだけ解放教育やってきたのに、なぜ今の状態なのか」
という問いですね。これの答えは、シンポの中で阿K○さんがすでに話してました。
「闘い方を教えてこなかった」
です。いや、たぶん闘い方を教えてはきました。が、ベクトルがずれていた。
神奈川の人は
「capなんかを学んだ人は闘い方を知っている」
という趣旨のことを言っておられました。
たぶんそこに答えが隠されています。
つまり、ピンの闘い方を教えてこなかったんです。自戒の念をこめて言うならば「解放という理想の社会」を目指して闘う方法を教えてきたんです。それが、あえて言うなら「集団主義」ということになるのかなと。でも、その「解放という理想の社会を目指す」ことこそが、現在の権力構造の中に組み込まれる行為であると、フーコー大先生はおっしゃっているのです(笑)。
ちなみに、「集団主義」についてはここに「部落解放教育における集団主義とは、集団を個に優先させる考え方ではない。部落解放運動の闘いの論理に根ざしたものであり、すべての人の人権を土台に据えた考え方である」とありますが、中身がよくわかんないです^^;。
やはり、解放教育の背後に解放運動があった/あることは間違いないし、そのことのメリットはすごくありました。いや、いまもあると思っています。ただ、やはり「集団」に依拠してしまうんですよね。だから、例えば「差別発言を受けた時どうするか?」というその時その場での闘い方をきちんと教えてこなかった。まぁ、「教えてこなかった」は言いすぎだと思うけど、でも、capのようにメインにはおいてはこなかったと思うのです。

つまり、ミクロとマクロを往復しながら、自分の持ち場でピンで闘うこと。これがおそらくは普遍なんじゃないかと思ったりもする今日このごろです。

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