「講演2発」は、「お座敷2発」ではありません。今日は朝から一日出張です。その午前が講演というかシンポジウム。夜は「京都部落問題研究資料センター」の連続講座でした。
- 「『足もとをほりおこす同和問題』の70年の歩み ーその継承と発展ー」
てことて、まずはシンポジウム。K都府人教の歴代の会長さんのうち4人が登壇されてのシンポジウムでした。
まず最初に「ジェンダーバランス悪っ」からスタートです(笑)。まぁでも、そんなことを考えるようになったのはここ数年なんで、それが現実のものになるにはまだしばらく時間がかかるでしょうね。だって、まずは女性が校長になるところからはじまらないといけないわけですからね。
で、シンポジウムを聞いていてつくづく思ったのが、京都府の同和教育は「学力保障」を柱にとりくまれてきたんだなということでした。
京都の同和教育は、まずは京都市内からスタートしています。京都府については、北部からスタートしていて、その出発点は「今日もあの子が机にいない」とのことだったと。が、南部では「いないのは生活がしんどいからで、しゃーないな」だったとか。でも、「それはかんやろ」ということで夜学がスタートしていく。まぁそのあたりはいいんですけどね。でも、アイデンティティ保障みたいなのがないんですよね。もっと端的にいうならば、社会変革へとはいかない。やはり学力保障です。
これ、教員としてはしやすいです。だって、自分の仕事ですし、夜学もある意味、自分の仕事の延長線上にあります。「教えたくて教員になった」人にとっては、とてもハードルが低い。だからこそ、おそらく京都でも同和教育がそれなりに浸透していたんだと思います。
それはその後も続きます。法律ができて、行政も一体となりながらやっていったのは、やはり低学力の実態の改善です。そこでは、低学力の実態をアカデミックに理解し、仮説を立てて実践するって感じです。これもまた、いかにも「教師」って感じです。
いや、それそのものはいいんです。でも、それだけで解決とは言えないだろうなってことです。というか、もっというならば、そこから出てくるものとして、「本人の責任に帰す」ところが見え隠れするんですよね。だから「非行は宝」みたいな話にはなりにくい。現に、シンポジウムの中では「荒れ」の話は出てきませんでした。「荒れ」をどうとらえるかというのは、ある種の分水嶺です。「非行は宝」という言葉の裏側にあるのは、「非行」という行為を通して社会の中にある問題点を指摘しているという考えです。でも、「非行」を単なる「非行」としてとらえると、それは「本人に帰すべきこと」になってしまう。
低学力や荒れの実態はたぶん、例えば京都も大阪も変わらないんだろうけど、その原因を本人や本人を取り巻く環境にもっていくか、学校や社会のありようにもっていくかの差かな。でもこれは大きい差です。まさに、障害の「社会モデル」か「個人モデル」の差です。そしてこれが、障害のある子の教育保障の話とつながるわけです。つまり、京都の支援学校型と大阪の「みんなの学校」型の差ということです。
てなことを考えて、シンポジウム終了。
まぁもちろん、京都の教員みんながみんなじゃないです。それぞれの地で「非行は宝」と思いながらとりくむ教員はいたし、今もいます。が、大きな流れとして、京都はそういう動き方をしてきたってことです。
で、午後は分科会。なんかもう、ひたすら「特性を持つ子ども」みたいな話が出てきます。暗澹たる気分になります。いや、別に発達障害の話をしてもいいです。が、大切なのは「Aちゃんにどうかかわったか」のみに終わらないこと。「Aちゃんにかかわること」を通して、子どもたちや教職員が、あるいは学校が同価値観を変えていったのかということなんですよね。それがまったく出てこない。ここでも「個人モデル」が幅をきかせている。
きっと、発達障害系の話がいっぱい出てくるのは、具体的に教員が困っていて、「問題」の解決を欲していて、しかも自分が揺らがないからかなとか…。そう考えると、新渡日の子どもたちについては教員が困るから日本語指導を一生懸命やる。それに対して、部落問題とか在日朝鮮人問題って、教員は困らないですからね。だからやろうと思わない。そう考えると、妙にすっきりしますね。
とにかく、今日はこれ!夜に大阪で集まりがあるんだけど、それを振ってでもこれ!前々からものすごく興味があったないようです。講師は中村治さん@大阪府立大学人間社会学研究科です。
岩倉についての詳しい話はwikiせんせいにまかせます。が、この中にも出てくるように岩倉には精神病院がたくさんあります。そして、かつては精神病者を村全体で受け入れていたという歴史があります。なんか、こういう話を聞くと、思わず北山十八軒戸を思い出します。そう言えば、前に講演をきいた時に「このあたりでは、ハンセン病の人は普通に街を歩いたし、銭湯に一緒に浸かってた」みたいなことを聞きました。そんな感じなのかなぁ。
てことで、話を聞いていたのですが…。
なるほど。岩倉は貧困。そりゃそうです。いまでこそ地下鉄も通っているし、ちょっと避暑地気分にもなれる場所ですが、もともと「山の向こう」です。必ず峠を越えるか川を渡るかしなきゃならない。そんな貧困な、でも土地がある場所では何をするかというと、もちろん米もつくるわけですが、「人を受け入れる」ことでなんとかするという道を考えるわけですね。それが、精神病者であり里子であるというわけです。
従来、精神病者は「座敷牢」に入れられるのがあたりまえだった。でも「あそこに行けば治るらしい」みたいなところが、実は日本中にあったりします。経済的に余裕がある人はそういうところに行って「治療」をする。でも、たいていのところは「付き添い」がなかったらダメでした。ところが、岩倉では「強力」とか「飯炊き婆」を雇って、付き添いなしで預かる。これが岩倉が大人気になった理由のうちのひとつだそうです。でもこれ、地元の薪で地元の米を炊いて、地元の人が「強力」「飯炊き婆」になるわけで、おそろしく経済効果が高いわけです。
ということで、岩倉では精神病者は大切なお客さんとして存在していた。しかも、岩倉って、けっこう「エライ人」ともつながっているところみたいで「高貴な人」もかなり来ていたとか。となると、これはかなりおもしろい。
それが、精神医療行政とかいろんなからみで変遷していくんですよね。つまり、そういう「民間が預かる」みたいなのはダメとか、逆に精神病院が足りないためにキャパオーバーな預けられ方をさせられるとか。さらに「岩倉に行く」=「精神病院に入院」みたいな風評被害があったりして、精神病者受入の町としての岩倉は崩壊をしていくんですけど、その一歩手前でなんとなく踏みとどまっているのが今の状況とか。
というのは、高齢化が進む現在、認知症なんかも含めた「最大広義の精神病者」はどんどん増えていく。そういう人を施設に収容するという方向は、もうキャパの問題を考えたり経済的な問題を考えると不可能です。となると、必然的に地域の中で暮らしていくのが現実的なことです。その時のモデルが、実は岩倉のかつての姿であり、実は今の姿でもあるんですよね。今、病院に入院している方々も、基本的には開放病棟ですから地域に来られます。そして、例えばおやつなんかを買って、帰られる。それがあたりまえの風景として岩倉にはあります。そしてそのことを通して、岩倉の人々、特にかつて受入をしていた地域の人たちは精神病者の人に「慣れる」ことができる。そうやって共に生きる社会が、実はある。
きっと、こういうふうな社会があたりまえのようにあれば、あの相模原の惨劇はおこらなかったんじゃないかなぁ。