メゾとミクロ

去年だったかに、マクロ・メゾ・ミクロについて考えたわけですが、そんなことをふと思い出す、今日のおべんきょの前半です。
内容的には新渡日の子どもたちへのとりくみの話なんですが、京都市教育委員会レベルではそれなりにマニュアルもつくっているし、制度も保障している。にもかかわらず、現場の教員、特に新渡日の子どもを担任している教員がそのことを知らないという話です。
まぁ、これ、もったいない話です。せっかくさまざまなリソースを用意してくれているのに、知らなければアプローチすらできません。ただ、なぜ知らないんだろうとは思います。それを教員個人のせいにするのでもなく、教育委員会の怠慢とか広報のまずさにするのでもなく、もう少し構造的に捉えてみたいなぁとか、ふと考えてみたりするわけです。
そこで、メゾとしての教育委員会とミクロとしての学校・教員の「ズレ」が出てくるのかな。そのズレの内容は、実はわからないのでなんとも言えないのですが、もしかすると「よかれ」と思って制度をつくるけど、その制度がミクロレベルでは「負担」となるので、自然とそこから逃げてしまうみたいなことはないのかなぁとか。ちなみに、この「負担」というのも意識的ではない気がするのです。
教員って、平等性をすごく重んじる気がします。実際に平等かどうかは別としてですが。そうすると「制度」は「特別扱い」になる。それは平等性とは反対に思えてしまう。でも、実は「平等性」って楽なんです。「なにもしないこと」ですから。
なんか、そんなあたりにカギがある気はするのですが…。

久しぶりに来た

今日はおべんきょ仲間と飲もうという話もあったのですが、そのすぐあとにメールが来て
「ウトロの会議があるから、来られるなら来てほしい」
とのことだったので、そちらを優先することにしました。
わたしは1992年にウトロに行くようになって、それから10年くらいはしょっちゅう行ってましたかねぇ。その後、なんだかんだで忙しくなって、しかも引っ越してしまった関係で、最近はぜんぜん行けてないのですが、やはりいつも心の片隅にウトロがあり続けています。
久しぶりにウトロの会議に行くと、いつもの変わらない人々が論議をしています。かつては「裁判をどう闘うか」という話だったけど、今は「街づくりをどうするか」という話になりました。決して「ベスト」の状態ではないですが、「ワースト」であればウトロの街はなくなっていたわけで、それはとにかくくいとめられた。そして、やっと「ベター」な「ここ」まで来たんだなぁという気がしました。
わたしがウトロに出入りするようになったのは裁判闘争になってからですが、それより数年前は「水道管敷設闘争」があったわけで、そのころからかかわりつづけている人たちにとっては、ほんとうに「やっとここまできた」「あと少し」という思いでしょうね。
でも、わたしですら、この20年の間に亡くなられた方がおられることを知っています。その人たちの無念さは、おそらくは「恨」ということなのかなぁ。わたしにははかりかねる深さや重さがあるような気がします。
しかし、10年以上不義理をしているわたしを、変わらないあたたかさで迎えてくださるウトロの人々に、なんとも言えない感謝の気持ちがわいてきました。
わたしなりに、できる形でウトロにかかわり続けていきたいし、街づくりを見届けていきたいし、なによりウトロのハルモニたちオモニたちの笑顔が見たいなぁ…。

ここをもっともっと詰める

なんか、「考え」のエントリと「おべんきょ」のエントリがほとんど同じになりつつあるわけですが(笑)。ま、しゃーないといえばしゃーないですね。
ま、それはおいといて…。
帰りの電車の中で本を読んでいて、突然ひらめいたことがありました。さっそくevernoteにメモ。あ、メモするときはwritenoteってアプリが便利です。
あー、でも。
今までだったら、この時点で「わかった!」「できた!」ってなったんだろうな。でも、「ここからはじまる」って考えなきゃならないんでしょうね。
「ひらめき」を出発点にして、詰めていく。詰めていくためには調べなきゃならないことが山のようにある。瞬発力と持続力。でも、それこそが「ひらめき」を形にすることなのかな…。
にしても、詰めるための方法は考えついてるんだけど、メッチャめんどくさい(;_;)。そんなことする時間、あるのか?

モードの切り替え

ここ半月、とにかく「おべんきょモード」でした。でも、とりあえず今日で一段落です。朝のうちはさっくり仕事。昼から出張。出張に行く電車の中では本を読んでと。
あー、「ために」読む読み方とは違う発見がありますねぇ。自分の読み方の浅さがよくわかります。
午後の会議を終えて、夜は夜で会議です。うーん、よくわからん。なんでこの会議に出さなきゃならない事例なのかわからん。
かつては「Aを実現するためにBという「口実」を使う」というロジックだったはずなのに「BだったらAをやるのがあたりまえ」みたいになっているのかなぁ。
てな感想を持ちながら、会議の後の呑み会へ。
てことで、今日も終電決定です(笑)。

あー、楽だわ(笑)

いま考えたり、やったり、やろうとしていることに比べたら、「日常」はほんとに楽。
もちろん、それなりの蓄積があるからだろうけど、「わかりやすく」のためのアイデアがいろいろ浮かんできます。それをその場で試してみる。ある意味行き当たりばったりなんだけど、どうせ綿密な予習をしていっても子どもたちの反応で無意味になるし、逆に予習にとらわれると子どもたちの反応に対応できなくなる。それなら、今日の内容のエッセンスだけを考えて、あとはその場で反応できる反射神経を養うことのほうが大切なんじゃないかな。
そんなふうしてやってきたのですが…。
それにしても今年は…。そう言えば、かつてこの分野で「ほい」とあてて、すぐに黒板に書きに来る子いたかなぁ…。たぶんよほど得意な子ぐらいだった気がする。
ま、みんなが勉強してるのは確かだし、それがメインの原因ではあるけど、そこにほんの少しではあれ、なんらかの「お手伝い」はしてるんだと思う。というか、思いたい。
なので、今日も予習なんかせずに、他のことをやっていましたよ(笑)。
あー、楽だわ(笑)。

片づけ

今日は一日オフです。でも、ほんとはやらなきゃならないことが山積みなんですよね。
さて、どうしたものか…。
でも、とりあえず片づけをしましょうか。なんしか、「山登り(笑)」の最中は片づけはできないし、おかげさまで、本や紙が散乱しています。
必要ないものはズバッと捨てて。ついでにいままで溜め込んでいたペーパーもちょこっと捨てて。だって、うまく行けば、たぶんこれから何年もそんなの読む時間はないでしょうからねぇ。
てことで、夕方あたりには部屋の中がかなりスッキリしました。まぁ、まだまだやけどね。
さてと、気持ちを新たに「先」を向こうかな。

切実さ・再び

今日は久しぶりに「4人」の呑み会です。やはり、せめて1年に1回くらいはこの呑み会をしたいです。
で、みんなで集まってお店に移動。
まずはこの1年、あるいはこの7年の変化について話をしたり。
でもそのうち、いろいろ最新の話題になるのは当然です。で、出てきた話題が…。
「学生アンケートで「あなたが出会ったマイノリティは?」というのをやったとき、「出会った」という回答が一番少ないのは部落の人」
これをどう考えるかでした。
昨日に引き続き、今日も「切実さ」です。
いや、まっとうというか、まっすぐというか、そういう答えは「部落差別はやっぱりきついから話せない→出会わない」なんですよね。
でも、昨日の考えでいくと、「リスクやめんどくささと切実さのバランス」が「カムアウトしない」に傾いている可能性がある。じゃそれってなんなんだろう…。

例えば、「説明のしにくさ」みたいな可能性はないかなぁ。
つまり
「わたし、部落やねん」
「部落って何?」
「いや、部落っていうところに生まれたらな」
「なんで?それがあなたとどう関係あるの?」
「…」
みたいな。
なんというか、カミングアウトって、実は「共通理解」が成り立っている上で成立するんじゃないか。あるいは、共通理解を得るところまでカミングアウトする側が説明しなくちゃならんのじゃないかと。それをしないと成り立たない。
となると、部落問題学習がどんどん減っている今「共通理解」がとても得にくい状況がある。で、その共通理解を得るための努力を「カミングアウトする側」が担わなきゃならない。カミングアウトする側はそこに「(結局理解を得られない)リスクや(理解を求めるために自分も努力しなくちゃならない)めんどくささ」がある。そして、その「リスクやめんどくささ」の質や量とカムアウトによって得られるもののバランスです。その「リスクやめんどくささ」を引き受けて、なおカミングアウトする切実さがあるかどうか。
それは、部落、レズビアン、ゲイ、あるいはトランス、外国人、ダブル、その他さまざま、それぞれの課題やその人の状況で異なるんでしょうね。
なんか、そんなことを考えたり話したりしてたら、おっと、閉店の時間です。

切実さ

今日は、お友だちのRささんに誘われて、K大学のセクマイの学生さんたちと呑み。
なんか、みんな元気です。いや、元気でまったくいいんですけどね(笑)。食べ放題飲み放題などという店があるのも驚きですが、みなさんガッツリと食べようとしておられます。ま、学生です。
にしても、ほとんどがトランス男性で、トランス女性はわたしひとり。レズビアン・ゲイの人も少数です。
なぜこうなるんだろう。
と、ある方からこんな話が。
「セクマイが集まるとトランスの話ばっかりになるんですよね」
なるほど…。でも、
「なぜそうなるか」
を考えなきゃならないんじゃないかなぁ。
トランスの声が大きい?トランスはしゃべりたがり?トランスはネタが多い?
「トランスって、例えば「名前を変えたい」とか、制度と直接触れるからカムしなくちゃならないことがあって、だから顕在化するんじゃないですかねぇ」
なるほど…。でも、レズビアン・ゲイの方がはるかに人数は多いはず。そんな人たちがドカンと来て恋話したら、トランスなんて片隅においやられちゃいますよ。
じゃ、なぜ集まらないのか?なぜ話題を出さないのか?
「切実さじゃない?」
って聞いてみました。
これ、カムの必要性と似てるけど、ちょっと違う。
なんというか…。集まらなくてもいい。「ここで」話をしなくてもいい。別のところにちゃんと世界がある。そんなことはないのかなぁ。わざわざ時間と場所をあわせて「ここに」来なくてもいい。
集まる、話をするためには、それなりのリスクやめんどくささがあります。それと集まる、話をすることの切実さを天秤にかけたとき、どちらに傾くのかって話です。これは「切実さ」の軽重じゃないです。すごく切実でも、それをうわまわるリスクやめんどくささがあれば、やはり来ない話さない。逆にとてもリスクやめんどくささが高くても、それをうわまわる切実さがあれば、来る話す。
なんかそんなことを考えたんですけどね…。あまりウケなかったかなぁ。

他にも、ある参加者から「普通はそうじゃないでしょ」発言があって
「せっかく変態に生まれたんだから「普通」はやめようよ」
と言ったら一部にしかウケなかったりとか、まぁ、学生さんは若いなと(笑)。
にしても、たぶんわたしが知ってる「若いトランス」よりも、さらに5歳くらい若い人になるのかな。ここの変化もすごいなぁという気がした、おもしろい呑み会でした。
また誘ってほしいけど、誘ってもらえるかなぁ^^;;

ブレイクスルーとか

「この先」のことが、なかなか形になりません。ずっとずっと考えていて、具体的にやりたいこともわかっているのですが、それを「形」にできないのです。
あらためて、言葉は「器」だなと思います。そこでいう「言葉」は、もちろん「一語」でもあるし「文章」でもあるわけです。そんなとき「定型的な組み立て」がいかに役に立つかを、今回身にしみて感じました。
というところまで来た瞬間に
「あ!それを使えばいいのか!」
ってひらめきました。その瞬間から「形」になりはじめました。
ものごとを考え、形にするっていうのは、たぶん、そういうブレイクスルーがあるんですね。
考える。溜める。それを深め、内圧を高めていく。と、ある瞬間、あたかも「決壊」するかのように言葉が溢れ出す。
そんな感じ。

夜は在日外国人教育関係のことの御べんきょ。こんなことをやってられるのも、あと少しだけなんでしょうね。その先にもしもいけたら、それはもっともっと厳しくおもしろい世界なんだろうなぁ。

で、おべんきょ仲間から誘われて呑み(笑)。
なんだろ…。
おべんきょ仲間ってほんとにいいです。なにがいいかって、「考える土俵」が同じなんですよね。だから、言葉が通じる。今日の呑み相手さん、一昨年、去年、わたしが苦しんでたところを歩いておられます。わたしはわたしなりに「こんなところを歩いてたよ」「あの時は気づかなかったんだけど、こないだやっと道が見えたんだよ」って話をしてたんですが、たぶんそんなことはいろんな人から聞いておられるだろうな。でも、きっと突然ブレイクスルーが来るんです。
楽しいなぁ…。
とか思ってたら、気がつくと終電終わってました(;_;)。