今日のおべんきょは学力問題のまんまんなかの話です。
鍋島祥郎さんが2001年の大阪調査をもとに書かれた「誰が落ちこぼされるのか」とセンセがかつて行なった学力と生活実態調査のふたつのデータをもとに話が展開されました。
ふたつの調査、規模も手法もまったくちがいます。かたや大規模調査、かたや学校単位の小規模調査です。ちなみに、小規模調査が劣っているわけではありません。すごくきめ細かく調査を行っているのみならず、その調査結果をいかして、今もとりくみが続いています。
にしても、ムラとムラ外の学力格差は顕著にあらわれますね。というか、より顕著なのが「敏感仮説」というやつです。
「敏感仮説」ってなにかというと、例えばこんな感じです。
荒れたクラスがあるとします。しかし、だからといって全員が学力が下がるわけではない。荒れた状況とは無関係に淡々と勉強をし、学力を獲得する生徒もいます。しかし、その「荒れ」の影響をまともにくらって学力が獲得できない生徒もいます。で、「しんどい」状況におかれているほうが影響をまともにくらいやすい。つまり、敏感であるということです。
では、この「しんどさ」っていったいなんなんだろう。それは、文化階層とどの程度関係があるか。あるいは、ムラであること(鍋島さんは「身分」という言葉を使ってましたが、センセは「ムラ文化」って言ってました)とそうでないことはどの程度関係があるか。このあたりの分析が鍋島さんの論文でした。
で、結論的には、当然のことながら文化階層と学力に相関関係があるのですが、文化階層が高い層についてはムラとムラ外はあまり差がない。ところが低くなると顕著に差が出てくる。
まさに「敏感仮説」なわけです。
まぁ、考えてみると、なんかわかる気はします。おそらくはセーフティーネットの網が荒いんです。なので、どこかにほころびができると、それを補完するものが少ないので影響をまともに受けてしまう。
「誰が落ちこぼされるのか」です。
で、これ。ムラが「劣ってる」とかいう話ではないんですね。どちらかというと、「学校文化との親和性」の話です。
こう考えると、学校文化の多様性のなさって、ほんとに問題だなぁと。でも、なぜ多様性がないかというと、多様性があったら「支配層」が困る。だって、近代の学校って、序列化・選別・階層固定のための装置なんでしょうね。
そこに身を置くものとしては、どうすればその「装置」に抗い、無化できるのかなぁ。そんなことを考えるわけです。