「ありのまま生きる」ために?

なんか、こいつ*1はお座敷の演題に「ありのまま」とか書いているみたいですが、わたし(笑)はいつも「眉唾やなぁ」と思っています。
「ありのまま」とか「自分らしく」とか、そんなものはあるのか?
まぁそのあたりをぶちかましたらほめられたりするわけですが(笑)。
閑話休題
最近学校ではトランスの子が「自分らしい服装」で通えるようになってきつつあります。といっても、しょせんは二者択一でしかないし、身体の性別の反対方向っていうことでしかないんですけどね。
で、その際キーになるのが「診断書」です。
まぁ、相談を受けたら「方便として診断書を出すとやりやすいよ」とは言いますが、あくまでも方便です。というか、学校から「診断書を提出せよ」と言われたりもするんですね。
なんで服着るのにいちいち診断書がいるねん!とわたしは思っているのですが…。
ついでにいうならば、GIDってヤツは好きな服を着るためのあるのか?とも思うわけで…。
7月3日のコメントにも書きましたけど、トランスじゃなくても、みんながみんな好きな格好をしているわけじゃないと思います。まさに、「場にあった服」を仕方なくチョイスすることも多々あると思うんですよね。そういう意味で、ほとんど誰もが「いつでもどこでもありのまま」なんかでは生きてはいないと思います。逆に言うならば、「いつでもどこでもありのまま」で生きていきたいならば、それを実現するためのリスクを自分で背負う覚悟が必要だと思います。まさに「約束事」の6番目。

6.あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。

なんだと思います。

例えば、茶髪の生徒の中に「なんでわたしばっかり。他の人もやってるやん」とか言うヤツがいます。そういう子に対しては、「茶髪にするのは目立つこと。直さなかったらますます目立つ。それは自分が選択したこと。だから、それに対して注意されるのもまた、自分が選択した生き方。あくまでも抗い続けるのも生き方だし、妥協をするのもまた生き方。他の人に責任を転嫁せずに、きちんと自分で対処をせよ」と言います。まぁ、服装頭髪検査って、なんだかなぁであることは大前提としてあるわけですけどね。

脱線しました。
「トランスして生きる」っていうことは、本来は自分の身ひとつでやることなんだと思うのです。もちろんまわりと軋轢があったりもするし、時として妥協があったりもするのですが、右往左往しながら、それでも自分の力で進めていくこと。診断書の有無がどうこうとか、診断書によって免罪されるとか、そういうことではないんじゃないかと思うのです。
じゃぁGIDってなんだ?というと、最近わたしは「身体へのこだわり」に特化して考えるようになってきています。社会の問題ではない。もちろん、明確に線引きはできないんですけどね。
こう考えた時に、「いつでもどこでもありのまま」に生きるために診断書を使うということに、やっぱりどうしてもわたしは疑問を感じてしまう。

まぁ、あくまでもわたし個人の考えですけどね…。

*1:クリック注意!

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