ついでに

某アンケートの答えを考えている時に、ふと思ったこと。
当事者は「情報を受けとる側」と限定されてしまっている気がしました。これ、きっと「患者イメージ」が強いんじゃないかと思うのです。「受診者イメージ*1」だとずいぶんと違う気がするんだけどなぁ。

*1:医療を受ける主体者という感じ?

解題

なんで↑みたいなことを考えたかというと、「トランスジェンダー生徒交流会」のことを考えたからなんですけどね。一度見に来れば、ヤツらがどれだけおもしろいかわかるんだけどなぁ…。まぁ関西の片隅でやっている小さな活動だからねぇ(笑)。

土の人と風の人?

わたしはこの「土の人と風の人」というのが嫌いなんですよね。その根拠がどこにあるのか、漠然と考えていたんだけど、今日、ふと「これかな」というのを思いつきました。
まぁもともとの出典をよく知らないのでなんとも言えないんですけど、わたしの感覚として、「土の人」=「体を動かす人」という感じ。に対して、「風の人」=「情報を動かす人」という感じがあるのかな。
まぁ「情報」を得るためには体を動かさなきゃならないということはあるだろうけど、「土の人」の動かし方とは根本的に違います。さらに、情報を得るための体の動きが鈍い場合、自分では情報を動かしているつもりかもしれないけれども、その情報そのものが少ないので、ぜんぜん動いていない。となると、そんなものは「風」でもなんでもないわけです。

情報格差みたいなことが言われますが、それ、いろんな意味であるのかなあと思います。
ある側面で言えば、情報が局所に集中するということはあるかもしれない。でも、別の側面で言うならば、「自分の所に情報がある」と思ってしまうがゆえに、情報を知らないということもまたあるのではないかと思うわけです。つまり、自分の所に届いていない情報は「ないこと」になるということかな。そして、動きが鈍くなると、「あるかもしれない」という想像力がなくなってしまう。すると、「ない」と思い込んでしまう。
社会学とかの世界では、1次資料にあたるか2次資料で「よし」とするかみたいなところになるのでしょうか。1次資料を求める人は、ほんとうに体を動かします。でも、2次資料で「よし」とする人はネットと電話でことを済ませてしまいます。

「風の人」の知らないところで、今日も「土の人」はたくさんの「情報」を生み出しているんですよね(笑)。