なので、散歩

ジャンジャン横町って、それはそれでいいのですが、なんとなくさらに南西に歩きだします。すると、そこは釜が崎。考えてみると、大学時代に来て以来久しぶりです。フラフラと歩いていると、ものすごい屋台街があります。かなりそそられるものがあったのですが、ここはガマン。釜が崎の中をちょこっと歩いて、センターの横を通って、再び西へ。すると、やがて巨大な団地群が出現しました。旧渡辺村です。
てことで、浪速生協に行ってカスをゲット…。と思ったら、ない!「どないなってんねん…」と思ってレジの人に「カスわけてほしいんですけど」と頼むと、ちゃんとわけてくれました。さすがは浪速生協。ちなみに、100g400円です。
で、そのままフラフラとたどりついたのが、O阪人権センターだったりします。で、そこで働いている友だちのところに行って、「はよ仕事終われ〜」などと耳元でつぶやいて仕事の邪魔をして、飲み屋にGO。
どないに迷惑な散歩やねん。

フランスGP

で、家に帰ったら、録画してあったビデオの鑑賞。
わたしは、ビデオを見るまではF1にかかわるニュースを完全にシャットアウトしています。なので、姐さんのところや新聞のスポーツ欄なんかで結果をうっかり見てしまったりすると、もう、大ショックです。
さて、今回はどうなるかな…。
まずは、驚きのスタートでした。ライコネン、やるやん。しかも、燃料を多めに積んで、ひっぱるひっぱる。で、ピット戦略が大当たり。てことで、久々にライコネン−マッサのフェラーリ1・2フィニッシュ。
シューマッハなきあと、やっぱライコネンを応援しようかなぁと思っていたので、ちょっとうれしかったです。え、なぜライコネンか?そら、2005年ヨーロッパグランプリでのバースト以来、気になるドライバーになっているんですよね。
それにたいして、アロンソが不運続きです。ものすごいスピードを持っているけど、なかなか抜けない。あれはストレスたまったやろなぁ。
そうそう、たまにツーリングカーレースとかテレビで見るけど、やっぱりF1のスピードは別世界ですね。それを、とりわけフランスGPでは感じました。
さて、次戦はシルバーストーンか。

やってみた

前に、どこかで見たなぁと思っていたのが、くぼりえさんとこにもあったので、やってみました。脳内メーカー
まずは、「いつきの脳内」

すんごい納得です(笑)。もう、なにもいうことはありません。
続いて、「いつきの能力」

「オタク度」と「負けん気」が低いです。まぁ、淡泊な性格ですから(笑)。「ジョーク」もイマイチというのもショックではあるけど、たしかに…。関西人としての除外診断ですわ。

衛生問題

わたしの自転車は、大学生の時に組んだロードレーサーで、かれこれ25年を超えるつきあいになります。当時は、フレームから組んでいくなんていうのは、完全に趣味の世界でしたが、わたしがいきつけにしていたサイクルショップは、どういうわけかその趣味の世界にどっぷり浸かっていた人たちのたまり場でした。で、わたしも気がついたら何台か自転車を組んでいました。
ちなみに、「組む」といってもいろんなレベルがあるんでしょうけど、ここのお店はフレームを自分のところでつくっていたので、BBの面出しあたりからやらなきゃなりません。なので、まさにベアリングを一個一個入れていくところからという感じなわけです。
まぁ、10年くらいこの店でいろんな経験をさせてもらったのですが、就職にともなって引っ越しをして、それっきり自転車から遠ざかっていました。
でも、2年前に引っ越してきて、ふたたび自転車に乗りたいな、と。で、ほこりだらけの自転車を引っ張り出してボチボチと乗りはじめています。ちなみに、こんなんです。

ところが、なにしろ古い自転車なので、ゴムの劣化が激しいです。とくにきついのが、ブレーキレバー。もう、ゴムがとけてしまってなにがなにやらわかりません。あと、バーテープもボロボロ。

まぁ、これははっきり言って「衛生面にわるい*1」です。
てことで、ブレーキレバーの交換をすることにしました。といっても、すでにブレーキワイアーが上からでるタイプのレバーなんてありません。というより、あったとしてもゴムの状態は一緒です。どころか、最近のブレーキレバーって、シフトレバーと一体になっているの?んなもん、わたしの自転車にはつきませんわ。なので、エアロタイプ*2のブレーキレバーを発掘してもらいました。
今日の作業は、とりあえずバーテープをはがして、ハンドルをきれいにするところまで。あとは明日だな。

*1:サイクルショップのオーナー談

*2:死語・ブレーキワイアーがレバーの根元からでていて、アウターとハンドルを一緒にバーテープでまくんですよ。

部落史連続講座・最終回

今回の連続講座は、今日が最終回*1
今日のタイトルは、小林丈広さん(京都市歴史資料館)による「職業規制から見た京都の町」です。実は、わたし、こっそり小林さんのファンなんです(笑)。ある意味、すごく明快であるにもかかわらず、けっしてなにか物事を一刀両断で
この話、実は去年の10月にさわりだけ聞いているんです。
つまり、「町式目」を読む中で、京都のそれぞれの町内がどのようなまちづくりをしようとしていたのか。そこから、町の人々の意識を読み解こうという試みでした。
現在でも、「町内会規則」みたいなものって、それぞれの町にはあるみたいです。で、こういうのって、まず「だれが町内会のメンバーなのか」からはじまって、「なんのために」とか「どんなことをやるのか」とか「役員はどうするのか」「会計はどうするのか」ということが書いてあります。
ところで、こういうのって、実は「暗黙の了解みたいなものが通用しているうちは明文化されない」んですね。ところが、その「暗黙の了解」が通用しないような事態が発生すると、明文化せざるを得なくなり、文書として残っていく。これは、現在でも中世でも一緒なわけです。ですから、町式目を読み解くことで、「その時代にどんなことが起こっていたのか」ということを推測することができるわけです。
今回提示された町式目で最も古いものは、江戸よりも前、1700年代後半のものでした。で、当然のことながら「メンバーシップ」への記述があるわけですが、その記述の内容は「これこれの職業の人に家を売ってはならない」というものなんです。ただし、職業とその人の置かれている立場はかなり不可分のところもありますから、とらえようによっては、イコール「これこれの「人」には家を売ってはならない」ということになるわけです。
初期*2の町式目には、「あおや*3」「座頭*4」「鍛冶屋」など、数種類の仕事があげられています。ところが、江戸時代中期ぐらいになると、やたらたくさんの仕事があげられはじめます。そして、江戸時代末期になると、仕事をいちいち列挙するのではなく「みんながイヤだと思う人はダメ」みたいな、すごい話になってきます。
これをどうみるかということなんですけど、おそらくは、江戸時代中期以降になると、仕事や人の動きが流動的になってきて、だからこそいろいろなトラブルが起こりはじめて「あ、こりゃ明文化しなくちゃ」みたいなことになってきたんだろうということなんです。
あと、非常に特徴的なことは、「非人」の立場の人たちが従事しているさまざまな職業については、かなり事細かに書いてあるのに、「ゑた」という記述がほとんどないんです。小林さんはこれを「ゑたについては、暗黙の了解があったので記述する必要がなかったんだろう」としておられました。つまり、非人の人たちは身分としては町人になっていて、まわりの人たちはわかっていながらも、まぁ一緒に住んでいた、と。で、なにかあったときに「やっぱりこの町に住んでほしくないよなぁ」みたいな感じで、とりあえず明文化してみるテスト。みたいな。しかし、「ゑた」の人たちは明らかに排除の対象になっていたため、明文化する必要がなかったということなんでしょうね。ただ、町によってはけっこう早くから何度か「ゑた」の記述があるので、けっして、やはり明文化せざるをえない状況もあったんだろうとも推測されます。
おもしかったのは、「米屋」が排除の対象になっている町が多かったということです。小林さんは「定説はないけど、有力な説としては「飢饉の時の打ち壊しの対象になる」というのがあります」と紹介されていました。それ以外に、火を扱う仕事*5や不特定多数が集まりやすい仕事*6、風紀を乱しやすい仕事*7が排除の対象になっています。でも、実は、米屋さんにしても他のものにしても、生活に必要だったりするわけです。そのあたりのアンビバレントな感じがなんとも言えません。実際には、京都の「町」というのは、ものすごく面積が小さい*8ので、そうしたものもほぼ確実に近所にあったんだろうとのことでした。
そうそう、「浪人」とか「役人」みたいなものも町式目の中にあげられているのですが、江戸時代初期にはまだまだきな臭い感じがあって「住んでほしくない」みたいな感じだったんでしょうけど、江戸時代後期あたりまで来ると、「「武士(公家)やし、ちょっと町の仕事ごめんさせて」みたいな感じやと困るから」みたいな理由もあったんじゃないかと小林さんは言っておられました。
いずれにしろ、町式目を読んでいくと、これまで土地・職業にしばられていると考えられてきた近世の姿とは全然違う、さまざまな人が町の中で生きていたという姿が、垣間見られるかなぁと思いました。

ところで、質疑応答の中で、「ゑたの人たちの住んでいた町の職業規制は?」みたいな話が出てきて、それに対して小林さんは多くを語られませんでした。で、終わった後、「制度として被差別の立場に置かれているゑたの人たちのことをきちんと言わないといけない」「そこには血筋の問題がある」みたいな会話がありました。
ま、それはわかるんですが…。なんだかなぁ…。おそらく、どちらの側に光を当てながら読み解こうかというスタンスの違いじゃないのかなぁと思いました。
小林さんは、街の中に住む「一般の人たち」の意識の中に差別の問題を見つけようとしている。それに対して、人によっては「んなことはわかっている。そういう状況の中でゑたの人たちはどういうまちづくりをし、どうやって生きてきたのかということが大切なんだ」と考える人もいる。
で、わたしはどちらの見方をしたいかというと、実は、小林さんのような見方をしたいなぁと思っているんですよね。てか、実は、わたし小林さんのファンなんですよね、こっそり(笑)。小林さんの話って、すごく明快でわかりやすいんだけど、けっして「剰余」みたいな部分を切り捨てていないんです。その「剰余」の中に大切なものがあるということを意識しながら、とりあえず語っていく。なので、もっと深く話を聞きたいなぁと、毎回思わされるんです。
そうそう、立ち話の最後に、あまりにも「非人」にこだわるわたしに向かって「君も、自由な生き方がしたいんやろ(笑)」とそのものズバリのことを言われた方がおられて、思わず「そうなんです。もう教員なんてこりごり。非人になりたい(笑)」と答えたあたりが、今回のオチだったかなぁという気がします。

*1:次の連続講座は11月にありますけど

*2:といっても、「発掘できている」という意味です。

*3:染め物屋

*4:視覚障碍者

*5:鍛冶屋、風呂屋など

*6:風呂屋、飲食店など

*7:風呂屋置屋など

*8:道の両側に並んでいて、隣の道になると別の町ぐらいとのことです。

一本の電話

ある日本国外のマスコミ関係者から、いきなり電話がありました。
「部落問題について特集を組もうと思うのですが、話を教えてくれませんか?」
「へ?」
それはわたしでは無理というものでしょう(笑)。
たぶん、この日の昼ご飯(笑)の時の会話とかじゃないかなぁ…。
とりあえず、無理なので、他の人に振りました。すんません。

在日外国人生徒交流会

先週あったのは、全国の交流会。今日のは京都の交流会です。
かつては、在日朝鮮人の子どもたちばっかりだった交流会も、今はすっかり様変わりして中国帰国の子らが多数。あと、東南アジアにルーツを持つ子どもたちがたまに来てくれるという感じで、在日朝鮮人の子どもたちの参加がないこともよくありました。
この状況は、ひとつは「日本語教室」の存在が大きいんでしょうね。というのは、そこに集まっている子どもたちとつながっている日本語指導教員とか、そこの先輩後輩・親戚きょうだいという関係で来てくれるのが、少なくとも京都の状況だからです。これ、かつては、朝文研で子どもたちをつれてきた状況と同じですが、現在、京都で朝文研活動をしている学校があるかどうか。まぁ、あまり聞かないですね。
朝文研がなくなったのは「問題がなくなったから」かというと、そうではなくて、逆に「放置されている」ということなんだと思います。正直言って、いったいどうしたらいいのか、ちょっと途方に暮れているところもありました。
そんな感じなんですが、今回は在日朝鮮人の生徒や卒業生の参加がありました。
当然のことながら、中国帰国の生徒と在日朝鮮人の生徒の話がかみあいません(笑)。お互いに「言葉はしゃべれるの?」とか「どこから来たの?」とか。朝鮮人の子は「日本語しかしゃべれへん」「日本で生まれた」だし、中国帰国の子は「家では中国語」とか「5年の時に来た」とかだし*1
でも、在日朝鮮人の卒業生に、「自分のところの親戚とか集まったらどうなん?」というと、「ハラボジやハルモニは朝鮮語、オモニやアボジ朝鮮語は聞き取れるけど返事は日本語。僕らの代は日本語しかわからへん」と答えてくれました。で、中国帰国の子らに、「君らの子どもの代になったらどうなると思う?」と聞くと、「あぁ…」と深くうなずいていました。
表面的な「問題」は、例えば日本語習得の問題であったり生活習慣の差であったりするわけですが、おそらくそうした問題は渡日年数が長くなり世代が変わっていくに従って、徐々に潜在化していきます。でも、いま在日朝鮮人が抱えている問題が、「新渡日」の子どもたちの中で顕在化していく。ところが、そうした「問題」を日本人社会は放置していくのではないかということ。それが、在日朝鮮人の日本での生活史の中から、今学ぶことなんじゃないかと思います。
新渡日の子どもたちの姿に在日朝鮮人の過去の姿を学び、在日朝鮮人の子どもたちの姿に新渡日の子どもたちの姿の未来を予測する。そして、そういう「未来」が来ないように、別の未来の姿を展望し実現するために、わたし(たち)が、今・ここでなにができるのかということが、交流会に参加するたびに考えさせられることなんです。

とはいえ、結局やっていたことは、ご飯をつくって食べてしゃべっただけなんですけどね。今回初チャレンジの「ヤム・ウンセン(春雨のサラダ)」おいしい!ナンプラーとレモンの香りに、かなりはまりそうです。

*1:もちろん、日本で生まれた中国帰国の子らのほうが最近は増えてきているし、そういう家では中国語と日本語が混じった会話をしていたり、子どもは日本語しかしゃべれないという方が多いですけど…。

追加

なにがわからなかったのか、ちょっとわかってきました。
それは、「常民」の「芸能人」への移行のことなんです。
もちろん、個人としては「夢の実現」ということで、それはそれでOKなんだと思います。でも、社会はそれをどう受けとめたのか。で、これまた社会と個人が完全に分離していたならそれはそれでいいのですが、「家族はどう受けとめたか*1」。さらに、「非人への移行」に対する本人自身のフォビアはなかったかどうかというあたりが、一番の関心事なんです。
これ、どこで質問しようかなぁ…。

*1:これ、どこかで聞いたフレーズですが(笑)

勉強・部落史連続講座

ホッと一息ついたところで、今日は学校帰りに「部落史連続講座」です。
今回は2回目。辻ミチ子さん(元京都文化短期大学)による、題して「近世 仕事三大咄 −国家公務員・委託事業・芸能プロダクション−」という話です。
内容としては、カワタの人たちや非人といわれる人たち*1の仕事を、現在の言葉に置き換ええるならどうなるのか。そしてそこから、その仕事の内容について考えていこうという試みだったようです。

  • 国家公務員

まずは、なにが「国家公務員」なのか。
カワタも非人も、ともに下級役人としてさまざまな仕事に従事していました。基本的には、町奉行所の下にある四座雑色[1] … Continue reading)の下にあるみたいです。カワタ身分については「役人村」、非人については「悲田院」が統括をしていたみたいです。
つまり、奉行所にしたにあるというところで、ともに「(国家)公務員」としての役をしていたということになるのでしょうか。基本的にはカワタについても非人についても「刑吏役」に携わっていました。ただ、非人については、「行き倒れ」の人たちの排除とケア((このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです

*3:まぁ、いまふうにいうと「炊き出し」ですか

*4:つまり、都=京都

footnotes

footnotes
1 このあたりがおもしろいです。単純に排除するだけではなく、看病をすれば大丈夫な人については看病をした後「送還」をしたみたいです">*2をしたり、施行*3をしたりといった役もしていたみたいです。おそらくは、都市部*4流入してくる非人が多くなりすぎると収拾がつかなくなるため、適度なケアと必要な排除をするという機能があったようです。で、そのあたりを統括していたのが「悲田院」というところだったと。
あと、悲田院は「肥樽」の管理もしていたとか。「肥樽」というのは、当時の公衆便所のようです。で、「肥樽」の管理者は悲田院で、ここで得られた「肥え」を近郊農業をしている人たちに売ったとか。これまた、それなりの商売になったみたいです。

  • 委託事業

続いて、「委託事業」です。
「委託」という限りは、当時の為政者から仕事を委託されるわけですが、それが「皮革産業」だったということです。つまり、これは「カワタ」にかかわる話ということです。
ところで、辻さんによれば、カワタの人たちがもともとやっていた仕事は「お弔い」だったようです。ところが、「人間のお弔い」はお寺がやるようになり、「斃牛馬のお弔い」をカワタの人たちが担当するようになったとのことです。そして、それがやがて皮革業へと変化をしていった。で、それが「委託事業」だったということのようです。
この皮革業、けっこういい仕事になったようです。というのは、現在でも「革製品」はけっこうな値段をするわけで、それは今も昔も変わらないわけです。
で、あちこちのカワタの人たち同士で斃牛馬の取りあいが起こってしまう。そこで、斃牛馬処理権の範囲を決め、それを「草場」と呼んだわけです。
皮革産業は、皮革の加工の最初の段階だけではなく、武具から雪駄、膠にいたるまでさまざまな加工品ができます。また、直接の皮の加工品として「太鼓づくり」や「太鼓の皮の張り替え」なんかもありました。
現在では太鼓というと浪速のあたりが有名ですが、京都でもあちこちのムラが皮の張り替えを行っていた資料が残っています。ただ、ムラによってもちろん技術の差があり、大きい太鼓になるとどうやら天部村の技術がもっとも高かったようで、ここに集中をしているみたいです。まぁ、カワタ村の間でも、おそらくずいぶんと経済力の差があったんやろなあとは思います。
ところで、一般に皮革産業というと、一般民衆からは忌避されていて、町中にはそんなお店はないと考えられがちですが、町の中のお店の一覧表みたいな文書があって、それを見ているとけっこう皮革関連のお店が町中にあったみたいです。これ、辻さんが出された資料の中に書いてあったんです。このあたり、前に聞いた小林さんの話の中にあった「町式目」の話と少しバッティングするのかなとも思いました。もちろん、時代というものもあるんでしょうけど。

  • 芸能プロダクション

では、「芸能プロダクション」とは。
カワタが身分として存在しているのに対して、「非人」というのは「ある状態にいる人たち」をあらわす言葉であると考えられると、わたしは理解しました。おそらくは、現代においては「ホームレス」の人たちに近いのではないかと思います。で、この人たちが生き延びんがためにさまざまな仕事に従事します。その中でも、芸能関係のスキルを持つ人たちが門付芸や大道芸をしてお金を稼ぐ。近世においては、そうとうに稼いだ人もいて、なかには裕福な階級の女性達が「追っかけ」になるほどの人もいたとのことです。ただ、芸人さん達は、基本的には非人小屋に所属をしていて、自分が稼いだお金から相当な金額を非人がしらに上納する必要があったようです。このあたりが、まさに「芸能プロダクション」なわけです。
問題は、こうした芸能に携わるのは、非人小屋にもともと所属する人たち、あるいはその系譜にある人たちだけだったのだろうか、ということです。
前に樹村さんも書いておられたように、おそらくは、非人小屋の支配下になかった人もこうした芸能に携わっていたのではないかということが、考えれば考えるほど、「言える」よなぁと思われてきます。そして、辻さんもやはり「常民の中にもこうした芸能に携わる人がいた」といっておられました(気がした^^;;)。
考えてみたら、当たり前ですよね。いつの世だって、「(今の自分の仕事を続けるより)自分の芸で一旗あげたんねん!」という人はいるだろうし、社会のその人へのまなざしは「そっちへいったか」とか「まっとうな仕事をしろよ」みたいなものがあったのではないかと。まさにこのようなまなざしが「非人」へのまなざしだったんじゃないかなぁと。
従来、「士農工商」ときて「穢多・非人」という身分と教えられてきました。そのため、「どっちの身分が高いのか」とか「穢多は一生そのままだけど、非人は非人身分から脱出できる」などの話がありました。で、「どうやって非人身分から脱出するのか」みたいなことも言われてきたのですが、おそらく違うのではないか。
先ほど「身分というよりも、ある状態にある人を指す」としたのはこういうことですし、辻さん自身も質疑応答の時に「非人というのは身分ではないので「非人身分」とは言えないのですが〜」ということを繰り返し言っておられました。
で、先ほど書いたような「一旗あげたんねん!」みたいな人がほんとうに芸能に携われるようになるということは、そうとうに身分制が崩れはじめているということで、近世末期にはそのような状態に対して、身分の引き締めのために非人小屋の存在が一役買ったというあたりのところで、辻さんの話は終わりました。
実は、辻さんの話はわたしにとって理解できるかどうか、すれすれのところだったので、頭の中にものすごくたくさんの疑問符を抱えたまま講座の時間が終了しました。その後、外川正明さんと立ち話をする中で、少し整理ができて、文章化することができたという次第なんです。もちろん、いまだ未整理な部分もありますが、とりあえず、最後のあたりの「引き締め」というあたりが、次回(6月21日)に「職業規制から見た京都の町」で話されるようです。楽しみ!

*1:「非人」というのは、近世では正式には「身分」ではなかったと考えられるので、このような書き方をしています。

*2:「しざぞうしき」と読むみたい。で、どういうものかについては、ちょっと遅れてしまったので聞けませんでした(;_;