深いぃ〜

といっても、1分間のヤツじゃないです。ディープピープルです。
今日のテーマは落語。
前々からま゛さんから
「一度落語を聞きに行け」
と言われていたし、ほんとうに行きたいと思っているんだけど、なかなか行く時間がとれないんですよね。で、伸ばし伸ばしになっています。まぁ、伸ばし伸ばしになっているということは、逆に言うと
「「本当に行きたい」と思っていない」
ということのあらわれなのかもしれないけど…。
でも、ほんとうにすごい世界だなぁと思いました。
ちょっとファイトがわいてきた。

でも、ちょっとはマシなんだと思う

巷では菅さんをこきおろしているけど、なんだかんだ言って、それなりのことをやっているとは思うんですよね。もしも100%を求めるなら、それはぜんぜんだろうけど、そもそも100%はありえない。というか、状況が悪すぎるなかで、まぁまだマシなんだと思います。
巷では民主党をこきおろしているけど、なんだかんだ言って、まぁそれなりなんだと思うんですよね。まぁ今やっていることはかなり「なんだかなぁ」ではあるけど、だからと言って、自民党時代にどうだったかを考えると、似たり寄ったりかな。
今一番こわいのは、振り子の振り返しです。たぶんワヤなんとちゃうかなぁ…。

2発

それにしても、ラジオを聞いていると、やたら「終戦」「終戦」と言っています。違和感がある。「敗戦」だろうと、わたしは思うのですが。
「戦争が終わった」
では、そこには主体性がないような気がします。
「戦争に負けた」
だと、もうちょっと当事者性が増えるような気がします。そこから、自分自身の戦争責任へと向かう道筋がある気がします。
てことで、あくまでも「敗戦記念日」でいこうと。
ちなみに東九条には「光復節」というポスターが貼ってあるわけで、そのことももちろん心に刻みつつ。

で、もう一発は…。
まぁやめておきましょう。
天につばする行為になりそうなので…。

ハードルの高低

ちなみにその「久しぶりに聞いてくださった方」は、地区別学習会の時にお世話になった方でした。
その方、歩く時にちょっと足を引きずっておられたので、車で一緒になった時にそんな話をしていたんですよね。で、その方が
「実は小さい頃小児マヒで」
と言われた時に、わたしのリアクションが
「出た(笑)」
だったそうな。その時その方は
「なんじゃこいつ!」
と思われたとか。まぁそりゃそうでしょう。
でもねぇ。
いろんな人がいろんな自分のしんどさをかかえておられるんですよね。そんなしんどさに、ふと出会えた時、すごくうれしいんですよね。だって、その人にしても「小児マヒ」だけで終わるわけじゃなくて、そのことに付随していろんなことがあるわけです。その「いろんなこと」を話すことがすごく大切なんだと思います。そして、その「話し相手」に選んでもらえたことがすごくうれしいんです。その喜びの表現が
「出た」
っていうのは、かなり悪趣味ではあると思いますが(笑)。

こんなところに差があるのか

で、行ったクラスは、いわゆる「進学系」のクラスです。
初めて来るクラスのなので、もちろん生徒たちはいつもの混乱をしています。あー、めんどくせー。
でも、これまたいつもの通り、そんなことはお構いなしに授業をします。と、びっくりしました。黒板をさして
「これな…」
と言った瞬間に、みんなの意識が黒板に集中します。
「ちょっと待って、書くのをやめて話を聞いてな」
と言った瞬間に、みんなの意識がわたしの話に集中します。長い長い長い長い間忘れていた感覚です。
おそらくこの差が学力差と結びつくんだろうな。

ある仮説と推論から出される結論

1、前提
ここで考える学校は一定の地域性を持っているとする。つまり、一般的な公立学校と考えて、ほぼかまわない。

2、仮説1

  1. ある生徒に対して、1年入学時は、その入学した学校の教育効果は及んでいない。
  2. Aという学校とBという学校で、互いに校区が違う時、ふたつの学校の課題*1のありように有意に差があり、それが長い年月(教員の転勤の平均年数を6年として、その2倍=12年程度以上とする)にわたって継続しているなら、その「差」と「その学校に所属する教員の力量」の相関は低い。

3、推論1
最初の仮説から出される推論は、入学時のある生徒への教育効果は、その生徒が前に所属していた集団により規定されるということ。高校であれば中学校と中学校の校区と家庭など、中学校であれば小学校と小学校の校区と家庭など、小学校であれば保育園・幼稚園あるいは地域と家庭などになる。
ふたつめの仮説から出される推論は、まったく異なる地域の学校間*2で有意に課題に差があって、教員がすべて入れ替わるぐらいの長い年月に渡ってその差が継続的にあらわれるなら、その「差」の原因は「それぞれの地域の教員の力量」以外のところに(も)眼を向ける必要があるということ。
ふたつの推論をあわせると、たとえ高校であろうとも、ある地域性を持った学校がある課題を持つ時、それは家庭やそれをとりまく地域との関連は無視できないということが推察される。

4、仮説2

  1. 同じ校区内にある学校間に競争原理が働く時、課題を共有する生徒が集まってくる。
  2. 課題の大きな生徒と課題の少ない生徒*3にたいして、単位時間あたり同じくらいのかかわりをした場合、課題の大きな生徒の方がその課題の克服にはより時間がかかる。

5、推論2
最初の仮説から出される推論は、特定の学校に課題の大きな生徒が集まり、それは蓄積されるということ。
ふたつめの仮説から出される推論は、課題の少ない生徒がたくさんいる学校では早期に課題が克服できるが、課題の多い生徒がたくさんいる学校では、それぞれの生徒の課題は学年進行とともに徐々に克服されていくということ。
ふたつの結論をあわせると、課題の大きな生徒が集まる学校では、学年進行とともに上の学年が課題を克服している間にも、新しく課題を持つ生徒が入学してくるということ。

6、推論3
推論1と推論2を重ねると、地域性を持つ学校においては、

  1. その校区内で競争原理が働くと、
  2. 特定の学校に課題を持つ生徒が集中し、
  3. その学校においては課題の克服に時間がかかるが、
  4. 上の学年において課題をある程度克服したとしても、下の学年に新たに課題を持つ生徒が入学し、
  5. 全体として課題は蓄積されていくが、
  6. その新たに入学してきた生徒に対しては、入学当初はその学校の教育効果はあらわれておらず、
  7. その生徒の課題は前の所属する集団の持つ課題と関連があり、
  8. 「前の所属する集団」の中には「家庭や地域」がある

ということ。

7、結論
すなわち、一定の地域性を持つ学校において、課題を持つ生徒が集中する学校のもつ課題は、「家庭や地域」のありようと関連があるということ。

以上(笑)

*1:なにを持って「課題」とするかは、ここでは詳しくは述べないが、とりあえず学力や生活態度とほぼ同義とする

*2:例えば熊本と秋田

*3:先ほどと同じく、学力や生活態度とほぼ同義とする

可能なのか?

例えば
「夏休み、教室はクーラーなし」
とします。そうしたら、学校は節電できます。で、たぶん生徒たちは来ません。その生徒たちは家でクーラーのある生活をするでしょう。トータルで考えたら、どちらの方が節電効果があるのかなぁ。

例えば
「パソコンはバッテリーで運用せよ」
とします。ところが常時バッテリーで運用すると、バッテリーの寿命は短くなります。となると、バッテリーの交換が必要になる。で、古いバッテリーの処理とか新しいバッテリーの製作には電気がかかる。トータルで考えたら、どちらの方が節電効果があるのかなぁ。

わたしの住んでいるところは、おそらくは京都の中でも涼しい方です。朝や夕方はクーラーは必要ありません。窓を開けて扇風機をまわせばけっこういい気持ちです。でも、まぁ都市部ではこういうところは珍しいでしょう。ヒートアイランドでは、おそらくはクーラーなしでは生きていけないかも。ただ、そこでクーラーをかけると、当然の事ながらヒートアイランドはより激しくヒートするわけで。となると、ますますクーラーなしでは生きていけない。この連鎖はどこでとめることが可能なんだろう。

おそらく「エコ」って、かなりトータルで考えないと、結局精神論と自己満足で終わってしまうんじゃないかなぁ。

だまってられへんねん

今日は組合の定期大会。
なんかもう、組合の組織率ってメチャクチャ低いのですが、こんなんでいいのかと、あらためて思います。
まぁ、根底的には「労働者vs使用者」という対立の構図を見た時に、かつて大衆は「労働者」に自分を投影し、現在は「使用者」に自分を投影しているんだろうなぁと、漠然と思ったりするのですが…。
まぁそれはいいです。
今年も定期大会の議長。他に人材がいないのかというと、わたしが人材かどうかは知らないけど、いないんです(笑)。でも、わたしが議長をやると、とてもスピーディーに議事が進みます。なぜなら大会の後には懇親会があるからです。

で、懇親会。
しばらく歓談の後、みんなが近況報告をしあうんですが、ここでトラブル発生。
ひとりひとり話をしながら、みんなが自分の思いを返す。それはいいんですが、とある人が延々と自分の考えを語り出し、やがてそれは「正論」へと変わっていきます。聞いているみなさんはすでにアルカイックスマイルです。で、とうとう言ってしまいました。
「すんません、ここにいる人間は、みんなあなたの言う正論なんてわかっているんです。みんな別に説教なんて聞きたくないんです」
ここからその人、ピタリと黙りました。あ〜あ、怒らせちまったよ。またひとつ「ペケ」がついたなぁ(笑)。

なにを伝えるか

なんか、子どもたちに不満タラタラの人もいるみたいなんどすご、よくわかりません。
今日も去年教えた子が
「先生、今日は大丈夫そうやなぁ」
と声をかけてくれました。
この子、きのうもおとついも、廊下で会うたびに、ちょっつはにかんだような、でも優しい笑顔で
「しんどそうやなぁ、大丈夫?」
と声をかけてくれていました。
もちろん返事は
「金曜日が朝5時半、土曜日が朝3時半、きのうが1時半で、メッチャしんどいねん」
という、みもふたもない返信をしたわけですが(笑)
で、今日は
「さすがに大丈夫やわ。ありがと」
という返事です。
でもね、子どもたちは、わたし(たち)のことを、ちゃんと「人間」としてみてくれているんやなぁと、よくわかります。それだけで、ほんとうに心が温かくなります。

で、本当は、こういう話こそを担任さんに伝えたいなぁと思います。そうしたら、担任と生徒との会話も温かくなるし、いい空気ができてくるんじゃないかな。

担任にクラスの生徒の悪口を言うのをやめようね。よかったことを、探してでも言おう。きっとそのほうがうまくいく。