もうね!

なんか、某市の市長が

銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる。

って言ったそうな。
「誰だって」?
わたしはわかんないです。
そういう「誰だって」とか「みんな」って、生徒が言い訳をする時に使う言葉ですよ。

意に反して慰安婦になったのは戦争の悲劇の結果。戦争の責任は日本国にもある。慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。

どんだけ上から目線やねん!
心は身体による実践によって鍛えられていく、逆に身体の実践抜きの「自律した心」は疑うべきものである。そう益軒は言っている(気がする^^;;)わけですよ。つまり、「優しい気持ち」ではなく、実践で示さんかい!って、する気もするはずもないんでしょうけどね!

タイプ

なんでも若い衆が悩んでいる、というか、悩まされているみたいです。なーんから話を聞けば聞くほど、「ボタンのかけ違い」っぽいんですよね。で、せっかくなんで、「決戦の場」におじゃますることにしました。
なるほど、後ろ向いてしゃべってます。しゃべってる子、わたしがうしろの扉からのぞいているのを見て「こっちこっち」とか、手招きしています。いらんことを^^;;。
まぁ、ヒマなんで、中に入ってみました。
若い衆、一生懸命前でしゃべっておられます。後ろ向いてたヤツに、
「前、見てみ。ほれ、問題解けよ」
とヒソヒソ話。すると、あんがい素直に問題をときはじめます。で、お定まりの
「わからん…」
です。いくつかヒントを渡すと、だんだんときはじめます。
まぁそんなこんなでつつがなく「決戦」も終わりまして(笑)。
夕方、若い衆がやってきました。
「ごめんね、中に入るとやり難かったやろ」
「いえいえ」
みたいな会話のあと、いよいよ本論です。
なんでもその若い衆、若手の先輩から
「あいつら、最初にガツンとやらんとあかんで」
とか言われたらしいです。で、ガツンとやったけど、中途半端だったとか。
「それかぁ」
ですね。
その若い衆、タイプが違うんです。もっと、たぶん優しい子なんですね。そんな子が、ガラにもなくガツンとやったら、生徒たちは
「あ、無理してんな」「あ、これが精一杯やな」
って見抜きます。すると、「これ以上はない」ってわかるので、抑えが効かなくなる。で、若い衆としては、最初にガツンでやったもんだから、そこで押すしかなくなる。でも…。
まぁ、個人的には、若手教員同士のやりとりが悪いと思うのです。経験の少ないもの同士で、ある人がうまくいったケースを全体に拡大するからダメなんです*1。で、なぜそんなふうになるかというと、経験の継承を軽視しているからです。全体としても、ふた言目には「若い人の考え方で」となる。
ガッコって、いろんなタイプの教員がいて、いろんなやりかたでかかわる。ガツンな人もいれば、優しい人もいれば、情けない人もダメな人もいる(笑)。そんないろんな人が、それぞれのやり方で子どもたちとかかわる。その重層性みたいなものが大切なんだと思います。
「あの子らね、数学、わかりたいねん。でも、粘りがないから、すぐに「わからん」ってなるねん。で、しゃべってしまう。だからね、わかりたいっていう気持ちを大切にしたってほしいねん。そしたら、きっと前を向いてくれるよ」
情けなくてダメな人からのアドバイスです(笑)。

*1:もちろん、更に大きな問題点はジェンダーなんですけど、それは話がズレるので、またの機会に…。

原理にあたる

懸案事項のうちのひとつが「サークラインのソケット交換」でした。
うーん。なぜサークラインのソケットには穴が4つあるんだ?そもそも、どういう配線になってるんだ?とにかく、ボロボロになったソケットにつながっているコードに色をつけて、交換開始。
さて、終了。スイッチオン…。ありゃ?片側しかつかない…。で、色わけした配線をつたっていくと…。ありゃ?片方が両方ともグロー?おかしい…。で、ネットで確認。そういえば、大学時代励起状態がどったらこったらって習ったよなぁ^^;;。
やっぱり、原理から考えたほうが確実なんだな…。
てことで、配線替え。無事つきました。が、サークライン、三灯中二灯切れてたんかい!

矜と謙・「分」はあるのか

矜…「高慢」な態度、自己を押し出したり肥大化させるあり方
謙…自己を控える態度、忍ぶ、こらえる、つつしむなど
だそうです。でもどうやら原典にあたると矜=ほこりについて、「ほこれば、自ら是として人に求めず。かくのごとくなれば、悪にうつる事きはまりなし」とあります。に対して、謙の根拠となるのは原典ではないのですが「自己の中に自律性の根拠を設定しない」「天地によって生み出されかつ「愛育覆載」され、天地のうちにその一分節としてつながることによって生かされている卑小な存在と自覚された自己の意識にもとづく」とあります。たしかに「自ら是」の対極です。
で、おそらくは「天地のうちにその一分節としてつながる」という発想は「分をわきまえる」というところにつながるのかなと。そんなことを思うのです。
ところで、「分」に「身」がつくと、まさに「身分」であり、近世社会のあり方です。
まぁ、人権の立場からすると「身分制打破!」とか「近代は身分制から解放された社会」となるわけですが…。
でも、最近、なんとなく「そうなんだろうか」と思うところもあるのです。それは「才能」ってヤツにかかわっています。
人は生まれた瞬間、すべての才能を備えて生まれてくるのか、それとも天賦の才能を与えられて生まれてくるのかと、最近なんとなく思っています。
こう書くと、「才能がないヤツははじめからあきらめるしかないのか」となるのですが、ちょいと違います。
才能には「役に立つ/立たない」とか「貴重/どうでもいい」みたいな感覚はありません。すべての「才能」は、価値としてフラットです。そして、「天賦」ですから、親からもらうものではない。つまり「世襲」ではないってことです。
それぞれの独立した個人が、天から与えられたとてもステキな「才能」を持って生まれてくる。
で、その「天賦の才能」を見つけ、磨き、社会に還元する。大切なのは自分のために使わないということ。なぜなら、その才能は「天から与えられたもの」だからです。天から与えられたものは、天のために使い、天に返す。
そして、その自分が与えられた才能を見つけ、磨き、社会に還元することを「分をわきまえる」という。そんな気がするのです。
でも、「分をわきまえる」ことは従順であることとは違います。なぜなら、その「分」を侵されそうになった時、「分」を護るためには闘わなくちゃならないからです。そのために、天賦の才能を研ぎ続けるのです。
ちなみに、他者の「分を侵す」ことを、もしかしたら「矜」というのかな。だからこそ「謙」である。
スタティックな「謙」ではなく、ダイナミックでアクティブな「謙」。
そんなことを、ふと考えます。

充実感と空虚さと

わたしはどうやら「一般論」でものを考えるのが苦手なようです。常に頭のどこかに「リアルさ」をおきながら、ものごとを考えるようです。
例えばわたしにとっての多文化とは、ウトロでオモニたちとビールを売りながら、
「お金はここに置けばいい」
「いや、あっちがいい」
「あーだ!」
「こーだ!」
とやりあったり、でも一段落ついて
「まぁ、食べ」
とか言われながら、特別に持ってきてもらったサンチュで肉を包みながらビール呑んで、気がつくとチャンゴ叩いてハルモニがノレをやりはじめて、みんなでオッケチュ厶。そのうち
「えーかげん終わるぞ!」
と怒られて片づけやって…。
みたいなものなんです。
なので、例えば「朝鮮人」というひとつの言葉の中には、必ず固有名詞が入ります。あるいは、できるだけ入れたいから、そういう場所にのこのこ出かけて行って、そういう人と出会って、しゃべって、呑むわけです。
そういうわたしにとって、一般論でしゃべる人はどうしてもどこか違和感を感じるし、ましてや一般論で「殺す」とかいう人には怒りと恐怖と…。なんだろう。
まぁ、ダメなんです^^;;。
てことで、今日は行かなきゃならないだろうと思ってこれに参加してきました。
んー。
細かいことについてはIWJなんかに譲るとして…。
空虚です。「彼ら」はやたら「朝鮮人」と言っていましたが、中身がないです。「朝鮮人」のかわりに、例えば「岡山県民」を入れても、それこそ「在特会」を入れても成立するヘイトスピーチです。そのことが、わたしに空虚さを突きつけます。
でも一方、「stand against racist」というフラッグにたくさんの人が立ち止まってくれました。

わたしはできなかったけど^^;;、留学生や外国人観光客も関心を持ってくださったみたいです。カウンターは、単に「対在特会」というだけではなく、「わたしたち」を見る人々にそれなりのアピールをしていたことを感じました。
その充実感と、でも在特会へのカウンター行動そのものの虚しさへの疲れと、いろんなことが交錯する一日でした。

終わってから呑み。
はじめて出会ったツイッタ上の人々とのやりとりは大きな収穫でした。いろんなことを教えてもらい、話をした夜でした。あまりにも話が弾んで、いつもの通り、食べずに飲んだら寝ちゃったのは、まぁこれまたいつもの通りでしたが^^;;。

それにしても、ほんとに疲れていたのを家に帰った瞬間実感しました。

さぁ、アナリーゼだ!

今年、15年ぶりくらいにちょい勉強できる(はずの^^;;)クラスの授業を担当しています。
うーん。
そりゃ、みんな担当したがるはずです。
いや、楽といえば楽ですが、考えなきゃならないことが、あまりにも違います。
いままでならば、「できないことをどこまで遡って教えるか」がメインだったのですが、それを前提とはしなくてすむわけです。だから、「いま」の内容に集中できます。そしてそれを深く掘り下げることができます。
例えば「a(x-b)y+(x-a)(x-b)」みたいな式があったとして、この式をどう見るか。
いままでなら「あきらめるな」とか「まぁこれはこうなんねん」とか、そもそも扱わないとか(笑)、そんな感じだったわけですが、今年は「これはyの1次式として見るわけで」みたいなことを話せるわけです。
こういうことって、おそらく「なんとなく解ける」から「確実に解ける」へとステップアップするために必要な作業なのかなと思っています。
でもまぁ、そんなことを考えられるのは、もしかしたら、いままで数学が苦手な子らをずっと相手し続けていたからかもしれませんね。

記憶の底

「やらなきゃならないこと」と「やりたいこと」がほぼ一致する時、「やりたいこと」は「やらなきゃならないこと」に憑依する。その時、「やらなきゃならないこと」と「やりたいこと」の間にはさまったことが忘れ去られ、記憶の底へと沈殿してしまう。でも、その澱のようなものこそが、実は「「ほんとうに」やりたいこと」だったりします。
「憑依」されて、そこに生き甲斐や喜びを感じれば感じるほど、澱はそこへと溜まっていく。
そんな澱が、ふいに浮かび上がる瞬間がある。

バーンスタインの指揮を見て、ふとそんなことを考えました。

はじまりに還る

今日は某在日外国人教育関係の会議。と言っても、フルメンバー会議じゃなくて、まぁ、代表者会議みたいなもんでして。
集まってきたメンバーで、今後のあり方について、あーでもないこーでもないとグダグダ話。
で、出てきた結論を聞きながら、思わず
「それって、この会の発足当時の姿と一緒ですね」
って言っちゃいました。
けっきょくそういうことなのかもしれませんね。「はじまり」からスタートして「はじまり」へと還っていく。
少し寂しいですけどね。

でも、わたしたちとは違う新たなとりくみは、あちこちですでにはじまっています。わたしたちのとりくみから得られたものを伝えられたらいいなとは思うのですが、たぶん「新たなとりくみ」の人たちには大きなお世話なんだろうなと思います。
それは、わたしたちのとりくみも出発当時は、たぶん同じだった。当時はわたしはいませんでしたけどね。
そんなものです。
そしてそれは、おそらくは外国人教育関係の運動だけではありません。
そうやって、歴史は繰り返されていく。そして「はじまり」へと還っていく。

ワンプッシュ

4月のこの時期、1年生のちょい元気な子は、教員に対してやたらでかい態度をとります。まぁ、簡単に言えばワンプッシュするわけです。
情けないです。教員はある意味一番安全な相手でして。その安全が確保されている相手に対してでかい態度をとるのは、はっきり言ってチキンです。
で、そんな子どもにこわーいセンセイがガツンとワンプッシュしかえします。
まぁ、それが4月の風物詩ってものです。
でも、なんだかなぁ…。
雄鶏集団のつつきあいですね。

こんなんじゃなかったのに…。

電車の中で聞こえてきた会話。
「○○高校の子ら、かしこそうに見えるわー。わたしら□□高校やもん」
ちなみに、○○高校はわたしの勤務校。そんなことを言われたことはいままで一度もなかったわけでして^^;;。
でも、わたしが持った違和感はそこではありませんでした。
かつて、15年ほど前でしょうか…。京都の高校はそんなに学校間格差がありませんでした。その頃は、こんな発言が子どもたちの間からは出ませんでした。
と同時にA高校の課題はB高校の課題でもあった。個々の学校がいまほど分断されていなかった。
なんか、こういう発言が出る今の状況に違和感を感じるとともに、なんとも言えない絶望感というか拒否感というか、そんなものが起こってくるのをとめることができませんでした。