水平社の変遷

今日は午前中は、京都府南部のムラのフィールドワークと説明。午後は、水平社博物館の館長さんの水平社に関する講演を聞いてきました。
いや、おもしろかったです。
いままで、「水平社は反権力・反天皇制で一貫していた」「被差別民による一枚岩の闘う組織」みたいな幻想があったわけですが、全然違うということがよくわかります。組織内部には、運動のあり方をめぐるさまざまな紆余曲折や、ヘゲモニーをめぐる闘争なんかがあって、けっこう泥臭い人間模様があったんだなぁと思うわけです。
でも、考えてみると「ピュアな存在」からは学ぶべきものはあまりないし、そもそもそういう運動って、信じられないですよね。どちらかというと「雑多な存在」であるからこそ、葛藤があり、苦悩があり、なにかが生まれてくる余地があるんじゃないかと思うのです。前にもどこかに書いたと思うけど、「51%の正しさと49%の間違い」という言葉があって、これ、すごく大切なんだろうなぁと思います。「絶対的に自分が正しい」と信じた瞬間に転落の道がはじまります。ではなくて、「間違いを抱えている」自分を確認しながら、それでも「とりあえずすすんでいく」というスタンスこそが大切なんじゃないかなぁと思いました。
そういえば、「人間は上に向かって堕落する」という言葉を聞いたことがあります。これを言った人は、まさに上に向かって堕落したらしいけど(笑)。

よ〜くわかった…

ところで、5年だったか6年だったか昔、わたしがトランスであることを理由に、スキーキャンプのインストラクターをクビにした某キリスト教系青少年育成団体。ところが、ここ、その後も「専門委員」はわたしに毎年委嘱をしていました。でもまぁ、クビになった理由が理由ですから、当然モチベーションは下がります。「どのツラさげて…」というのが正直な気持ちです。ちなみに、わたしをクビにした時に、「でも、勉強をしておいて下さい」というふうには話したのですが、どうも勉強した節はなし。てか、その後、トランスがらみのことには一切触れないまま、表面上のつきあいをし続ける人たちに、正直愛想が尽きていました。
こんな状態なので、委員会に出席する時なんかの態度も、当然悪くなります。そのあたりが、これまた表面上の理由でしょうが、今日送られてきたパンフレットを見ると、専門委員をはずされているのがわかりました。で、また「なんやねん、ここは」と思ったわけです。ひとこと「専門委員を今年は委嘱しません」と言えばいいのに、その連絡がありません。あたしゃ「今年の専門委員会はいつあるのかなぁ」「リーダートレーニングの講習はいつあるのかなぁ」と、態度が悪いながらも気にしていたし、日程も配慮していたわけで、そういうこっちの事情には一切無関心のようです。
ま、いいですよ。大学時代から、足かけ25年のつきあいも、今年限りですね。今年度いっぱいで維持会員もやめます。同じお金を出すのなら、某キリスト教系女性育成団体に出した方が、はるかに有意義だとも思うしね。

よ〜くわかったよ!

夕方、保険屋から電話がありました。なんでも、示談をはじめたいので、わたしの希望する過失割合を知りたいとのこと。まぁそれはいいですわ。で、その後、先日の不愉快な話をしはじめたところ、なんか話がかみあわないです。そのかみあわなさが、だんだんと不愉快になってきました。保険屋がいうには

  • 「対人」と「対物」は別で、自分たちが関係あるのは「対物」のみ
  • その「対物」も、向こうのものを直すためのもの
  • こちらのものを直すためのお金を出すかどうかは向こう次第
  • ただし、請求できるのは被害者か被害者が委託した弁護士だけ
  • 「対人」については、基本的には関係ない
  • したがって、自賠責の立て替え云々をネタにして賠償請求をおこなうことはできない

まぁ、これらは冷静になればいちいち「まぁそんなもんか」という話です。つまり、簡単に言うと、こういうことです。
保険屋は、自分が払う金にしか関与しない。
まさに、保険以上でも以下でもないということです。
当事者にとっての過失割合は「自分の修理費をどれだけ保障してもらうか」だけど、保険屋にとっての過失割合は「相手の修理費をどれだけ出せるか」なんですね。で、それがたまたま裏表の関係で一致するからたまたま自分の味方のような気がするだけのことなんですね。
まぁ、このあたりのことが電話の最中に理解できて、とたんに冷静かつ事務的な気分になれたのでよかったのですが(笑)。
で、保険屋曰く「事故というのは、野良犬に手をかまれたみたいなもんと思わないと」なるほどなぁ。そういう思いからスタートしないと腹が立つだけで、話にならんということですね。まぁ、よ〜くわかりました。

金…

それにしても、向こうの車が自賠責にしか入っていないという状態なので、めんどくさいです。幸い自賠責の限度額を超えるようなケガではなさそうなので、治療費はなんとかなりそうですが、問題は「立て替え」です。
処置をしてくれた病院が家から遠いし、薬については院外処方、さらに首や筋肉の関係で接骨医にもかかろうと思っています。ふつうは、加害者側の任意保険の会社が立て替えをして、限度額以内の分については、自賠責の方に「加害者請求」をするわけです。ところが、向こうにはそれをやってくれる人がいないし、そうなると向こうに立て替えさせるのはかなりめんどくさいです。結局わたしが立て替えをして、加害者請求をすることになるんですけど、これがめんどくさい。
ところが、このことを向こうに電話で伝えたところ「それでけっこうです」などという返事。ぶち切れかかりました。さらに「わたしも首が痛い」とか言いはじめます。箱の中に入っている人間がなにを言うねん!ぶち切れました。
結局、任意がないので、物損分は自腹なんですね。それを払うのにビビっているようです。
この間病院で見せた「誠意」らしきものは、電話の向こうにはありませんでした。金がからむと、人間こうなるのかと、よくわかりました。はぁ…。

とはちょっと違うかな…

若い同僚(♀)と話をしていて、ふと疑問を持ちました。なにせ「わたし、男の人と2人で飲みに行ったりしないんです」とか言う。でも、わたしその人と飲みに行った経験がアリなんですね。で、「ところでね、◯◯さん、わたしを男としてみている?女としてみている?それとも考えてない?」と聞いてみました。すると、「う〜ん、女の人でしょ?」という答え。
Σ(゜Д゜;エーッ!。
職場では全部バレバレですし、たいていの場合、微妙な線の上で評価をされていることが、よくわかるんですよね。だから、自分としても相手がどう考えているかとても不安だったりします。「でもね、いつきさんが男の人だったら、たぶん仲良くなってない」と続いて話をしてくれました。
不思議な気分だなぁ。でも、ちょっと楽になったかなぁ…。わからん◯Oo。

車とバイクと自転車と

学校に行く道すがら、バイクに乗りながら考えていました。
バイクに乗る時、わたしは「死ぬかもしれない」と思いながら乗っています。では、車に乗る時…。「殺すかもしれない」と思いながら乗っています。自転車に乗る時は…。「殺されるかもしれない」と思いながら乗っています。
車は、「強者」の論理かなと思います。自転車は「弱者」の論理かなと思います。
自転車に乗っている時は、「殺されるかもしれない」と思いながらも、どこかで「守られている」というふうに思うことがあります。だから、無茶ができてしまう。でも、守ってくれるのは「強者」である「車」です。
「強者」である「車」に乗っている時、「殺すかもしれない」よりも優先する価値観、例えば「急いでいる」という価値観が優先した時、必要以上にアクセルを踏み、「殺すかもしれない」という思いは、どこかに忘れ去られてしまいます。その時、はたして「弱者」である「自転車」を「守る」ことはできるでしょうか。答えは、言うまでもなく「No」です。
「自転車」が「守ってくれるかもしれない」と考える相手は、「車」です。すなわち、「弱者」の立場になってしまうと、「強者」におもねるしかできなくなってしまいます。
バイクに乗る時、「死ぬかもしれない」と思いながら、わたしは同時に「殺すかもしれない」と思います。そして、自分の身を守るには、自分が注意深く走り続けるしかありません。「急いでいる」という時にも、「死ぬかもしれない」という思いを吹っ切ることができません。その思いは「殺すかもしれない」という思いと、常に同居してくれます。
バイクは、「強者」にも「弱者」にもなり得ます。その微妙なバランスの上に、バイクのライディングがあると思います。

予想通りの…

しかし、ここまでとはねぇ…。
思わず今日の授業で演説をぶってしまいました。

大人達の一部を代表して、まず諸君に謝らなくちゃならないことがある。わたし達が君たちに残せたものは、戦争だけだった。昨日をもって、日本はいよいよ本格的に「戦前」になった。
今後、教育基本法改悪・憲法改悪などを通じて、「強者の論理」がまかり通る社会ができていく。だれもが「強者」になれるわけではない。「強者」は実は、一人しかいない。残りすべては、実は「弱者」である。しかし、そうした社会を求めたのは、実はわたしたちだった。
なぜか?わたしたちはヒーローを求めてしまった。そして、合法的に選ばれた「ヒーロー」を生み出してしまった。これは、かつてドイツがワイマール憲法下で歩んだ道と同じである。
わたしは、いずれあと20年、30年後には死んでしまう。死なないまでも、すでに戦争は行かない年齢になっているだろう。しかし、戦争に行くことになるのは諸君である。そして、その後に続くのは、わたしの上の中2の子どもであり、下の小2の子どもである。だからこそ、いま、話さなくてはならない。
わたしたちが生き残る可能性は、それでもまだある。諸君の中の大部分は、やがて選挙権を持つ。ちなみに、少数でははあるけど、在日外国人の人がこの中にいるかもしれない。残念ながら、在日外国人の人たちは選挙権がない。わたしたちは在日外国人の人々を巻き添えにしていることを、たいへん申し訳なく思う。だからこそ、諸君が選挙権を行使できるようになった時は、ぜひとも「やさしい」選択をしてほしい。無関心になることもなく、皮肉なものの見方をすることもなく、ヒーローにまかせるのでもなく、現実にきちんと向きあってほしい。
かつて、こういう話を諸君にしようと思ったことは、何度もあった。でも、話さなかった。なぜか。「聞いてくれない人」がいることに絶望し、だんだん話さなくなったからだ。でも、それはまちがっていた。教室の中にたった一人でも聞いてくれる人がいるならば、その人に向かって話すべきだった。そのことを怠ってきたことが、今、この時代を迎えることになってしまった。
もしも、諸君が4年後、国の行き先を選択する権利ができた時、今日のこの話を、ほんの少しでいいから思い出してくれるとうれしい。

じゃぁ、授業に入ります。

「防災の日」関係の話は…。

去年書いたっけ。
それにしても、世界ではハリケーンで掠奪が起こったり、デマで人が死んだり、えらいことになってますね。
日本では、なんだかんだいっても、阪神淡路大震災の時には関東大震災の時の繰り返しにはならなかったわけで、そういう意味では捨てたものじゃないという気もしないわけでもないです。
てなこと言っていると、台風が近づいているそうな。

GIDとIS

最初にお会いしたのがISのOさんという方です。ホテルのロビーにいらしたOさんを見た第1印象は「普通の男性やん」。
この方から前にもらったメールの中に、どうしようもないショックを受けた一文がありました。「ISは自分の意志と関係なく身体が変わっていくんです」。そうかぁ、そうですよね。トランスは自分の意志で身体を変えていきます。だから、何が起こってもそれは納得ずくであるはずです。同じく身体の変化があるISの人たちですが、自分の意志とは関係ないんですよね。でも、それにつきあい、折りあいをつけていかなくちゃならないんですね。すごい、すごすぎると思いました。
で、いろいろ話をしたのですが、いやぁすごいです。小学校の時に保健室に呼ばれて「そんなに胸が大きいんだったら、これが必要」とかってにブラをつけられたこと。中学校の時に勝手に制服を詰め襟からスカートにかえられ、しかたなくスカートで登校したこと。大学の時に、体育の水泳の授業で「頼むからこれを着てくれ」と女性用の水着を差し出されたこと。「自分の性自認としては、どちらかというと男なんです」とのことです。で、いまはうまく身体をコントロールすることで、少し男性寄りになっているとのこと。「まぁ、マシにはなったかなぁ」と笑っておられました。
もちろん、こんな話を深刻な顔で話しておられたわけじゃありません。ケラケラ笑いながらおもしろいエピソードを語るように話されるんです。「わたしはISなおかげでスカートもたくさん持ってますよ〜。あきるほどはきました」とか「なぜかISの人ってウェディングドレスを持っている人がちょこちょこいるんですよね」とか。なので、3月に行われるであろう全国交流会でコスプレをするという話が進んでしまいました^^;;。
他にもいろんなことを話しましたが、さすがに書き切れません。そのうち玖伊屋にも来られるかもしれません。楽しみです。