それにしても、向こうの車が自賠責にしか入っていないという状態なので、めんどくさいです。幸い自賠責の限度額を超えるようなケガではなさそうなので、治療費はなんとかなりそうですが、問題は「立て替え」です。
処置をしてくれた病院が家から遠いし、薬については院外処方、さらに首や筋肉の関係で接骨医にもかかろうと思っています。ふつうは、加害者側の任意保険の会社が立て替えをして、限度額以内の分については、自賠責の方に「加害者請求」をするわけです。ところが、向こうにはそれをやってくれる人がいないし、そうなると向こうに立て替えさせるのはかなりめんどくさいです。結局わたしが立て替えをして、加害者請求をすることになるんですけど、これがめんどくさい。
ところが、このことを向こうに電話で伝えたところ「それでけっこうです」などという返事。ぶち切れかかりました。さらに「わたしも首が痛い」とか言いはじめます。箱の中に入っている人間がなにを言うねん!ぶち切れました。
結局、任意がないので、物損分は自腹なんですね。それを払うのにビビっているようです。
この間病院で見せた「誠意」らしきものは、電話の向こうにはありませんでした。金がからむと、人間こうなるのかと、よくわかりました。はぁ…。
カテゴリー: 考え
しゅじゅちゅ…。
この間、それなりに結論を出したにもかかわらず、やっぱり気持ちは揺らいでいます。やりたいものはやりたい…。そこに間違いはないです。ふぅむ…。
とはちょっと違うかな…
若い同僚(♀)と話をしていて、ふと疑問を持ちました。なにせ「わたし、男の人と2人で飲みに行ったりしないんです」とか言う。でも、わたしその人と飲みに行った経験がアリなんですね。で、「ところでね、◯◯さん、わたしを男としてみている?女としてみている?それとも考えてない?」と聞いてみました。すると、「う〜ん、女の人でしょ?」という答え。
Σ(゜Д゜;エーッ!。
職場では全部バレバレですし、たいていの場合、微妙な線の上で評価をされていることが、よくわかるんですよね。だから、自分としても相手がどう考えているかとても不安だったりします。「でもね、いつきさんが男の人だったら、たぶん仲良くなってない」と続いて話をしてくれました。
不思議な気分だなぁ。でも、ちょっと楽になったかなぁ…。わからん◯Oo。
車とバイクと自転車と
学校に行く道すがら、バイクに乗りながら考えていました。
バイクに乗る時、わたしは「死ぬかもしれない」と思いながら乗っています。では、車に乗る時…。「殺すかもしれない」と思いながら乗っています。自転車に乗る時は…。「殺されるかもしれない」と思いながら乗っています。
車は、「強者」の論理かなと思います。自転車は「弱者」の論理かなと思います。
自転車に乗っている時は、「殺されるかもしれない」と思いながらも、どこかで「守られている」というふうに思うことがあります。だから、無茶ができてしまう。でも、守ってくれるのは「強者」である「車」です。
「強者」である「車」に乗っている時、「殺すかもしれない」よりも優先する価値観、例えば「急いでいる」という価値観が優先した時、必要以上にアクセルを踏み、「殺すかもしれない」という思いは、どこかに忘れ去られてしまいます。その時、はたして「弱者」である「自転車」を「守る」ことはできるでしょうか。答えは、言うまでもなく「No」です。
「自転車」が「守ってくれるかもしれない」と考える相手は、「車」です。すなわち、「弱者」の立場になってしまうと、「強者」におもねるしかできなくなってしまいます。
バイクに乗る時、「死ぬかもしれない」と思いながら、わたしは同時に「殺すかもしれない」と思います。そして、自分の身を守るには、自分が注意深く走り続けるしかありません。「急いでいる」という時にも、「死ぬかもしれない」という思いを吹っ切ることができません。その思いは「殺すかもしれない」という思いと、常に同居してくれます。
バイクは、「強者」にも「弱者」にもなり得ます。その微妙なバランスの上に、バイクのライディングがあると思います。
予想通りの…
しかし、ここまでとはねぇ…。
思わず今日の授業で演説をぶってしまいました。
大人達の一部を代表して、まず諸君に謝らなくちゃならないことがある。わたし達が君たちに残せたものは、戦争だけだった。昨日をもって、日本はいよいよ本格的に「戦前」になった。
今後、教育基本法改悪・憲法改悪などを通じて、「強者の論理」がまかり通る社会ができていく。だれもが「強者」になれるわけではない。「強者」は実は、一人しかいない。残りすべては、実は「弱者」である。しかし、そうした社会を求めたのは、実はわたしたちだった。
なぜか?わたしたちはヒーローを求めてしまった。そして、合法的に選ばれた「ヒーロー」を生み出してしまった。これは、かつてドイツがワイマール憲法下で歩んだ道と同じである。
わたしは、いずれあと20年、30年後には死んでしまう。死なないまでも、すでに戦争は行かない年齢になっているだろう。しかし、戦争に行くことになるのは諸君である。そして、その後に続くのは、わたしの上の中2の子どもであり、下の小2の子どもである。だからこそ、いま、話さなくてはならない。
わたしたちが生き残る可能性は、それでもまだある。諸君の中の大部分は、やがて選挙権を持つ。ちなみに、少数でははあるけど、在日外国人の人がこの中にいるかもしれない。残念ながら、在日外国人の人たちは選挙権がない。わたしたちは在日外国人の人々を巻き添えにしていることを、たいへん申し訳なく思う。だからこそ、諸君が選挙権を行使できるようになった時は、ぜひとも「やさしい」選択をしてほしい。無関心になることもなく、皮肉なものの見方をすることもなく、ヒーローにまかせるのでもなく、現実にきちんと向きあってほしい。
かつて、こういう話を諸君にしようと思ったことは、何度もあった。でも、話さなかった。なぜか。「聞いてくれない人」がいることに絶望し、だんだん話さなくなったからだ。でも、それはまちがっていた。教室の中にたった一人でも聞いてくれる人がいるならば、その人に向かって話すべきだった。そのことを怠ってきたことが、今、この時代を迎えることになってしまった。
もしも、諸君が4年後、国の行き先を選択する権利ができた時、今日のこの話を、ほんの少しでいいから思い出してくれるとうれしい。じゃぁ、授業に入ります。
「防災の日」関係の話は…。
GIDとIS
最初にお会いしたのがISのOさんという方です。ホテルのロビーにいらしたOさんを見た第1印象は「普通の男性やん」。
この方から前にもらったメールの中に、どうしようもないショックを受けた一文がありました。「ISは自分の意志と関係なく身体が変わっていくんです」。そうかぁ、そうですよね。トランスは自分の意志で身体を変えていきます。だから、何が起こってもそれは納得ずくであるはずです。同じく身体の変化があるISの人たちですが、自分の意志とは関係ないんですよね。でも、それにつきあい、折りあいをつけていかなくちゃならないんですね。すごい、すごすぎると思いました。
で、いろいろ話をしたのですが、いやぁすごいです。小学校の時に保健室に呼ばれて「そんなに胸が大きいんだったら、これが必要」とかってにブラをつけられたこと。中学校の時に勝手に制服を詰め襟からスカートにかえられ、しかたなくスカートで登校したこと。大学の時に、体育の水泳の授業で「頼むからこれを着てくれ」と女性用の水着を差し出されたこと。「自分の性自認としては、どちらかというと男なんです」とのことです。で、いまはうまく身体をコントロールすることで、少し男性寄りになっているとのこと。「まぁ、マシにはなったかなぁ」と笑っておられました。
もちろん、こんな話を深刻な顔で話しておられたわけじゃありません。ケラケラ笑いながらおもしろいエピソードを語るように話されるんです。「わたしはISなおかげでスカートもたくさん持ってますよ〜。あきるほどはきました」とか「なぜかISの人ってウェディングドレスを持っている人がちょこちょこいるんですよね」とか。なので、3月に行われるであろう全国交流会でコスプレをするという話が進んでしまいました^^;;。
他にもいろんなことを話しましたが、さすがに書き切れません。そのうち玖伊屋にも来られるかもしれません。楽しみです。
で話
まぁ、話の内容はいつもの通り漫談です。
ただ、最近思うのですが、「女性部」で呼ばれたり「両性研(旧女子教育)」という形で呼ばれたりということが増えたのですが、「いいのかなぁ」などと。だって、「女性部」にしろ「女子教育」にしたって、世の、とりわけ組合内部の男性たちからのものすごい抵抗に抗いながら、必死につくってこられた女性教職員の運動の上にできあがってきたものなんです。でも、どこかそれが頭打ち。そんなときにあらわれてきたのが「セクシュアルマイノリティ」なんだと思うのです。で、既存のジェンダー枠を突き崩したり、家族制度を問うたりするひとつの手がかりとして、また教育課題として「とりくもう!」となったのではないかなぁ。で、こちら側としても「え?関心持ってくれはんの!」ということで安易に飛びついてしまった。
でも、なんか最近「ひさしを借りて…」という気がしてならないんです。だって、このバックラッシュの嵐の中、ほんとうに厳しい闘いが依然としてあるわけで、てかかつてより厳しい状況があるわけで、そこからかえって逃げる場所をつくってしまったのではないかと思ったりもするわけです。
やっぱ「女子教育→両性研」という流れを大切にして、あくまでも自分たちは「傍流である」という自覚を持ちながら、話をしていかんとあかんなぁと思うのです。
そんなこんなですが、会場には当事者の高校生が2人来てくれました。この子らが生きていける学校をどう作っていくかということは大切ですよね。話のあと、部屋を変えて1時間ほど情報交換。けっこうしっかりしていました。安心しました。
民営化なぁ…
今日は午後から日直。学校に行ってだらだらと雑務をこなそうと。
でも、やっぱり気になるのは参議院。職員室にはテレビはないのですが、パソコンに火を入れると情報が入ってくる。便利な世の中になったものです。で、2時半頃に「否決」の文字がディスプレイに表示されました。まぁおもしろいことになってきたな、と。
ところで、郵政民営化については、わたしは批判的です。というか、もう少していねいにいうなら、郵便サービスを民営化することですね。全国一律同料金、手紙をポストに入れたらだいたい1日で着くという郵便サービスは、とても貴重なものだと思っています。これを民営化すると、たぶん情報格差がものすごく広がるんじゃないかと思っています。
これは、ネットが普及しはじめたときに感じました。あちこちで、やれISDNだやれADSLだやれ8Mだと言っているときに、わたしが住んでいるところはダイアルアップでした。泣きそうでしたね。ようやく1.5Mを引いたときは世界は光でした。ちなみに、air H”はいまだに×です。そうそう、職場もね。「民」がやっているかぎりは、まぁこんなもんです。これが郵便サービスでも起こるとしたらえらいことです。
結局「民」はペイできるところに厚く、ペイできないところは切り捨てるということになりますよね。
てことで、郵便サービスは全国一律無料で。そのための税金はしゃーないというのが、わたしの考えなんですが…。
power
で、研究集会の記念講演は朴木佳緒留さんの「学校教育におけるジェンダー平等を考える」。いや、おもしろかったです。ジェンダーをめぐるさまざまな論議と、そこからひきだされる学校教育のあり方について、かなり柔軟な観点で語られました。一方、朴木さんって、とてもていねいで柔らかい物腰なのですが、ごりごりのフェミニストなんでしょうね。「男性と女性の違いはpowerだ」と一刀両断です。
ここでいうpowerは「権力」です。すなわち、「男性には権力がある」ということです。まぁ当たり前といえば当たり前なんですけど、続けて言われたのが「これを話すとみんなに引かれてしまう」なんですね。たぶん聞いている人(こういう研究集会に参加しているのは圧倒的に男性が多いんですよね)は、「頭ではわかるけど認めたくない」とか「一般化されても困る、自分は権力的ではない」とか「うちではパートナーが権力を持っている」とかいろんな思いが頭に浮かぶんでしょうね。もちろん、わたしはこれをタニンゴトとして考えるわけにはいきません。やはり、社会的に「男性」として存在している部分もかなりあるわけで、そういう自分の存在を簡単に否定することは、等身大の自分を認めないことになりますから。
でも、「簡単な例」には笑いました。
なんでも、最近朴木さんは新幹線に乗る時、特に夏にはグリーン車に乗るそうです。「いや、お金があるからじゃないんです」って。
わかりますよね〜。
問題は「肘掛け」の位置づけなんです。朴木さんは、あの肘掛けは「中立地帯」と考えておられるんです。ところが、ほとんどの男性はあそこに肘をかけるらしいです。すると、肩や日出が触るので、それをさけようとすると、ものすごく窮屈になってしまう。「若い時は大丈夫だったけど、最近はあの窮屈な恰好をして東京まで行くのがしんどい」とのことです。
ちなみに、自分の経験だけでものを言うのはあれなので、新幹線に乗るたびにリサーチをしたそうです。すると、女性が隣にいる場合、男性の約8割が肘掛けを占領して、女性は0%だったそうです。
この例を出すたびに、聞いている人に引かれてしまうらしいんですけど、なんかわかるなぁ…。たしかに、新幹線に限らず電車で誰が隣に座るかって、かなり切実だもんなぁ…。
帰りの車の中で「人の話の聞き方にも違いがありますよね。女性はたいてい受容的な態度だけど、男性はたいてい「試してやろう」という感じですからねぇ」なんていう話をしてました。
「あなたは権力を持っていて、それを行使しているのよ」ということを、アサーティブネスに伝えることって、実はとっても難しいことなんだろうなぁ。てか、気づくのが難しいのか…。>自分