コメントつき

友だちのKさんから某MLにフジテレビの感想が寄せられました。コメントつきで感想を無断転載します。いいっすよね?>Kさん

最初のCMまで10分間が非常に暗い描写で、家族を不幸にする極悪非道の行い*1といった雰囲気でした。
後半の10分は一転して、家族が受け入れつつある現実を見せ、将来に希望を見いだす雰囲気でした*2
心の性別という視点が抜けている中で、「女性になりたい」という表現に、当事者の気楽な無責任さを感じる視聴者もいそうです*3
学校での雰囲気は非常に好ましく見えました*4
とにかく前半と後半のカラーが対照的なので、願わくば、ご覧になった方々が、途中でチャンネルを変えてないことを祈ります*5
いつきさん個人が最善を尽くして行った、周囲との調整の努力等もあまり描かれないので、淳子さん、エライ!という番組でした*6
あと、ビールばっかり飲んでいる印象も受けました*7
以上とりいそぎの雑感です。

てことで、ビデオが送られてくるのが楽しみです。
しかし、こんなコメントつけてていいのかなぁ。ツッコミを入れて下さった方々、すみません。

*1:いや、たしかに極悪非道です

*2:でないと、番組にならないから…。てか、そういうふうにしてほしいと要請していたりして(笑)

*3:まぁ、今振り返るとかなりお気楽という気がしないわけでも…。てか、いまお気楽に生きているしなぁ。「心に性別はあるのか?」みたいな…

*4:今日、スランプに入りました(涙)

*5:たしかに…

*6:いや、誰がなんといおうとも、「わたし=極悪非道&お気楽人生」「パートナー=えらい!」だと思いますよ。うん

*7:そのまんまやんけ〜。クズにならなかっただけマシか(笑)

なにが難しいのかなぁ…

1学期の人権学習へ向けた打ち合わせでの出来事です。
今回は、ある学年で「ジェンダー」にかかわる学習をします。ところが、ある教員が突然言いはじめました。「男らしさ・女らしさをなくしてみんな中性化を目指すのはどうかと思う」。いや、だれもそんなことは言ってませんって^^;;。「ある人が、男らしく生きようと女らしく生きようと*1、それはその人の自由です。でも、それを他の人に押しつけるのをやめようという話なんですよ」「もうひとつはね、男らしくとか女らしくとか言われた時に息苦しさを感じる人がいたとしたら、『そこから解放されて生きようよ』ということを伝えてもらえればと思うわけなんです」というふうに伝えました。
でも、だめみたい。「最近では医療現場でも男性専科とかできているし、わけていくのが時代の趨勢」とか言いはじめたので、「いや、前立腺の検査をしようにも女性にはないし、卵巣の検査をしようにも男性にはないし、そういう問題じゃないです」という話までしなくちゃならない状況です。
まぁ、1ヶ月ほど前にこの人にジェンダーにかかわる話をした時に「関心がない」って言っていたので、関心がない話なんでしょうね。で、関心がないという状況で生きていられるということは、関心を持たずに生きられる場所にいて、そこに安住していられるということなんだと思います。そうではない人にとって、そういう発言や態度がどれほどの抑圧になるかなんていうことは、わからないんだろうなぁ。

*1:もちろん、そんなもんが未来永劫固定的なものかどうかとか、生得的か環境の産物かなんて話はしていませんけどね…。

それにしても…

で、議長は何をするかというと、ほとんど決まったとおりに議事を運営していくだけです。台本もあります。なので、とても楽。唯一しんどいのは「寝られない」ことくらいかな(笑)。
で、台本をチェックしていると…。おもしろい表現がちょこちょこ。「過半数を超える」とか「午後18時」とか。たぶん、これまでいろんな人がちょこりちょこりと手を入れているうちに、矛盾した表現とか重複した表現が出てきたんでしょうね。
でも、それだけじゃない気がする。うちのがっこうでの職員朝礼でもたまに「プリントを机上の上に置かせていただきます」などという表現が出てきます。思わず「空中に置くんかい!」とツッコミを入れたくなりますね。
でも、あまりこういうのを茶化すと、あとで自分がやった時にツッコミ返しが来るのでやめとこ…。

情けなくってもいいじゃない…

さっきの話の続きに、どういうわけか「愛国心」についての話が出てきました。ここでもまたまた大きなギャップ。もちろん、学生さんとわたし(たち)の間のジェネレーションギャップなのか、単なる個人同士の見解の相違なのかはわかりませんが…。
学生さんの見解
「自分のまわりにいる家族や友だちは、やっぱり大切」→「(平たく言うなら、)その人たちを守ることが愛国心」→「守るためには国を守る必要がある*1」→「国を守るためにはパワーが必要」→「だから軍隊も必要だし、徴兵制もやむを得ない」
う〜ん。スタートはあまり変わらないんだけど、ゴールがぜんぜん違うのはなぜ?
わたしの見解
「自分のまわりにいる家族や友だちは、やっぱり大切」→「それを愛国心というなら愛国心というのかもしれないけど、別にそんな名前をつけなくてもいいやんか」→「別に国家がなくなっても、家族や友だちとの関係が変わるとは思えないし、国家を守るために命を落とすなら、それは本末転倒」→「ところで、現在の国家間のパワーバランスを考えると、いきなりひとつの国が他の国をかつてのような植民地化をするということは考えられない」→「てことは、別に「勝たなきゃ」と思う必要はないやんか」→「負けてもええやん、情けなくてもええやん」
こんなわたしに「非国民」という言葉が投げつけられたとしたら、それはわたしにとってのほめ言葉です。

*1:「国家」が自分たちの関係性を守ってくれているという解釈かな

距離と時間と密度

今日は、大阪市最南端にある、とある大学に昼から行って来ました。「1時間で自分のことを述べよ」というお題をもらっていたのですが、やっぱり無理でした。どうしたらええんやろ…。真剣に悩みます。それでも、けっこうウケたので、まぁよしとしましょうか*1
その後、しばし校内の学食*2で歓談。そこでだんだんわかってきたことが「最近の学生さんたちの人間関係って、すごく相対的」ということなんです。いや、あちこちでこういうことは言われていると思うんですけど、やっぱり感じました。
先生たちから「いつきさんの話がわかるのは、80年代に京都にいたという共通体験があって、しかも同じ空気を吸っていたというバックグラウンドがあるからだよ」という説明があったんです。ところが、学生さんから「年代が一緒だからって、僕にはわからないです」という返しがありました。で、わたしのほうから「だって、あの頃はバイクなんてなかった。地下鉄もなかった。移動手段は、自転車か徒歩。だから、みんな大学の半径1km以内に住んでいた。だれかの家で呑んでいて、誰かを誘おうと思ったら、当時は携帯なんかないし*3、じゃんけんで負けたヤツが歩いて呼びに行ったもんです」と解説。さらに「テレビがある学生が、下宿屋の中に1〜2人。だから、テレビを見たければ、そこに行ってみるしかない。まぁ街頭テレビの感覚やなぁ」。このあたりで、またまた先生たちは大ウケ。どうやらみなさんその通りだったようで。「で、テレビを一緒に見ていたら、やっぱりいろいろ話をしながら見るじゃない」。
考えてみると、こういう生活は、学生同士だけじゃなくて、家族もそうでした。家の中にテレビは一台。親と子のチャンネル争いもあったし、やっぱりどちらかがどちらかに譲るわけです。で、しゃーないからそのテレビにつきあったりします。そういう中で、「あ、この人はこういうことに興味があるんだ」とか「あ、この人はこのことに対してこういうふうに考えるんだ」みたいなことがわかっていった。友だちや親との会話っていうのは、こういうことをベースにして行われていたんですよね。
別に、「昔はよかった」という懐古趣味に走るつもりはないのですが、でも、よかったと思います。おそらく、いまはそういう「状況」がつくる「偶然性」に頼れない時代になった。だからこそ、意図的に距離と時間と密度の相関を考えながら、関係性をつくっていく必要があるし、そういう「場」をデザインする楽しさがあるとも思います。

*1:でも、一番ウケていたのは学生さんじゃなくて、同年代の先生たちだったりします。なかでも、わたしの話を聞くのが4回目の人が一番ウケていたのはどうよ。その先生に言わせると「最近は、「あ、来くるぞ来るぞ来るぞ、やっぱり来た(笑)」という感じ」なんだそうで、それは古典落語かプロレスの世界とちゃうんかいな…

*2:ちなみに、この学食、3時以降は「ビールセット」があるという、たいへんすばらしい学食です。

*3:ちなみに、加入電話もなかった。たいてい大家さんの家から取り次いでもらうんだけど、これがまたイヤミを言われるんですよ

生徒と子ども

樹村さんのコメントに啓発されて、ふと考えたことがありました。
樹村さんのコメントには、某歴史教科書を立ち読みされた時の感想として「最近の中学生は、すっかり子ども扱いされてるんですねぇ」というふうに思われたとのこと。
まぁ、ウチの高校生も完全に「子ども」なんで、まぁそれまでといえばそれまでなんですけど…。いや、見た目はもちろんちゃいますよ。というか、3年生ともなると「オサーン」「オバハン」「ねえちゃん」がほとんどです。でも、中身が…。
というのはおいといて…。
関西の中学校の先生たちは、よく自分の学校の生徒たちのことを「ウチのガッコの子ぉらはなぁ」というふうに表現します。「子」ですわ。まぁ、子ども扱いです。ただし、このときの「子ども」は、たぶん「親」から見た「子ども」であって、「よそさんの子ども」とはちょっと違うかなぁと思います。ちなみに、「ウチのガッコの子ぉらはなぁ」のあとは、たいてい「ホンマあかんたればっかでどうしょもない子らやけど、エエトコあんねん」という感じで続きます。
なんでこんな感じになるのかというと、こういう表現をする教員って、生徒の生活実態まで丸ごと見据えた上で、今ある子どもの姿や、これからの進路のことを考えているんだと思うのです。
なんか書いていてオチがわからなくなったので、とりあえずおしまい。

ところ変われば

午後は用事で大阪へ。在日朝鮮人の集住地域にある学校に行きました。ここ、昼間定時制があります。
いや、定時制って、ある意味いいなぁ。もちろん、生徒のニーズはとても多様だし、そこにきめ細かく対応していく必要があるので、仕事の量も膨大みたいだし、しんどいこともいっぱいあるみたいです。それでも、いいなぁとふと思ってしまいました。ま、隣の芝生状態なのかもしれませんけどね。
この学校、なにがいいかというと、トランスの子が入学してきた時、「性別はどちらで行きますか?」という問いかけをする余地があるようです。というのは、制服がない*1。単位制なので、カリキュラムにも弾力性がある*2。こういう学校って、可能性に満ちあふれていると思うんだけど、世間はそうも思っていないみたいですね。なんらかのつまずきをした子どもたちの通う場所と考えているのかな。さまざまな「規制」の中で生きてこなかった子どもたちにとっては進路は厳しそうですね。
でも、そこの学校のある人が言っていた「トランスの子どもたちにとっての選択肢のひとつになりうる学校である」という言葉は、同時にトランスの子を受けいれながら、その子が将来展望を持てるようにしていこうよという決意のあらわれのように思われました。こういう人が増えていくことがありがたいです。

*1:ということは、服装指導がほぼない

*2:クラス単位で動くことがないため、クラスや学年の縛りがほぼない

人に伝えるということ

今日は、人権教育研究会の総会です。午後からは記念講演。今日のテーマは在日外国人、なかでも新渡日の子どもたちの話です。
講師の人の体験を語られるのですが、それはそれはまぁ、すざまじい経験をされています。知らない言語は、「聞いても意味がとれず、見ても記号にしか見えない」ということを、きわめてわかりやすく伝えて下さいました。
もっとも、これ、数学の授業をしていると、日常茶飯事に起こることなんですけどね。わたしたちにとって「lim h→0」みたいなことを書いたとしても、はじめて習った子どもたちには、まったくの異文化の記号だろうし、その時に「ちょっと待って、それって何が書いてあるの?」と聞いてくれる関係をつくっていなかったら、生徒たちが「わかっていない」事にすら無頓着になってしまう可能性があるわけです。そういう意味でも、すごく意味のある話でした。
しかし、ライフヒストリーがすごい。「いじめにあって」「がまんをして」「がまんできなくなって」「荒れて」「暴走族に入って」「そこではみんな立場こそ違えど、同じような経験をしていて」「心の安住すらすれども」「逆もどりできなくなって」「鑑別所に入って」「出てきたらヤクザ予備軍」。
パターンといえばパターンなんですけど、目の前の人が「そうであった」というのはまたぜんぜん違う迫力がありますね。で、必死に足抜けをしようとするのですが、なかなか許してもらえない。そのために、昼間はまじめなサラリーマン、夜はギンギンのヤクザという二重生活を余儀なくされてしまうという。そのころの写真を見せてもらいましたけど、聞いている人たち、爆笑でした。どんな感じかというと、わたしの10年前の写真*1と今の写真を並べて「昼と夜の顔です」というのの2倍以上のインパクトがあります(笑)。
そこからは、父親の死→更正→子どもたちのために働きはじめるという話になっていきます。このあたりは、う〜ん、ゴメンやけど、たんなるサクセスストーリーになってしまうんだな、これが…。「父親の死」が本人にすごくインパクトを与えたのはよくわかるし、「荒れ」からの脱出の糸口みたいなものがあるのはあるんだけど…。「結局特殊な事情だよな」みたいな感じになってしまう。
と、ここまで書いてふと我が身を振り返るわけです。自分とどの程度違うのだろう。わたしの話って、下手をすると*2サクセスストーリーととらえかねられない内容になりがちかな*3?でも、それが「いつきだから」ですんでしまったら、結局何も残らない。個人の体験に、いかにして普遍性を持たせるかということは、とても難しいけど、それをしないと「語る」意味がない。そんなことを感じさせられました。

*1:はじめての人のために

*2:下手をしなくても。つーか、話が下手やし(笑)

*3:ぜんぜんサクセスでもなんでもなくて、たんなる「クズ」のストーリーなのですが、実際は。

いずみちゃんとの話を思い出して

朝っぱらから4トロ2次会読んでました。「あぁ、そうか…」と思った言葉を転載。

長いあいだ我々を巻き込んで機能しているこの「社会」は過去のいろんな問題を抱えたまま、我々の意識までも支配しているところがある。男女差別やジェンダーの問題がそれなわけで、他にも沢山の差別や偏見の意識が常に我々に向かって「デンパ」となって押し寄せて来ている。この社会に住み続けるかぎり、こういう差別意識は我々の「無意識」に働きかけている。寝ても覚めても食事中でもテレビを観ててもいつも我々を「洗脳」している。

「左翼の原点」に戻りましょう。「左翼」とは他人の事を「思いやる」、平等を目指す運動です。だから差別・偏見・抑圧に満ちているこの社会を変革しようとするわけです。我々は「被抑圧者」であると同時に様々な面では「抑圧者」側にもいる。常にそれを誘いかける「洗脳デンパ」の充満する社会に埋没し洗脳されたまま「考えないでいる」方が「ラク」だと思います。しかしそれは「自由」から遠ざかる事でもある、と思う。

大切なことは、常に「自分は自分を変える力をもっている」と考え、それを実践することなんじゃないかなぁ。でも、それを実践するためには、根元的に自分への「愛」を持ちながら、常に批判的に自分をとらえ続けることが必要なんじゃないだろうか。

とりあえず原典にあたった

仕事の帰りにコンビニによって、件の「週間モーニング」を買いました。で、コンビニチェックをしたら、20代ブルー(笑)。そうかい、そうかい。
で、読んでみました。

で、感想。「折れない心」はいいなぁ…。あ、違うか^^;;。

なんというか…。「浅い」というのが第1印象。で、ういん太さんのコメントを読んで、かなり納得しました。この主人公、理解を求めようとしているわりに、理解を求めるための行動をぜんぜんしているように思えない。ひたすら「なんでわかってくれないんだ」という感じ。
いや、もちろん存在を否定されたことに対して、「存在しているんだ!」という主張はありだと思うし、そこに理由が必要であるとは、原則的には思いません。でも、戦略としてそれではアカンだろうと思います。でなければ、現実のトランス当事者が、紆余曲折を積み重ね、頭をぶつけ、さまざまな妥協をしながら生きている現実ってなんなんだろうと思うわけです。
あと、妙な違和感を感じたことについて、Anno Job Logを読んで、これもなるほどと思いました。てか、あのセックスにかかわる質問を読んで思い出したのは、たしか第6回のGID研究会で会場から出た質問*1と似ているなぁと。で、中島さん*2だったかが「そんなこと聞かれたんですか!」と憤っておられたような記憶があるのですが…。もちろん、必要に応じて聞くこともあるんでしょうけど、それはあくまでも「必要に応じて」でしかない。
あと、パートナーの同意にかかわることについても、なんだかなぁ…。わたしの事例で言うならば、ホルモン投与へのパートナーの反対に対して、中島さんが言われたことは「お二人で航海図のようなものをつくることが大切ですね」でした*3。そういうていねいさがぜんぜんないです。どちらかというと、「金八」の最終回に金八が言った「直はこれからホルモンをやり手術を受ける」という言葉に似ているかなぁ。あのとき「それはおまえが言うことじゃない!直が言うことだ!」と憤ったことを思い出しました。すんごく乱暴だし、今後どうするかということを本人を飛び越してパートナーに言うことって、アウティングに近い話だと思います。
総じて感じたことは、「結局ネタなんや」ということ。
もちろん、わたしみたいに「人生はネタ」と思っている人間には「だから?」程度ですむし、無視もできます。でも、そうじゃない人もいる。それが、うちの日記へのういん太さんのコメント*4なんだと思います。興味はそこかぃ!みたいな。

で、難しいなと思ったことは、このあたりのことを「抗議」なり「問題提起」なりで出すことって出版社へのインパクトになるんだろうか、ということでしょうか。

*1:精神科医から体位を聞かれたが、そのような質問は必要なのか」みたいなものだったと思うのですが…

*2:もちろん、県立岡山病院院長

*3:実は、第8回GID研究会のイブニングセミナー2で講師の方のプレゼンテーションの「(ピラミッドではなく)Voyage!」というのを見て、密かに感動していました

*4:自分の下半身が具体的にどういう状態になっているかなんて知られたくはない事なのですよ。