黒潮町の方に中村まで送っていただき、汽車に乗ります。太平洋の横を通り、大歩危・小歩危を通り、瀬戸大橋を通り、本州へ。そこはわたしにとってのいくつめかのふるさと・岡山*1です。
で、今回も岡山では降りず、K本さん@長崎やK久保さん@高知なんかがいるであろう神戸にも降りず、日之出でも降りず、ようやく京都に帰ってきました。
空を見上げると、すでに秋の雲。さぁ、あしたから日常がはじまる。
カテゴリー: 日常
たくらみ成功!
完全off!
朝、ひと遊びしようかと思ったけど、身体が動きませんでした。で、2度寝。目が覚めると9時半でした。まぁ、この夏の間こんなことをしたい日はなんぼでもあったけど、こんなことができた日はほとんどなかったし^^;;。
ノロノロと起き出すと、すでにパートナーと下の子どもはバタバタしています。なんでも、今日〜明日、地元の少補のキャンプだとか。で、わたしはのんびりテレビを見る、と。
と、いきなりパートナーが「買い出し!」とか言って出ていきました。って、そんなん昼ご飯どうするの?君たちの集合時間、もうすぐよ?
てことで、チャーハンをつくってみたりします。
出がけに
「洗濯物、入れておいてね」「犬の散歩、お願いね」「あ!みょうが洗うの、忘れてた!」
まったく忙しい人です。まぁ、時間はたっぷりあるからゆっくりやりましょう。
おかん?
犬の散歩に行った時、ひとつの看板にくぎづけになりました。
「おかんに注意?」
よくみると
「ちかんに注意」
でした。
やれやれ…。
終日お家ですごす
朝、朦朧としながら起きました。
そうこうするうちにパートナーが起きてきて、いきなり部屋の整理をはじめました。体はかなりしんどいけど、部屋の整理をするパートナーを横にしてダラダラできるわけがないわけで、つられて部屋の整理をするハメになってしまいました。ふぅ…。
ふだんのおこないが悪いのか?
つかの間の休日
さぁ、今日は後は何もない。
お風呂に入って、ビールを呑んで、「行ってQ」でも見て寝ることにしますか。
考察・御苑通りと関西の話
フィールドワークが終わってから水道橋へもどり、三橋さんと居酒屋で軽くビールを呑みながらよもやま話をします。
なかでも、強烈だったことがふたつありました。
- 御苑通り
ひとつは「境界線の移動」の話です。
そもそも新宿がなぜ「つくられた街」になり得たかというと、4丁目と2丁目の歴史に起因するように思いました。
4丁目はもともとは天竜寺の寺社町として発展しますが、その後「木賃宿」の指定地として貧民窟へと変化していきます。また、2丁目はもともとは赤線地帯です。こうした街は、ともに行政による強制的な介入がしやすい街になります。
で、御苑通りですが、これはもともとの2丁目の中に後からつくられた通りです。この道ができたために、本来末広亭のあたりにあった2丁目の境界が御苑通りに移動してしまったようです。
では、なぜ新たに境界を引き直したのか。
そこに、なんとなく「2丁目を分断しようとする意図」を感じてしまったのですが…。実は、三橋さんがつくられたコース図には商業ビルを色わけがしてあります。これが御苑通りを境目にしてはっきりと密度が違います。「土地価格に差はありそうですか?」という質問をしてみたのですが、「はっきりとはわからないけど、おそらくは違うだろう」という答えでした。
それ以上の結論があるかというと、実はないのですが、新宿駅から続く3丁目の雰囲気と御苑通りの向こう側のそれとは、単にゲイタウンであるというだけではない、「違い」を感じてしまいます。あたかも御苑通りの「向こう側」へと「性の街」を追いやったかのような気がしたのですが…
- 関西の話
もうひとつ驚いたのは、男娼の組織化の時期の話でした。
三橋さんの言われるところによると、男娼の組織化は「明らかに関西の方が早い」ということです。組織化された場所は釜ヶ崎。当時は、美輪明宏さんもカルーセル麻紀さんも、釜ヶ崎の「元締め」のところにあいさつに行かなければ興業ができなかったとか。で、それを証拠づけるのが「記念撮影」とのことです。
たしかに記念撮影ができるということは、それだけのグループがあり、それが一定の秩序の元に動いていたということです。それは水平社運動にかかわる史料で記念撮影の写真がよく使われることにもあらわれます。
釜ヶ崎と言えば、その隣には飛田新地があり、反対側には西成〜浪速と続く部落があります。まさに、大阪における最大のアジールです。
ところで、三橋さんの「公式の人権」のとらえ方への批判点は、こうしたアジールへの評価のあり方にあらわれます。
具体的には、例えばリバティ大阪の展示では、釜ヶ崎は「労働者の街」としてはとらえられていますが、男娼の街としてはとらえられていない。あるいは「女性の人権」の中で飛田新地はあらわれてこない。これらの街は浪速のほんの目と鼻の先にあるにもかかわらずです。
こうした方針は、たとえば女性やセクシュアルマイノリティの展示内容が、80年あるいは90年以降のみであるところにもあらわれるとされます。まさに「公的に認められた*1運動史」としてしかとらえられていない。
そこに「性」を直視できない「人権」のありようがあるのかなとふと思いました。
*1:あるいはその直前からの
これが日常なんだよな
朝
お弁当を持って出勤。職場についてメールチェックを一通りすませ、書類作成。その後、肉体労働。外回りをする。
昼
パソコンに向かいワーク。上司から「◯◯、検討しておいて」と頼まれる。方法が思いつかない。
ふと原稿を抱えていることの気づく。M村さん@奈良にメール。
I「〆切いつでしたっけ?」
M「月末ですよ。原稿出してすっきりした体で広島に行きましょう」
I「やばいです。一文字も書いていません。ネタも思いつきません」
M「わたしもです」
I「o(^-^)o」
安心した。←違
生徒が放送関係で相談に来る。めんどくさいので一緒に作業。「とろけそう」とかいう女子高生のセリフを録音しているけど、終わった後でみんなで笑う。
突然S井さんから写真付きのメール。
「新大阪で、偶然Oさんと会いました」
気がついたら呑み会の話に発展している。なんでだろう…。
放送室に行くと、生徒達はUNOをやっている。
「忙しいところすまんけど、今度の合宿のな…」
まぁそんなもんだ。
帰り道にビールを買う。もちろん◯ビス。財布がドッと軽くなる。さらに帰り道出張のチケットを受けとる。もちろん◯ーカイだけど。
夜
ご飯を食べて、パートナーと一緒に後かたづけ。
下の子どもと一緒に「123」を見る。眠くなったので睡眠。
これが日常なんだと思う。やっぱり…。