この日に約束した西成高校とうちの「若手教員の合同の研修会&宴会をしよう」が、今日実現しました。
とりあえず、午後からみんなで「聖地・西成高校」へ。みんなで
「ここが西成高校かぁ」
としばし感慨にひたります。でも、迎え撃ってくださったH下さんは
「なんもないしなぁ」
とええ感じの脱力感です。結局、校内をひとまわりして校長室へ。現在の校長はこの時の講師の方です。この方も、ええ感じの脱力感で、しばし西成高校の歴史について話。
「昔はうちの学校には3つの派閥があって、あるところがひきまわしをしてなぁ」
「それって、◯国委員会ですか」
「そうや」
もう、他の教員にはさっぱりわからないだろう話ですね。
「校長の写真の下見たらわかるけど、任期のおわりが3月ちゃうねん」
「なんでですのん?」
「まぁもたへんかったんやな(笑)」
あまりにもすごいです!
その後、西成のフィールドワークへ。案内してくださったのは、釜ヶ崎支援機構の方です。
労働センターからスタートして、支援機構の建物やシェルターを次々にまわります。
わたしは大学生の頃、釜ヶ崎で夜まわりのボランティアなんかをしたことがあったのですが、なんか、明らかに高齢化しています。てか、自分も高齢化してるんですけどね(笑)。まぁ言ってみれば、同時に進行しているというか。
ひとまわりして感じたのが、釜ヶ崎の運動って、まさに「生き抜くための闘い」なんですね。それが、比喩なんかじゃなくて、掛け値なしにその通りなんです。もしも運動がなければたくさんの死者が出る。例えばシェルターの中にはカーテンがありません。カーテンに閉ざされてしまうと、その向こう側で例えば吐血をしていてもわからない。プライバシーよりも命が大切という世界。
一方、雇用をつくりだすことも大切な運動。「カマからの脱出」だけをめざすのではなく、「カマで生き抜ける」ということも大切。
なんというか、ひとつの価値観だけじゃなくて、さまざまな「現実的な解」を模索しながらの運動のように思えました。
カテゴリー: フィールドワーク
話し込むことがやっぱり大切なんだ
今日は、人権教育関係の現地研修会。京都市内の某ムラに行きました*1。
まずは、ツラッティ千本を、職員の方に案内してもらいながら見学*2。古地図がすんごくおもしろい!今の場所と比較しながら見るのもおもしろいし、描き方から当時の「中」と「外」の意識がわかるのもおもしろい。あと、屏風絵ですね。中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』だったかに書いてあった気がするけど、網野善彦は屏風絵を見る時は、端っこをたんねんに見ていったとか。たしかにそうやって見ると、周辺部分にさまざまな被差別民が描かれていて、ほんとうに興味が尽きません。
その後、雨の中をフィールドワーク。今回は「まちづくり」というテーマなので、そのあたりに留意しながら歩きます。すると、今まで気がつかなかった、小さな小さなことに気がつきます。
午後からは、まちづくりについての講演と、教育をめぐる課題についての講演。
まちづくりとひとくちで言っても、膨大な時間と労力がかかるんですね。でも、自分(達)が納得できるものをつくりだすためには、その時間と労力を惜しんだらダメ。ましてや、一軒の家を建てるわけじゃなくて、そのことを通して「まち」をつくろうとするわけで、そこにはそれを仕組む側のさまざまな「しかけ」があります。そんな苦労話を聞かせてもらいました。
後者については、部落出身であることを「いつ伝えるか」「いかに伝えるか」「誰が伝えるか」ということが論議になりました。すごいと思ったのは、そういう保護者の悩みをビデオで見せて下さったこと。まず、そういう話ができるところまで話し込み、それを撮影させてもらうところまで話し込み、それを講演で使わせてもらうところまで話し込まないと、きっと実現しません。そんな話込みを通して出てきた映像であるからこそ、ほんとうに考えさせられるんですね。
まちづくりにしても、人づくりにしても、まずは話し込むこと。そんなことを感じさせられた研修会でした。
姫路へフィールドワーク
今年は府立高校の人権教育がらみの役がまわってきて*1、10校ぐらいのグループの「仕切」をしなくちゃなりません。で、2月にはフィールドワークに行くのですが、今年ははじめから決めていました。
まだみなさんが行っていなくて、やっぱそこでしか雰囲気を味わえないとなると、西御着でしょう。
担当なので、資料をつくらなければなりません。前回行った時はなんの予備知識もなかったので、工場見学をしている時は
「いったい、これ、どの工程をしてるねん?」
と思ったし、歴史の話を聞いている時もちんぷんかんぷんでした。
なので、今回はここから歴史や工程について資料を引っ張ってきました。そうそう、講演を聞く時にはある程度土地もわからないと行けませんから、周辺地図とかも必要ですね。まぁそんなこんなを使った簡単な冊子をつくっておきました*2。
で、今日は1時間目の授業を終えて、集合場所へ急ぎます。1時間半ほど後には姫路にいました。
まずは今回もコーディネーターを引き受けてくださった柏葉さんと合流。ファミレスでごはんを食べて、西御着総合センターへ。
前回と同じく、いきなり皮革資料室で全開です。今回は、各学校の人権教育の担当者ばかりで、しかも社会科とか国語科の教員が多いので、みなさん興味津々です質問も活発に出るので、ますます柏葉さんは全開です(笑)。でも、引き出せば引き出すほど、さらに引き出しから出てくるってすごいよなぁ…。
続いて工場見学です。今回も前回と同じ3個所をまわります。わたしは一度見ているのであれですが、はじめてのみなさんは興味津々です。途中、天日で革を干している場所があるのですが、
「写真を撮ったらあかんで」
とのこと。今回は作業中の方がおられるので、そこへの配慮のようです。と言っても、工場の中では
「写真撮ってもええで」
と言っておられるので、きっといろいろ大人の事情があるのでしょう(笑)。
その後、柏葉さんの資料館で講演。
内容的には前回と同じ感じなんですが、やっぱり2度目だと前回わからなかったところがわかったりして、かなりうれしかったです。
ちなみに、今回一番うれしかったのは、柏葉さんが一貫してわたしのことを「いつき先生」と名前で呼んで下さったことかな。もしかしたらやっぱり気に入ってもらえていたのかもしれない。で、今回はなんと柏葉さんお手製の蹴鞠*3をいただいてしまいました。
「これ、誰かにあげるのははじめてやで〜」
とのこと。もう、家宝にいたしますm(_ _)m。その前に生徒に見せるけどね。
研修会
まぁ、趣味というか、仕事というか。
今日の午前中は朴実さんの案内で、東九条のフィールドワークです。
いつものことながら、朴さんの案内と、そこで出てくる話には迫力があります。「そこを知っている人」「経験した人」ならではというか。というか、単に知っている/経験しているだけではなくて、そこから悩み・考え・実践する人の迫力なんでしょうね。そしてけっしてそこにあぐらをかかない。だからこそ、迫力があるんでしょうね。2年ほど前にも聞いたけど、やっぱり新たな発見が多々ありました。
そうだ!「いつきのお散歩」新バージョンはあれでいこう(笑)。
午後は、金光敏さんの講演。
この人、かつて某在日外国人教育研究団体と大げんかした人でして、わたしもビビっていた、と。ところが、いろんなかかわりの中で交流ができて、なんでも
「某在日外国人教育研究団体の中にもええヤツおるやん」
などと言われちゃったみたいです(笑)。
話の内容は、自分自身の生い立ちからスタートをして、現在やっていることの紹介、そこで出会った子どもたちの姿の紹介、そして今考えていることというあたりかな。でも、朴さんと同じで、知っている/経験している/実践している人ならではの迫力を持った話でした。
ちょっとおもしろかったのが、現在の韓流ブーム*1は「短く見積もって260年ぶり」という表現でしたね。つまり、朝鮮通信使以来ということです。なるほどなぁ…。
まぁそのほか、すごく刺激的だったり、ところどころ感謝の内容*2だったりと、いい話でした。
考察・御苑通りと関西の話
フィールドワークが終わってから水道橋へもどり、三橋さんと居酒屋で軽くビールを呑みながらよもやま話をします。
なかでも、強烈だったことがふたつありました。
- 御苑通り
ひとつは「境界線の移動」の話です。
そもそも新宿がなぜ「つくられた街」になり得たかというと、4丁目と2丁目の歴史に起因するように思いました。
4丁目はもともとは天竜寺の寺社町として発展しますが、その後「木賃宿」の指定地として貧民窟へと変化していきます。また、2丁目はもともとは赤線地帯です。こうした街は、ともに行政による強制的な介入がしやすい街になります。
で、御苑通りですが、これはもともとの2丁目の中に後からつくられた通りです。この道ができたために、本来末広亭のあたりにあった2丁目の境界が御苑通りに移動してしまったようです。
では、なぜ新たに境界を引き直したのか。
そこに、なんとなく「2丁目を分断しようとする意図」を感じてしまったのですが…。実は、三橋さんがつくられたコース図には商業ビルを色わけがしてあります。これが御苑通りを境目にしてはっきりと密度が違います。「土地価格に差はありそうですか?」という質問をしてみたのですが、「はっきりとはわからないけど、おそらくは違うだろう」という答えでした。
それ以上の結論があるかというと、実はないのですが、新宿駅から続く3丁目の雰囲気と御苑通りの向こう側のそれとは、単にゲイタウンであるというだけではない、「違い」を感じてしまいます。あたかも御苑通りの「向こう側」へと「性の街」を追いやったかのような気がしたのですが…
- 関西の話
もうひとつ驚いたのは、男娼の組織化の時期の話でした。
三橋さんの言われるところによると、男娼の組織化は「明らかに関西の方が早い」ということです。組織化された場所は釜ヶ崎。当時は、美輪明宏さんもカルーセル麻紀さんも、釜ヶ崎の「元締め」のところにあいさつに行かなければ興業ができなかったとか。で、それを証拠づけるのが「記念撮影」とのことです。
たしかに記念撮影ができるということは、それだけのグループがあり、それが一定の秩序の元に動いていたということです。それは水平社運動にかかわる史料で記念撮影の写真がよく使われることにもあらわれます。
釜ヶ崎と言えば、その隣には飛田新地があり、反対側には西成〜浪速と続く部落があります。まさに、大阪における最大のアジールです。
ところで、三橋さんの「公式の人権」のとらえ方への批判点は、こうしたアジールへの評価のあり方にあらわれます。
具体的には、例えばリバティ大阪の展示では、釜ヶ崎は「労働者の街」としてはとらえられていますが、男娼の街としてはとらえられていない。あるいは「女性の人権」の中で飛田新地はあらわれてこない。これらの街は浪速のほんの目と鼻の先にあるにもかかわらずです。
こうした方針は、たとえば女性やセクシュアルマイノリティの展示内容が、80年あるいは90年以降のみであるところにもあらわれるとされます。まさに「公的に認められた*1運動史」としてしかとらえられていない。
そこに「性」を直視できない「人権」のありようがあるのかなとふと思いました。
*1:あるいはその直前からの
長い散歩
朝、携帯が鳴って目が覚めました。1時間ほど寝坊です。H井さんはまだ寝ておられるみたいです。起こすのもなんだし、なにより前日「勝手に出て行ってください」と言われていたので、お礼も言わず、あわてて水道橋に向かいます*1。
昨日からはじまっている全国キリスト教学校人権教育セミナーへの参加です。今日は中日。メインの日です。わたしは第4分科会「江戸から現代まで、ヘテロセクシュアル、ホモセクシュアル、トランスジェンダーが織りなす新宿の歴史地理」(講師:三橋順子さん)のコーディネーターです。
水道橋からふたたび新宿に向かって移動。東口で三橋さんと待ち合わせです。
このあたりから、急激に体調が悪化しはじめます。地面が波打ってます。やばいです。三橋さんからは
「だからいつも言ってるでしょ」
と、いつものように怒られます。
まずは、東口の前で新宿駅近辺の歴史地理について概説。ここから東中央口方面に移動します。やがて4丁目方面へ。
三橋さんの話を聞きながら新宿の街を歩くと、自分の中で疑問だったさまざまなことが、ひとつひとつ腑に落ちてきます。とにかくすごくおもしろい!コースは4丁目からふたたび追分へ。ここでいったんお昼ご飯。
三橋さんとおそばを食べに行きます。ふだんだったら確実にビールを飲みますが、今日はパス。いかに体調が悪いか、自分でもわかるというものです(笑)。熱い(でも薄い)そば湯を呑んだあたりから、ようやく体調が回復。やれやれ。三橋さんも
「呑んだくれは午後から復活するのよ」
と、これまた正解を述べられます。
午後からのコースは、まずは2丁目方面へ。
と、見つけました!「模索舎」。ここだったんだぁ。三橋さんのひとこと。
「なぁんだ、Duoの隣じゃない」
なんともいえない対照的な2軒です。
で、いよいよゲイタウンへ。まぁ真っ昼間ですからぜんぜんぽくないですが、それでもあちこちにゲイタウンである徴*2があります。2丁目は、通常「御苑通り」で3丁目と区切られるとされます。ところが、かつては末広町通りのあたりまで2丁目があったとか。そのころは2丁目は遊郭で、そこに意図的に御苑通りを通したらしいのです。このあたりの話はあとで…。
ただ、三橋さんの言われるとおり「ドヘテロ」な街が世界でも有数のゲイタウンに、わずか15年ほどで変化していくというのは、やっぱり新宿というきわめて人工的につくられた街のダイナミズムなんでしょうね。あと、ゲイタウンではあるけどビアンタウンではないということ。まぁこれはどこでもそうなんですが…。
コースは2丁目から3丁目(旧2丁目あたり)へ。ここで、かつての遊郭の境界線を見ます。このあたりからがいよいよわたしたちトランスの街がはじまります。噂に聞いた、でも名前しか知らない女装スポットが、次から次へとあらわれます。
そして末広町通りを通って花園神社へ。さぁ、いよいよ聖地・ゴールデン街(笑)です。
と、ある一軒のお店の前で止まられます。鉄平石でできた外観は、まさに「梢」です。素人女装という世界の発祥の地を前にした感激!
そして、コースは歌舞伎町を通ってふたたびゴール地点の東口へ。
全行程4時間にわたるものすごいフィールドワークが終わりました。
御着のフィールドワーク(その3)・子ども会活動の報告
御着は、その街のなりたちから、「隣町」とはちがうみたいです。なので、通う小学校も別。いわゆる「一般」の子どもたちと混じって通うことになる。なので、小学校での在籍率は3%程度だったとか。
そういう状況での子ども会活動にかかわられた教員と、地元で育った方の報告でした。
まぁ、子ども会活動については、法に裏づけられた感じかなぁという…。身もふたもないですが(笑)。に対して、地元出身の方の「学校でももっとやってほしかった」という言葉は、きちんと聞かないといけないと思いました。
で、子ども会活動について聞いていて、なにがすごかったかというと、教員じゃなくて地域の人たちの思いですね。地域の人たちが、ほんとうに子どもたちを大切していた(している)ことが伝わってきます。
そういえば、工場を見学するために地域を歩いていたのですが、違法駐車や放置車両がない。ゴミが落ちてない。改造バイクなんかがとまっていない。ほんとうに落ち着いた静かな町並みです。自分たちの「ムラ」を大切に考えておられることが、そういうところから伝わってきます。
この人たちに囲まれて育つ子どもたちが、今、例えばフィギュアスケートで活躍しておられたり、絵画の世界で活躍しておられたり、あるいは教員として研究者として活躍をしておられるんだなぁと、あらためて思いました。
御着のフィールドワーク(その2)・柏葉さんの話
工場見学がすんだら、柏葉さんの工場跡へ移動。ここで「皮革研究家」の柏葉さんから皮革の歴史と御着の話を聞きます。
- 日本の皮の歴史
皮鞣しの発祥の歴史については、ここにもあるように、3つの説があるそうな。
で、柏葉さんは「朝鮮伝来説」をとっておられるとのこと。
革を鞣すためには、鞣すための薬品が必要。古くはヌカを使っていたとか。で、ヌカができるためには臼が必要。臼の伝来は610年で、そこから革を鞣すのに適した土地を探していく。
まず、革を鞣す場所として、「古志の国」=今の新潟県に行く。ところがダメ。そこで、島根県の出雲市近辺に行く。ちなみに、ここにも「古志」という地名がある。ところが、ダメ。皮革を乾燥させるためには、雨が少なく温暖な場所でないと行けない。で、やってきたのが松ヶ瀬、現在の高木になる。
水につけて塩でもどして脂を加えて乾燥させてを繰り返して鞣すのが、もともとの鞣し方。これが白鞣し。別名姫靼とも言うが「古志靼」とも言う。
みたいなことを言っておられました。よく覚えてないけど(笑)。
- 御着の歴史
で、御着に皮革工場ができたのは、すごく最近とのこと。もともと御着あたりは人が住んでいない場所だったようです。で、隣町がすごく貧困で、明治期になんとか産業を振興させたいとの思いで、高木から皮革職人を招いて白鞣しを教わったとか。ところが、本当のことを教えてくれるはずがない。で、三重の松坂からタンニン鞣しを教わったとのこと。
タンニン鞣しは固いので、靴底に利用できます。折しも日本が積極的に戦争に参加していた(笑)時代だったので、軍隊での利用が多かったとか。その後、タンニン鞣しはたいへんなので、クロム鞣しに移行し、それにふさわしい用途で利益を上げる。さらに、クロム鞣しにパラフィンを入れて防水加工をしたものでりえきをあげるなど、浮き沈みはあるものの、クロム鞣しとタンニン鞣しを使いわけながら皮革の街として発展してきたとのことです。
ただ、かつては「◯◯地域はタンニン鞣し」「◯◯地域はクロム鞣し」という感じで、地域ごとに鞣しの種類が違い、それはそれなりに共存をしていたのが、最近は「もうかる鞣し」にいずれの地域も殺到するという感じで、結局かなりしんどい状況にあるとのことです。
また、老舗の街じゃなくて新しくできた街のため、皮革の街としては立地条件には恵まれていないみたいです。なによりも、水がたいへんなようで、苦労されたみたいです。
- 皮(革)の工芸品
なんでも正倉院の中にある革の袋を見てみたら、「どうもおかしい」と。「「マチ」がない」と。で、いろいろみなさん論議しておられたけど、柏葉さん曰く「キンタマの革でつくった袋やで」とのこと。なるほど。マチはいらんわなぁ(笑)。
正倉院の中には他にも革でつくった箱なんかがあるそうです。これを復元してみたとか。ものすごく丈夫みたいです。小学校なんかに持っていって子どもたちに見せる時、2階から落としてみるそうな。たしかに塗りははげるけど、まったく壊れない。
さらに、革でヘルメットをつくってみたら、これまた強い。
なんでも最近凝っておられるのがヌカの鞣しだそうです。風合いがすごくいいんですね。これでお面をつくると、たしかに黄金色に輝いています。
まぁ、マニアックな皮革研究家です。
そうそう、最後に「これ、なにでできているかわかりますか?」と出されたステッキ。牛の「長いもの」でできているらしいです(笑)。
御着のフィールドワーク(その1)・皮革工場見学
今日は兵庫県の姫路市の御着という場所にある皮革工場のフィールドワークです。ちなみに主催は全国キリスト教学校人権教育研究協議会の関西地区です。
このH市の皮革工場の話は前々から聞いていて、すごく行きたかったので、今回はなんとしてでも参加しようと思っていました。
集合は1時。せっかくなんで、昼前に現地に行って、近くをブラブラしながらお好み焼き屋さんでも探そうと思っていたのですが、乗っていた新快速で急病人が出たため予定が大幅に後ろにずれ込んでしまいました。まぁ病人なんでしかたがないか…。てことで、お好み焼き屋さんを捜すのはあきらめて*1、ラーメン+餃子&飲み物ですますことにしました。
で、地元の総合センターに到着。着くと既に皮革資料室で説明がはじまっています。どないなってんねん。
どうやら案内していただく柏葉さん、すごくサービス精神が豊か*2みたい。なので、じっとしてられなくて、早めに来られた方相手に説明をされていたのかな。だったらちょっと早めに来るんでした。
で、定刻になってフィールドワークスタート。今回は、3つの工場をまわります。
- 鞣し工場
1500万円ぐらいする大きなドラムが全部で7台あります。ドラムは縦回転。まぁ最近はやりの洗濯機と同じですね。この中に、薬品*3と原皮を入れて1昼夜ばかりゆっくりまわしていると毛が抜けてくるとか。これを横で乾燥させて第1段階終了です。
ここでいうならば、「1、ソーキング」「2、フレッシング」「3、脱毛・石灰漬け」あたりなんでしょうか。
ちなみに、原皮はオーストラリアやアメリカから輸入してくるとか。季節は現地の夏がいいらしいです。脂分が少ない・毛が少ない→ダニが少ないというのが重要な要素のようです。
- シェービング工場
ここでは革*4を一定の厚さに削ります。なんでも、ウン千万するイタリア製の機械を導入しておられるとか。よく見ていると、途中まで入れて抜いておられます。全体をいれてしまわないのはなんでかなぁと思っていたのですが、ふと気がつきました。しわができる場所の直前でひいておられます。てことは、おそらく入れる方向を変えることで、しわのできる方向が変わって、すべての面を削ることができるんでしょうね。
ちなみに、削ったカスをグツグツ煮ると「煮革」→「膠」ができるとか。
- タンニング工場
H市の有名どころでは、高木というところがありまして、こちらのほうでは、現在日本でただ一人森本さんという方が、「白鞣し」をされています。で、今回行った御着では、「クロム鞣し」と「タンニン鞣し」が主流ということです。もっとも、柏葉さんのしゃべり口では「タンニン鞣しの方がものがいい」という感じでしたねぇ。
今回見学させていただいた工場では、地面に穴が掘ってあって、水が張ってあります。そこに、イギリスから輸入しているタンニンのドンゴロスが吊ってあります。どうやらこうやってタンニンのしみ出した薬品をつくっているみたい。そこに革をつけていくようです。
ちなみに、3つの工場の中で、ここが一番臭いのきついところでした。
で、タンニングの終わった革は道をはさんだ向かいにある場所で乾燥させます。その後、必要に応じて染色をして、最後にガラス玉で磨いてつや出しをして製品になるとのことです。
いずれの工場も、すごく古い木造の建物で、しかも壁がスリットになっています。これにも意味があるそうな。
タンニンで鞣した革は鉄に反応すると黒くなってしまいます。なので、鉄骨の建物だとまともな製品にならないとか。言われてみると、木造の工場の中を見回してみると、うまく木を組んであり、「釘で支えている」という感じがあまりしません。なるほどなぁ…。
さらに、壁がスリットになっているのは、風通しをよくして革がうまく乾燥するためだとか。なるほどなぁ…。
千葉の人々
7時前、I0さんから電話がかかってきました。
「いつきさん、なんの用事だったっけ?」
「いや、ムラのフィールワークを…」
「いつそんな話をしたっけ」
「いや、1次会の終わりに。覚えてます?」
「あぁ…。あったかなぁ。段取りします」
てことで、今日の半日の行動が決定。
9時頃に、今回のお世話をして下さっている、I3さんと一緒に、近くのムラに向けて出発。
「あの道の向こう側がムラなんです」
「うわぁ!」
マジで、「人間みな兄弟」の冒頭のシーンです*1。
その後、今回案内をして下さるAさんのお家へ。めっちゃきれい!めっちゃ大きい!この家だけを見たら、「どこに差別があるねん」と思われそうですが…。
「この家になるまで、いろんな思いがあったんですよ」
と、自分の生い立ちをいつの間にか語られはじめるAさん。そんな話、いきなり行ったわたしに話して下さるの?というくらいしんどい話を、それでも話して下さいます。
今から考えたら、ものすごく小さな家&劣悪な環境の中で住んでおられた話。でも、まわりがみんな同じようなところで住んでいたから、それが当たり前だと思っていたという話。でも、「なんとか自分の家を持ちたい」という両親の思いで、自分たちで畑を均して、ようやく家を建てた話。やがて、ご自分が結婚されて、ようやく今の家のある場所に移って来られた話。そんなこんなの話をしながら、言われたひとこと。
「この家は、わたしの両親・両親の両親、そういう人たちの思いが詰まった家なんです」
と同時に、こんなことも言われました。
「このあたりの家を見たら、たしかに立派な家があります。でも、ムラの子どもたちの進路を考えると、もしかしたらそうした家を維持することができなくなるかもしれない。わたしが死んだ後、このあたりはもしかしたら、また昔みたいにボロボロの家が並ぶところになるのかもしれない」
そうなんだよなぁ。だからこそ、「同和教育の総和は進路保障である」なんだよなぁ。
やがて、I3さんに電話がかかってきます。「みんな待ってるらしいです」。どうやら、だれかのお家の庭でみんなで集会をしておられるそうな。ムラの中をブラブラ歩いていくと、いますいます。庭でたむろしながら缶チューハイを飲んでいる人々。
ムラを一回りした後、さっそくわたしたちもまぜてもらいます。まずは、「これ食べ」。ゆでピーナッツ!うまい!これ、抜きたてのものを塩ゆでしたものだそうです。そんなん、関西では食べられませんよ。
しばし、わたしの性別ネタで遊んだ後(笑)、昼ご飯の話に。いや、ムラでは、ごはんを食べたかどうか、ごはんを食べるかどうかは、とっても大切な話なんです。なにせ、あいさつは「メシくうたか?」ですから。
「昼ご飯、新幹線の中で食べようか、東京駅で食べようか、千葉で食べようかと迷っているんです」と、ほとんど「なにか」を期待する答えをすると、きっちり「そしたら食べていき」と期待通りの答えを返して下さいます。やっぱり、ここはムラやなぁ。
あとは、ひたすらみんなが食材探しをして下さいます。
「干し肉あるか?*2」「ない」「あご肉*3あるか?」「こないだ食べた」「セージッカラ*4は?」「ない」「◯◯に電話してみ!」「…ないらしい」
みなさん、マジです。結局関東のムラの食材はなかったみたい。残念!それでも、タケノコを炒めたのとか、キュウリの古漬けとかいろんなものを出して下さいました。そうそう、おそばもおいしかった!
あとは、グダグダと東西ムラネタ対決をしながら、楽しい時間を過ごします。
そうこうするうちに、あっという間に1時。
「そろそろ帰らないと、夕方には家に着かないよ」
と言われました。
「えー…。帰りたくない〜」
とダダをこねながらも、ものすごく重くなった腰を、しぶしぶあげます。
近くの駅まで送ってもらって、あとは寝ながらJRを乗り継いで、6時頃にはお家へ。
今日は実家で晩ご飯なので、パートナーの運転で実家へ。でも、ほとんど食欲はありません。ビールだけ呑んで、ごちそうさま。
家に帰って9時半頃には爆睡です。
そうそう、ぜひとも千葉の皆さん、京都にいらしてくださいね!最高級のもてなし*5をしますから!
って、こんなところ、読んでないか(笑)。