朝からしんどい…

毎日6時起床。そこからFMを鳴らしながら朝のルーティーンがはじまります。それにしても、何年かぶりに「バロックの森」なんざを聞いています。
まずは、やかん2つにお湯を沸かす。一つはお茶、もう一つは朝のコーヒー用です。続いて、豆をミルでひく。これは結婚してから16年間続いています。あとはお弁当づくりです。
今日は、野菜のみそ炒めとゴボウのきんぴら、忘れちゃいけない卵巻き、あとはパックを湯煎したり冷凍食品を揚げたり。子どもの分と2人分つくるのですが、ちょっと量が増えるだけなのであんまりかわらないですね。はじめのうちはとまどいましたが…。
お弁当を詰めるのはパートナーの役割です。そこまでやるなら5時半起きになりそうです。てか、わたしはデザイン感覚が0なもんで(笑)。
ちょうどニュースが始まる頃、朝ご飯。といっても、パンに野菜とハムかなにかをはさんでかぶりつくだけですけど…。朝ご飯は5分で終了。あとは、歯磨きをしたり、着替えたり、薬(笑)を飲んだり…。あ、薬を飲むのはしょっちゅう忘れますけど。
車庫からバイクを引き出して、スタートするのが7時20分くらいですか。職場に着いたら、8時10分くらい。そのころは、かな〜り疲れています。
てことで、今日もダルダルの一日が始まります。やれやれ…。

えらいところで…

デイパを選んでいる一軒目の店で、いきなり電話。この間からの懸案事項についての電話でした。
とりあえず、お店から出て軒下で電話。いきなり「いつきさんは、トランスジェンダーをどう定義するのか?」えらい難しい話ですがな。答は、「性別を越境して生きることを選択した人のこと」でした。と、向こうから「選択、ですね」。「はい、選択です」
このあたりからはじまって、30分ほど話。印象に残っていることを少し書くと…。

  • 「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐって

わたしはあんまり考えていなかったんだけど、電話の相手の人が一言。「あそこから得られるものは、人に生き方を押しつけてはいけない、ということですよね」。思わず、ひざをポン!

ジェンダーを獲得することで自らのジェンダーを確認するのか、ジェンダーを利用して日常生活の中で必要なパスをするのか。なんぼなんでも、日々24時間トランスとして闘い続けるのはあまりにもしんどすぎます。だれも知らないところでは、ふつうに(笑)生きたいなぁと。そういう時に、ジェンダーを利用すると、以外とふつう(笑)に過ごすことができます。まぁ「理論だけでは日常生活は過ごせない」という、堕落した人生を送っております。

たとえば、「女性は尽くすもの」みたいな考えがあったりしますよね。でも、これって、「女性ジェンダー」をはずして考えたら「依存体質」なわけです。「男はガツーン!」って、「男性ジェンダー」をはずして考えたら「サディズム」とか「権力志向」だったりします。問題は、そうした体質・嗜好etcを「女/男」に振りわけてラベリングしたものがジェンダーなんじゃないかなぁと。
わたしには、「依存的」なところや「マゾヒスティック」なところがあるかなぁ。大切なのは、それは「わたしの」特質と考えるか、それをジェンダーと結びつけて「だからわたしは◯◯だ」と考えるかなんじゃないかなぁ。

う〜む。眠くなってきたので、続きはまた、かなぁ。

デイパ選び

バイク通勤の時に困るのがカバンだったりします。いまは、適当なカバンを後ろにくくりつけて通勤しているのですが、ちょっと買い物をするにも、いちいちはずさないといけないんです。これがけっこうめんどくさい。なので、デイパックを買おうかなぁ、と。
ところが、いろいろ考えると、けっこう選考基準がややこしいんです。というのは、

  1. 部屋がふたつある
  2. A4の紙が入る
  3. 背中がしっかりしている(自立してくれる)
  4. 適当にかわいい(笑)

あたりの条件が必要なのですが、なかなかないですね。まぁタウンユースの専門店に行けばそこそこのものがあるんでしょうけど、3番もけっこう大切で、この条件が満たされない可能性が大なんです。結局アウトドアショップを2軒はしごして、まぁまぁ条件を満たすのを探しました。
そんな最中に、一本の電話。

京都市の道路事情

最近雨の日が多いです。朝、雨が降っていると、しゃーないので車で通勤をします。ところが、これがなかなかなんです。というのは、まぁかんたんに言うならば、京都市の市街地をほぼ完全に縦断するのが通勤ルートなんですね。
で、京都市の道路事情で感じたことを数点あげると…。

  • 道が狭い。

たぶん都市計画をした時点では広かったんだろうけど、いまやもう…。しかも、すでに広げられません。まぁひろいなぁと感じられるのは御池通堀川通りだけかなぁ。

  • 右折車線がない

これも「道が狭い」の延長ですが、マジでないです。とくに、東大路。

  • 駐車車両が多い

たぶん店をつくった時点では必要なかったんだろうけど、いまはもう…。しかも、あらたに駐車場を設置するほどの土地はありません。それにしても、コンビニごとに駐車車両があるのはなぁ…。

  • タクシーが多い

まぁ、観光都市ということでしゃーないのかもしれませんね。それにしても、田舎から引っ越してきたわたしにとっては、異様ですわ。

  • 朝から観光バスが走ってる

おそらく配車のためなんでしょうけど、4〜5台でコンボイしていますから。

  • 路線バスが多い

鉄道網がまったくと言っていいほど発達していませんから、いきおい路線バスに頼らざるを得ないんですね。たしかに公共交通機関を使うのがベストかもしれませんが、路線バスを使って通勤したら何時間かかるやら…。てか、着かないし(笑)。

  • バイクが多い

京都は学生の街ですから、当然バイクがたくさん走っています。ただ、原チャが多いので、遅いのなんのって。じゃなければ、ハーレーとかビッグスクーターとか。これがまた場所をとる。

  • 朝から白バイが張っている

ポイントは3箇所。なかでも、「女坂」の出口には4台ほどの白バイがいることがあります。他にも「こんなところ(涙)」みたいなところにいますね。前に、ある下り坂の側道にひっそりと隠れているのをちゃっかり見つけたら、白バイさん、悔しそうな顔をしてこっちを見ていました。

てなことで、京都の街中を走るコツは、駐車車両や右折車両をよけるバスをよけながら、後ろから追い越して前をふさぐバイクをよけながら、左右の死角にいるかもしれない白バイに注意をして、ガシガシ走るという感じでしょうか。あー、ストレスがたまる。

折りあい…

ここに「いつきはGIDトランスジェンダーはどこで、どう折りあいをつけているのか」というメールが来たと書きました。実は、まだ返事が出せていません。ただ、ぼんやり考えていたのことが少しまとまってきたので、忘れないうちにいま書ける範囲で…。
「折りあい」という言葉を聞いたとき、「むずかしいなぁ」と思いました。なんでだろうとずっと考えていたのですが、ようやくわかりました。わたしにとって、「GID」と「トランスジェンダー」は対抗概念ではないんですね。むしろ位相の異なる概念なんです。なので「折りあいをつけている」という感覚が、すごく希薄なんです。
と、ここまで書いて、行き詰まってきたので、続きはまた今度…。はぁ…。

「趣味」って言っても、どこまでが趣味でどこまでが仕事かわからないのがわたしの状態です。でも、まぁ、学校の公務以外はすべて趣味でしょうね。
てなことで、「趣味」の一環でテープ起こしなんぞをやっていました。テーマは「教科書問題」です。上杉聰という人の講演なんですけど、なかなかコンパクトにまとまっていておもしろいです。ただ、内容は「おもしろい」なんてのんびりしたことは言っていられないわけで、現在えげつない状況が進んでいるというのがよくわかりました。
でも、一方で、「いま・ここ」にいる、「わたしたち」がその状況をなんとかしなくちゃならないんですよね。60年の教科書に「いま」を書かれるときの記述が、「2005年は、すでに戦前のまっただなかだった」とならないためにね。

久しぶりのチャンゴ

実は、かれこれ12年ほど前から農楽・サムルノリをウトロのオモニたちと一緒にやっています。かつては、毎週練習をしたりしていたのですが、ウトロのオモニの高齢化とか、状況の変化の中で、最近はめっきり練習もせずに、ほどんど叩かない状態になっています。
ところが、ここ2〜3年、ウトロのお友だちがやっている韓国舞踊のスタジオがちょこちょこと呼ばれて公演活動をしておられて、わたしも「一緒に叩かない?」と誘ってもらいまして、たまぁに叩くようになってきました。で、そんな流れでの、久しぶりの練習。
練習場所に行ったら、半年ぶりくらいの人たちですが、かわらない顔ぶれです。みなさん、プチェチュムなんかの練習をしておられます。じっくり見たら、とても難しいんですね。楽器だと適当に修正が効くんですけど、踊りはそうはいかないんですね。こりゃぁたいへんだ、と。
で、サムルノリの練習。はじめは「プクを叩いて」と言われたので、プク(いわゆる大太鼓)の担当。いやぁ、ストレスの発散にいいです。しかも、なんか韓国から直輸入のすごい楽器みたいで、音がはねるはねる。ノリノリで叩いてしまいました。うるさかったやろなぁ。
次に「チャンゴ叩いて」と言われたので、チャンゴ(鼓みたいな形をしていて、横向けに置くいて叩く)の担当。こちらがたいへんです。チャンゴって、右手(ヨルチェ・竹でできているバチ)と左手(クンチェ・先っちょに丸いのがついた棒)を使いわけるんです。ちなみに、クンチェは左の面を叩いたり右の面を叩いたりかなり忙しいです。パッと見はクンチェが大変そうなんですけど、じつは、ヨルチェがむずかしいんです。さまざまな表情がつくれたり、複雑な音色を出すことができるのはヨルチェなんですが、これがなかなかうまく動かない。完全に冷や汗をかきながら叩いていました。
てなことで、数回叩いたら、腕がすでにダルダルです。でも、気持ちいいというかなつかしいというか。最近在日外国人の子どもたちのつきあいって、新渡日の子どもたちばっかりになってきていて、朝鮮文化とふれる機会がめっきり減っています。でも、自分の原点はここだったんだなぁとあらためて思います。
練習が終わったら、コーヒーを飲みながら「打ちあげどこでやろう」とかのしょーもない話。みんな遊ぶのが好きですわ。そりゃぁ、朝鮮人の女性はいろんな苦労をしてきてるやろうからなぁ…。途中、「温泉に行こう」みたいな話でひとくさり。「でぇ〜」と思っていると、「先生、温泉やったら、ぜったい行きたいやろ!」とツッコミ。「うん、一緒に入ろね!」と返すと、みなさん「わはは」です。のんきな雰囲気でええなぁ。
さてと、あと2週間ほどで本番。ちょっとたたけるように練習しなくちゃ…。

キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

昨日の文章を送ったら、次のような返事が返ってきました。

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で、いつきさんにとってGIDトランスジェンダーはどこで、どう折り合いが付くんでしょうか(ちなみに乱暴なワタシはGIDの診断書こそ持っているものの、これは世間を渡る手形にすぎず、GIDなどそもそも信じていない)。

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ふみゅぅ〜。まぁしばし考えて返事を書こうかなぁ。そいつをまたここに転載する予定です。

「選べない」ことと「選ぶ」こと

 最近、「GIDは先天的な病気(例の脳内シャワー論)」→「逆の性の教育、社会訓練を与えても従わない(ブレンダ)」→「すなわち、そもそもジェンダー(文化、社会的性)なるものは虚妄」→「生得的な性(セックス)による伝統は正しい」という論が、一部ではやっているとか。論理展開にかなーりウルトラC(死語)が入っているような気がするし、ところどころ本の「つまみぐい」をしている(これは、わたしの得意技・笑)気がしますが、「一部」というのが放っておくとろくでもない人たちなようです。で、ある人からコメントを求められたので、ちょっと文章をひねってみました。こんなんです。

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 よく、「被差別」の立場にある人たちが「自分は好きで(こういう環境・身体etc)に生まれたんとちゃう!」と言うことがあります
 この言葉を聞くたびに思うことは「(例えば部落外である/日本人である)わたしも、好きで(部落外に/日本人に)生まれたんとちゃうけどなぁ…」ということです。でも、そう思いながらも、この言葉をはいたとして、先のような主張をする「被差別者」と「つながれる」とは思えないので、たいていは「うんうん」とわかったような顔をして聞くことにしています。
 そんなわたしに、ある部落の人がこんなことを言いました。「自分は部落出身という生まれは選べなかった。でも、部落として生きることは、自分が選んだことだ」。この言葉を聞いたとき、わたしにものすごい衝撃が走ったことを、今でもおぼえています。

 もちろん、例えば「部落に生まれた/生まれなかった」ことによって、「在日に生まれた/生まれなかった」ことによって、生き方が大きく左右されるでしょう。しかし、部落に生まれたからといって、在日に生まれたからといって、みなが同じ生き方をしているでしょうか。あるものは、自分の出自を隠すという生き方をします。しかし、あるものは自分の出自を明らかにしながら、他の人とつながりあっていく生き方を選んでいます。そうしたたくさんの生徒たちと、わたしは出会ってきました。

 わたしは、トランスジェンダーです。しかし、わたしが「生まれながらに」トランスジェンダーであるかどうかについては、とても疑問です。小さいときから、女性の肉体への同一感があったことは確かです。そうした一連の記憶は、DSMなりICDの診断基準を満たしているらしく、わたしには「性同一性障害」という「病名」をつけられています。しかし、時として恐ろしくなります。それは、「ほんとうに自分はそうなんだろうか」という、後もどりできないことへの恐怖です。
 しかし、いま、わたしはトランスジェンダー「として」生きています。この生き方は、「選んだ」生き方です。先の部落出身の人の言葉を借りるならば、「わたしは性同一性障害に生まれた(眉唾・笑)ことは選べなかった。でも、トランスジェンダーとして生きることは、わたしが選んだことだ」ということになります。

 すべてを「生まれ」のせいにすると、とても楽です。なにしろ、自分の生きざまの中で出会うすべてのことについて、自分には責任がなく、すべては「生まれ」のせいにできるからです。しかし、この生きざまは「自分で選んだ」とすると、その結果起きることすべては、わたしに責任があります。だからこそ、どう生きていくか、真剣に考え、真剣に悩みます。そして、その結果に喜びがあります。

 「生まれによってすべてが定まる」という価値観は、あまりにも短絡的で、あまりにも無責任すぎるのではないでしょうか。
 たしかに、わたしは「男性の身体に/性同一性障害として/日本人として/部落外として/経済的に恵まれた家庭にetc」生まれました。しかし、いま、自分が生きている生き方は、さまざまな紆余曲折を経て、自分自身で選んできました。もちろん、そこには自分の生得的な属性によるさまざまなバイアスがあるであろうことは、容易に想像できます。しかし、そうしたバイアスがあるかどうかについては、「女性の身体に/性同一性障害ではなく/在日として/部落として/経済的にしんどい家庭にetc」生まれた人たちとの出会いの中で、少しずつそれがバイアスによるものであることを確認してきました。そして同時に、世界に一人だけの「わたし」という存在がここにいることを、やはり確認します。そういう自分を、いまようやく「ちょっとはええヤツかな」と思えるようになってきました。

 「生まれは選べない。でも、生き方は選ぶこと」。ここからスタートするとき、おそらくそんな他者と「つながる」第一歩が踏み出せるのではないかと思います。

***

 う〜ん、たいした文章じゃないなぁ。やっぱ50分で考えて(試験監督中・ヒマだし、内職ができない。なので、なにかを考えてしまう時間なんです)+30分(具体的に文字をひねり出している時間)では、ダメダメですね。はぁ…。

急ごしらえの晩ご飯

 家に帰ったら、パートナーは「犬の散歩に行かなくっちゃ!」と出て行きました。その時すでに6時半。てことは、私が晩ご飯をつくらなければ食べるのは8時だな(ちょっとオーバー)と思ったので、とりあえず晩ご飯づくりです。
 なんでも、予定としてはとり肉のハーブ煮込みをしたかったようなので、わたし流で。
 まずは、とり肉にスパイシー系の塩と粗挽きのこしょうをかけて混ぜます。一方で、にんじん・タマネギ・ジャガイモ・パセリ・セロリを切っておきます。ニンニクとベイリーフ、タイムもあるといいですね。
 まずとり肉をオリーブオイルで炒めて、焼き色をつけます。そこに野菜とかなんとかをドババと入れて、白ワインをドババと入れて、ふたをして20分。完成です。
 待っている間にサラダ。キャベセン・にんじんの千切り・スライスオニオン・パセリのみじん切りにスパイス系の塩と粗挽きのこしょうを少々、ワインビネガーとオリーブオイルをちょろっと入れてあえます。皿に盛りつけて、スライスしたトマトをあしらったら完成。
 盛りつけてみると、けっこうスープが出ています。ジャガイモのでんぷんがスープに混じって、なかなかグッドでした。