読書感想文・再び考えた

とある事情があるので、お風呂の中でこの日に書いた読書感想文のことを反芻していました。
前回書いた時は「「共依存関係に裏打ちされたDVのストーリー」と乱暴なことを書き、さらにその共依存の根底に「当事者至上主義」があると、これまた乱暴なことを書いていたんですが…。なにか自分の中で「足りない」とずっと思っていたんです。で、お風呂の中で「あ!そうか!」と突然気がつきました。
あの本の中の登場人物は、ほとんどの人はドラマはあるにしろ、「変化」をしないんです。ところが、唯一「変化」をし続ける人がいる。それは「今日子」です。
はじめは「シングル女性のトップランナー」、そして「ハジメの妻」、そして「母」
この変化は同時に、「非当事者」→「当事者の随伴者」→「当事者の肉親*1」という変遷をも意味します。まさに、「女性は相手によって立場を変える」ということを地でいっているわけです。
こうした「変化」のことを、「変幻自在でうらやましい」と思っていた時期が、わたしにはありました。だって、永遠に立つことのないはずの「当事者」に、結婚し出産することによってやすやすと*2立てるわけです。さらにそこに「当事者の特権」なんかが付随した日には、「どないやねん!」という気になるわけです。
ちなみに、こういうことは、「被差別の当事者」だけじゃなくて、「社長夫人」とか「皇后(笑)」とか、まぁいろんなところにあるわけです。もちろんこれは、「女性の主体性」というものと引き換えになっているわけですが、逆に言えば引き換えにすれば、こういう「変幻自在さ」を手に入れられる。
で、さらにいうと、「引き換えにしない人生」を選択すると、「変幻自在さ」を得られないばかりではなく、「変幻自在さを選択した女性間のヒエラルキー」のさらに低位におかれることもまたあるわけです*3

なんだかゴチャゴチャしてきたけど、こういう「変化する(せざるを得ない)女性」というものを、今日子はラストシーンにおいて無批判に引き受けている気がしてならないんですね。いや、批判的に引き受けているのであれば、それはそれでひとつの主張として受けとめられるのですが、あまりにも無批判、いや無意識、さらに言えば肯定的に引き受けているような気がします。

おそらくは、最初に書いた「足りない」という感覚は、そこにあったのではないかというふうに思います。少なくともひとつの差別の現実を描こうと思った小説の根底に、実は他のストーリーが流れている*4あたりに、まさに人権をめぐる運動の「今日」があるのかなぁなどと、えらい風呂敷を広げてしまったりして^^;;

*1:≒当事者

*2:とまで書くと語弊があるか…

*3:知りあいにたくさんいる

*4:有り体に言うならば、他の差別を肯定的に描いてしまっている?

読書感想文・再び考えた” に6件のコメントがあります

  1. コメントしようかどうしようか、すごく迷ったのですが。
    *2について。
    語弊ありすぎだと思います。
    こんなふうに書かれてしまうと、言いたかないけど、
    「MtFとオンナの深い溝」を感じてしまう。
    全体として言わんとすることは分かるだけに、
    注までつけて「やすやすと」と書きたかったのは、なぜ???
    ミソジニー…???

  2. ん〜。
    「やすやすと」と書いたのは、本文中に書いたようなジェンダーがらみにことに「無意識」であり、かつ当事者への強い同一感がある場合、ともすれば起きてしまいがちな話じゃないかと思ったりするからです。
    「深い溝」で言うならば、男性(ジェンダー)であればきっと永遠に越えられないであろう「当事者と非当事者の間の深い溝」を、女性(ジェンダー)は越えることを可能にしてしまう。そこにあるジェンダーに意識的であるか無意識であるかということが書きたかった内容です。なので、「選択しなかった人」の話を、たくさんの知りあいの女性の顔を思い浮かべながら書いたわけです。

    ちなみに、
    > こうした「変化」のことを、「変幻自在でうらやましい」と思っていた時期が、わたしにはありました。
    と、いちおう過去のこととして書いてはあります。

    でも、こういうことを書いてしまうのは、やはり「肉体女性」に対するコンプレックスとか怨念とかがあるんでしょうね。そういう意味では、「MtFとオンナの深い溝」は、わたしの場合にはどうしようもなくあるのです。それをないふりをして生きることも可能なんだけど、やはりあることを意識しながらも、なおつながりを求めたいと思っているのです。
    ミソジニーなぁ…。単純に「ミソジニー」の一言では片づけることができない気がします。もう少し両義性を持った内容なんだと思うんですがねぇ…。

  3. コメントに書いてくれはったことは、分かっているつもりなのです(「あー、あの人なんて、まさにそれ!」って、思い浮かぶ人もいて、このエントリ自体は激しく納得しております)。

    で、じゃあ何にひっかかってるのかなぁ、と考えてみたところ。
    「結婚することによってやすやすと立てるわけです」なら、気にならない。ということで、「出産」に「やすやすと」がついてるところにピンポイントで違和感があることに気づきました。
    自分も含めて、不妊・流産・その他もろもろ、「出産」が「やすやすと」じゃない現実、でも大半の女性にとっては出産は当たり前のことなのでそこにおこる分断、というのがつらいのです。

    >男性(ジェンダー)であればきっと永遠に越えられない
    >女性(ジェンダー)は越えることを可能にしてしまう。

    ということは、「結婚」だけではダメなんですね?
    それって、なんでなんやろ?
    ってか、子ども産んだところで「アンタは当事者ちゃうやろ」って思ってしまうんやけど…。
    (それが分かってない、ってことは、このエントリの趣旨を理解できてないのか…?)

    >なおつながりを求めたい

    ジェンダー・アイデンティティと、自分の身体との折り合いをどうつけるか、みたいなところでは、出産をめぐる言説は「深い溝」を埋めてつながるきっかけにもなりうると思うのですが(「肉体女性」の思い上がりでしょうか…)、
    そこで

    >女性(ジェンダー)

    というていねいな表現をしてはるにもかかわらず、女性性のなかに「出産」をもってこられてしまうと、むしろ「こっちもつながりたいのに、扉を閉ざされた〜」という気分になってしまうのです。

    伝わるでしょうか?
    誤読してたら、ごめんなさい。

  4. なるほど、そこでしたか…。
    たしかに「出産がやすやすじゃない」ということはよくよくわかります。
    わたしが書きたかったのは、「女性」が、「主体者としての女性」という形で存在するのではなく「妻」や「母」となることを要求されているということ。そのことによって立場を変えていく(変えさせられていく)ということ。そこには「主体者としての女性」を認めないこの社会のありようがあるということ。にもかかわらず、無意識に、あるいは無批判に、あるいは積極的にそれを行うことによって、自ら立場を変えることを「望む」女性がいるということ。そして、そういう女性については、社会がその存在を認めるということ。
    と同時に、「主体者としての女性」でありつづけようとすると、そこに強大な圧力がかかり、生きることすら厳しい状況があるということ。
    そういうことが「太郎」の物語の裏側にあるはずなのに、作者はそのことを不問にしたまま、あのストーリーを書いていったのではないかという提起なんです。

    > 女性性のなかに「出産」をもってこられてしまうと
    > 子ども産んだところで「アンタは当事者ちゃうやろ」って思ってしまうんやけど…。

     「わたし」が持ってきているというか、どちらかというと「社会」が要求しているのではないかという感じなのですが…。ちなみに、わたしも「子どもを産んだから当事者」とは思っていません。でも、「太郎」のエンディングはそういうニュアンスがあったように思うのです。そこへの批判ということで本文やコメントを読んでいただけると助かるのですが…。

    > ジェンダー・アイデンティティと、自分の身体との折り合いをどうつけるか、みたいなところでは、出産をめぐる言説は「深い溝」を埋めてつながるきっかけにもなりうると思うのですが(「肉体女性」の思い上がりでしょうか…)、

    なるほど。もしかしたら、そこにひとつの大きな可能性があるかもしれませんね。少し考えさせて下さい。

  5. いつきさんが書いてはることに納得したうえで、も一回、自分がなににひっかかったのかを考えると、「分断」ということなのかなぁ、と。
    >自ら立場を変えることを「望む」女性

    >「主体者としての女性」でありつづけようとする
    女性とを、二項対立的にとらえたくない。
    対立してるのは、その二者ではなく、「女性」と女性にさまざまなことを要求してくる「社会」なのだから。
    もちろん、そんなことはいつきさんもじゅうぶん分かったうえで書いてはるんやと思います。
    が、過去形で語られた「うらやましい」の中に、女性の分断につながる危険なニュアンスを感じて(男性が現在形で書いてたら「おまえが言うなー!」とムカつきます)、それを書いてる「今のいつきさん」は「どの立場から言ってるのー?!」という違和感になったのです。
    だからといって、ストーリー(というか、主人公?著者?)の批判をするな、ということではなくて、批判の趣旨そのものについては賛成なのですが。

    「当事者」と結婚して、運動のリーダーになってる男性、ってのもあちこちで見るのですが、女性の場合と何が違うんやろなぁ。
    最近は、「妻を利用して“介護する献身的な夫”という立場を得た」長門裕之と、美談として発信するメディアに、めっちゃムカつきます。

    「つながる」って、ほんと難しいと思います。
    そもそも匿名で書いてちゃ、つながれませんね。
    リアルでお会いすることがあれば、お詫びとともに名乗り出ますので、お話できるとうれしいです。

  6. たしかに!
    「自ら立場を変えることを「望む」女性」と「「主体者としての女性」でありつづけようとする人」を2項対立的にとらえることはまちがっていますね。指摘されて、すごく納得です。分断をしているのは、社会です。その通りです。一応そういうニュアンスはコメントの中に書いているつもりですが…(下へ続く)。

    > 「今のいつきさん」は「どの立場から言ってるのー?!」

    ただ、「社会が要求」ということを十分理解してはいるのですが、もしかしたら最初のコメントに書かれた「ミソジニー」が、まだまだわたしの中に巣くっているのかなぁ(いや、巣くっているんでしょうね)と、改めて気づかされた気がします。
    でも、そういう「両義性を持つミソジニーを内包したわたし」は、それでもそういう「わたし(MtF一般ではありません)と女性の間にある「深い溝」」を埋めていきたいと思っています。そのことはぜひともわかっていただきたいと思います。

    ちなみに、男性であっても女性であっても、社会の圧力に乗っかって、あるいはそれを利用することで手に入れることができる権力があると思います。でも、「変化」を強いられるのは女性なんじゃないかなぁ。「当事者女性」と結婚して運動のリーダーになっている男性って、はたして「変化」があるのだろうか。そこに、女性と男性の非対称性を見てしまうのですが…。
    う〜ん、よくわからない。

    ぜひぜひ直接お会いしたいですね。いろいろお話ししたいです。

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