ホームを感じた

このあとは、夜までかけてトリプルヘッダーの呑み。
まずは、聞きにきてくれてたお友だちと、ビールを一杯。にしても、このお友だちもその子どもも、ほんとに成長したよなぁ。これでかれこれ1年半くらい?ほんとに変わりました。
苦労すること、その苦労を拒否しないこと、そして考え続けることと動き続けることが、ほんとに人を成長させるんだなと、あらためて思いました。

てことで、「またあとでー」とバイバイ。
で、向かうは鶴橋です。今日は「リンダ祭り」。なんか、カオスになりそうです。
到着したのは開始から1時間くらいしたあたり。あまりにも宴たけなわです。これはついていかねば!
てことで、チューハイと「あらい商店の牛スジカレー」をとりあえずゲットして席に座ります。なんか、Yきみちゃんがダンスやったり、Yすだ浩一さんがスピーチしたり、なんだかすごいです。
と、リンダさんが
チョゴリ着たい人は着てね」
って言ってくださって、少し躊躇したけど、まぁええかと着てみることにしました。
わたしが着させてもらったのは、チェジュの柿染めのものらしくて、すごく落ち着いていて、それでいて着心地がふんわりしたチョゴリでした。なんか、着ているうちに、心の中のまだ残っている氷が溶けていくような気がしました。
トランス前、チョゴリへの思いはとても複雑でした。例えば「チョゴリの卒業式」みたいな話。「チョゴリを身にまとうことの意味」そんなことは、ずっと聞いてきたし、わかってきました。でも、まわりの人が「チョゴリ、きれいー。チョゴリ、かわいい!」って言ってるのを聞いても、どうしてもきれいともかわいいとも思えませんでした。たぶん、ふたつのハードルが、わたしをそういうふうに思わせたんだと思います。ひとつは、日本人というハードル。もうひとつは「自分は女性でない」というハードルです。ほとんどの人にとって、ハードルはひとつなんじゃないかと思います。でも、わたしにはふたつあり、そして例えば時として「日本人女性」が、片方のハードルを越えてチョゴリを着た時、とてもではないけど「きれい」も「かわいい」もない、どちらかと言うと嫉妬に近いものがあったことを思い出します。
そして、そんな心の中の氷は、わたしの中にまだまだたくさんある。でも、今日、生まれてはじめてチョゴリをまともに着て、そんな心の中の氷が溶けていく気がしました。そして、それを溶かしたのは誰か。それは、もちろんリンダさんであり、Bんちゃんであり、いちいち名前をあげるわけではないけど、そのにいた人たちみんなでした。たくさんの人が写真を撮ってくれました。

それどころか、人によってはわざわざツーショットを撮りに来てくれた。
そこには、珍しいものを見たといった感じじゃなくて、純粋に「似合ってる」「一緒に撮ろう」という空気が流れてました。
そして、高原さんというシンガーさんのジャズの演奏の最後は「オーバー・ザ・レインボー」です。あまりにもできすぎです。
Bんちゃんやウトロのオモニたちの「ために」参加したカウンターが、気がつけば自分のホームになっていた。そんな気がして、だからこそ、心の中の氷が溶けていったんだろうなと思いました。
いままで、わたしは「誰かのためのホーム」をつくることを通して、自分のホームを自分自身の力でつくってきました。それは、「わたしのためのホームは誰もつくってくれない」という、ある種の孤独を引き受けるところから来た態度だし、その孤独を引き受けることでたくさんの人とつながってきたし、たくさんのことができた。
でも、今日は「ホーム」をつくってもらえた。あるいは、ホームに迎え入れてもらえた。それがこんなにうれしく心地よいのなら、これからも「誰かのためのホーム」をつくりつづけるのは悪くないな。そんな気持ちにさせてもらいました。

で、二次会は、いつもの茂利屋。相変わらずおいしいです。ここではPょんちゃんとイスをシェア(笑)。こんなのもとっても楽しい。

で、Iたみへ。ここで、お友だちのU子ちゃんと一歩くんたちがギョーザパーリーやってるとか。まぁ、先ほどの空気は去りがたいけど、こちらにも顔を出しましょう。こちらは打って変わって、またーりモード。緩やかな時間が過ぎていきました。

正直に言ってくださること

今日の午前はT槻でお座敷です。大阪医大のお膝元のこの街(笑)で、はたしてうまく話せるのかな。というより、昨日の呑み会の影響で眠いのなんの。
てことで、少々テンション上げ気味で話してしまいました。でも、2時間もらっていたおかげで、ネタもそこそこ入れられたし、それでも10分ほど質疑応答の時間がとれたし。
てことで、質疑応答開始。
最初の方の質問がおもしろかった。
同性婚を認めたら、子どもがほしい同性カップルが出てきて、その同性同士では子どもがつくれないからAIDが必要になる。そうすると、そこでできた子どものアイデンティティが失われる。このようなことは倫理的に問題なので、同性婚を認めてはならないと思うが、いかがお考えか?」
というものでした。
まわりの人はざわついています。まさか、性の多様性みたいなテーマの学習会で反同性婚な意見が出てくるとはね。
さて、どうするかな。

先ほど言ったように、世界がもしも100人の村だったら、現在はそのうち90人にしか結婚する権利が認められてなくて、10人は結婚できない。で、同性婚を認めようと認めまいと、この10人はいます。で、同性婚を認めるってことは、この10人にも結婚する権利を認めるってことです。だから、もとからその権利を持っている人にはなんの影響もありません。
それから、AIDの問題は異性愛カップルにも同様のことがあるので、同性婚とはわけて考えなきゃならないことです。
さらに言うなら、例えば異性愛カップルであっても育児放棄みたいなことが起こっています。例えば同性カップルで子どもがほしいけど結婚という形態がとれないために子育てがしにくいというような状況がある場合、同性婚が認められたら子育てをしやすくなります。つまり、この場合、同性婚を認めるということは「親を増やす」ということになるので、その分だけ社会全体の受け皿が増えることになり、異性愛カップルの負担が軽減されます。
つまり、多様な家族のあり方を認めることは、社会全体がハッピーになるってことなんです。

てなことを話しました。
すると、質問者の方は首をひねっておられましたが、まわりの人はヘッドバンギングしておられました(笑)。
でも、こうやって空気を読むことなく質問をするって、とても大切だよなって思いました。なぜなら、同じ方向向いてる人ばかりが集まっても、学びが少ないからです。わたしも、その質問を受けた時どう返すかはとっさに考えたし、きっとまわりの人も「どう説明したらいい?」って考えた。なぜなら、次に同じ質問をされるのはまわりの人かもしれないからです。そんな中での質問。だからこそ、わたしの返しに「なるほど」と納得してもらえたとしたら、それはとても大切な学びなんだと思います。
もうひとりの質問者も
「自殺させたくない」
って熱い思いが伝わってくる話をされて、それに対して
「自殺を強調しすぎるのもどうかと。もちろんそういう思いを持つ子もいるでしょうが、そうじゃない形で顕在化しない子もいる」
なんて話をしました。そもそも、自殺念慮を誰がつくっているかというと、基本的には社会なわけです。なので、「支援じゃなくて、社会が変わること」が必要なわけです。自殺を強調し過ぎると、「(緊急的な)支援の必要性」に論議が流れる可能性がある。そんなことを話してたら、12時をあっさりオーバーです。
そろそろ終わらなくちゃね。