台本を書く順序

別にわたしは「脚本家」っていうわけでもないし、ましてやフィクションのなにかを書けるような文才はありません。そんなわたしがなぜ台本を書くのかというと、いろんな流れの中で、たまたまそうなったというだけのことなんですね。
ただ、やればやったでおもしろいんですね、これが。なんといっても、自分がやりたいようにできる。これは最大の喜びです。
で、わたしの場合のとっかかりはどこかというと、最初に考えるのはエンディングかな。あるいはオープニング。
とくにオープニングは芝居の流れとなんの関係もない、ひたすら音楽と見栄えだけを追及するので、どうとでもなります。てか、台本書きとは関係ないし。
エンディングについては、真っ先に考えるのが音楽ですね。ふだん家でテレビをボーっと見ている最中に「あ、これ!」と思ったものを使うという感じでしょうか。
で、そのオープニングとエンディングをつなぐように芝居を考える。これがなかなかたいへんなんですよね。

で、昨日の帰り、突然「芝居、こうせえや」という天の声が聞こえました。その声に従って、今日、台本を、まぁだいたいしあげました。最後の詰めは舞台の上でやればいいです。
あとは音探しだな。

やっと9月

なんか8月中は、やっぱり2学期(笑)*1という感じがしません。で、あさってから文化祭。文化祭なんて秋にやるものだと思っていたんですが、就職試験解禁が9月中ごろになって「その前に」とか言い出して、2学期がはじまるのが早くなって「始業式から2週後には」となって、気がついたら9月最初になりました。
こんな時期に暗幕つるした体育館は蒸し風呂です。しかも、ウィルスも飛びまくっているだろうし…。

と、グダグダ書いていますが、今年も「小ネタの神様」が降りてこず、いまだに台本が完成していないんですよね。まぁ9割方できたからよしとするか…。って、本番明々後日なんだけどなぁ…。

*1:(笑)の根拠は、今どき3学期制ということです

台風の報道に違和感を覚える

別にどーでもいいことなんですが…。
台風の報道のテロップに「夏休み最後の日」と書いてあったのですが…。
たしかに昔は9月1日が始業式という学校が多かったですよね。もちろん「秋休み」とか「寒中休み」とかがあって、始業式が9月1日じゃない県もあります(した?)けどね。

にしても、長野とか北海道とか、まぁ寒冷地じゃない都道府県においても、8月いっぱいまで夏休みがある学校って、今、どのくらいあるんだろう…。たぶん半分もないんじゃないかなぁ。

てなことを、「◯道ステーション」でテロップをつくった人は知っているだろうか(笑)。

統計の誤差

選挙会場の入り口で、パートナーが「どこに入れるか迷ってきた」と言ったので、「んじゃ、先入るね」と言って、先に受付をすませました。
で、選挙用紙をもらう紙を見たら「女」に◯(笑)。よく見なくちゃね…。
統計に誤差が出るぞ〜。

選挙会場の出口で、
朝日新聞ですが」
と言って出口アンケートの紙を渡されました。アンケート結果が「自民と民主」だけではおもしろくないから、他の党の回答もと思い、アンケートに答えることにしました。で、調査員の人の手元を見ると、ブルーの紙の束が。で、わたしに渡された紙はピンク。
統計に誤差が出るぞ〜。

ひとりだけかな?

で、負け戦の人も、勝ち戦の人も、いろんなコメントを返していました。
みんな一様に主語としていたのが「国民」でした。そのことに、強い違和感を持つことすらしんどくなるほど、あたりまえに使われていました。
その中で、一人だけその主語を(たぶん)使わなかった人がいました。その人って、「田中康夫」だったんですよね。なんとなく「なるほど」と思ってしまったりして…。

こわい…

いや、わたしは基本的には「反自民」ですから、自民が負けたことそのものはとてもうれしいのですよ。でも、あまりにも民主が勝ちすぎな気がします。
4年前「郵政」の風が吹いて自民・公明が大勝をした。で、今回その反対の風が吹いて民主が大勝をした。

わたしは議会制民主主義というのは、拮抗するふたつ、ないし、いくつかの考え方が、互いに考えをぶつけながら合意を形成し、あるいは妥協をし、「まだマシな方向」へと進んでいくようなものではないかと思っています。
こういうのがいいかどうかはわからないけど、こういうしくみそのものが「まだマシなしくみ」なんだと思います。そういう意味では、前回の総選挙も今回の総選挙も、ひとつ、ないし2つの政党に決定的な力を与えたと言うところでは同じ意味あいを持っているように思います。
それは、「めんどくさいからパシッとやって!」という感じ?もっと簡単に言うならば、独裁者を求めている感じ?議会制民主主義のめんどくささを受けとめられない感じ?
じゃぁ、革命を起こすのかというとそうではない。選挙を通して「誰か」に委ねる。

4年後、民主への逆風が吹いた時、またその風が推すその政党がどんな政党になるのかがこわい。

風にとらわれず、自分の場所から選択をしていく必要があると思うんだけどなぁ…。

大阪は誇りに思っていいと思う

3年連続で最下位?それは誇りに思うべきことだと思います。それほどまでにしんどい家庭や子どもたちを引き受けてきた、その結果だからです。んなもの、3年間でどうにかなるものじゃないです。
ついでにいうと、小学校で成績が上昇していることと中学校で成績が変わらないことも、「当然やなぁ」と思います。しんどい地域であればあるほど、小学校段階での「できる子」は、たいていの場合中学では私学へ行きます。小学校段階で力をつければつけるほど、その傾向は強くなり、成績上位層が大量に私学へ流れていきます。
小学校段階で学力的にクラスを引っぱっていた層がずっぽりと抜けた中学校は、ほんとうにしんどいです。
教室の崩壊を食いとめるかどうかは、実はこの層がどの程度のパーセンテージいるかにもよるように思います。経験的には、「授業なんてどうでもいい」と思っている人数が、教室の3割を超すと、いきなり教室は崩壊する。そんな気がしています。
きちんと調べていないのでよくわかりませんが、秋田と大阪の私立中学校への流出者のパーセンテージを比較するとおもしろい結果が出るんじゃないかなぁと思います。さらには、私立中学校の全国学力テストへの参加率とかね。
でもまぁ、そんなことを考えるまでもなく、わたしの知っている「しんどい学校」と言われる中学校の教員を見る限り、大阪の教員の指導力は全国でもピカイチだと思いますがねぇ。そんな人たちだから、とてもしんどい状況であっても、なんとかなっている。
大阪は最下位であることを誇りに思っていいと、わたしは思います。

テストの意味

わたしはテストには2種類の意味があると思っています。
すごく簡単に言うならば「入り口のテスト」と「出口のテスト」ということになるでしょうか。
「入り口のテスト」は、それを評価の対象にするのではなく、今後の指導の資料とするものです。「出口のテスト」は、まぁいってみれば「到達度」を測るもので、それを評価の対象にする*1ものです。
ところで、全国学力テストって、どっちなんだろう?
本来的には「入り口のテスト」なんじゃないかと思うのですが、実際には、地域・教育委員会・学校・教員の「評価」として使われている気がします。
これ、意味をはき違えている気がするのですが…。

*1:この場合の評価は、必ずしも生徒だけじゃなくて、実は教員自身の(自己)評価にもつながると思いますが

それって対処法か?

朝のニュースで全国学力テストの話がありました。
で、まぁいろいろいろいろあったわけですが、「結果に対する対応」について聞いている時に「へ?」と思ったことがひとつ。
なんでも「研修を充実させる」とのこと。
この手の「対処法」を聞くたびに、「ハイハイ、現場の教員が悪いんですね」と思ってしまいます。
何かおこったら、すぐ「研修」です。
別に自分自身のスキルアップをしたくないわけじゃないです。というか、わたしは研修を受けることについて、拒否をしようとは思っていません。それどころか、「どんな(つまらないと思われる)研修からも学ぶことがある」と、どちらかというと肯定的にとらえている人間です。
でも、それと「対処法が研修」ということとは別です。
「研修」という名のもとに、現場の教員がどれほど子どもたちに投入する時間を奪われていることか。研修だけじゃないですね。さまざまな書類を書くことを要求されて、これまた子どもたちに投入する時間が奪われている。
仮に「よい研修」を「たくさん」受けた教職経験ゼロの人がいるとするならば、その人に一年授業を持たせればわかります。その人が教科指導力があるかというと、必ずしもそうはならないだろうと思います。
きっと、研修「だけ」ではなにも解決しない。にもかかわらず、真っ先に「研修」が出てくる。
なんと安あがりな対処法だろうと思います。