昨日、大阪のH市でちょっと話をしに行きました。
幕間から見ていると、この方が最前列に陣取ったりして、かなり緊張しました*1。
で、いつもの通り、口からでまかせの漫談をして、いちおう1時間半+αの話が終わりました。司会の方が「質問はありませんか?」と言われたのにこたえて、この方が「ハイ」と挙手。それはないっすよ…。
曰く「子どもが大きくなってくると、なかなかいままでみたいにうやむやな感じではいけなくなってきますよね。子どもたちや子どもの学校のPTA、あるいは地域の中でどうされていますか?」という感じの質問。きついところを突いてこられました。
で、わたしの答え。
「わたしはトランス前もトランス中もずっと同じ場所で住んでいました。なので、みんなわたしのことを知っています。そんな中でトランスをしてきた。いま、別の場所に引っ越したけど、やっぱり少しではあれ、いまだに子ども会の手伝いはしに行きます。PTAも自分なりに積極的にかかわりました。上の子どもが6年の時は会長もしました。会長として何ができるか考えたとき、みんなが楽しんでくれるPTAにしたいと思いました。そんなわたしを、みなさんは受けとめてくれていたと思います。結局、大切なのは、男であるか女であるかよりも、こんな言い方はしたくないんだけど、やっぱり人間としてどうあるかということなんじゃないかなと思うのです」。
で、終わった後の飲み会。「この方」は帰られたのですが、若い参加者たちとの見ながら、「人間として」ということをめぐってしばらくやりとりがありました。簡単に言うと、こういうことだと思います。
みんながみんな「人間として」すぐれた生き方ができるとは限らない。でも「人間として」という言い方をしてしまうと、結局「(すべてのトランスに)人間としてすぐれた生き方をしなくちゃならない」と言うことになってしまうのではないか。
まぁ、たしかにそれはそうなんです。ちなみに、わたしが人間としてすぐれた生き方をしているかというと、どっちかというと、人間のクズとして生きているので、吐いたつばが自分にかかってしまうんですけどね。
でもね、トランスであることも、実は「わたし」という人間の一属性でしかないんですよね。だから、そのひとつの属性のみでわたしを測ることはできないんです。「カテゴライズ」を拒否して、「自分」というそのものを他者に差し出そうと思ったら、トータルとしての「わたし」をどうしていくかということにしかならないんじゃないかという気がするんです。
「トランスだからしかたがない」というのは逃げだと思うし、イヤなんですよね。もちろん「トランスだけどがんばっている」というのも違うんです。ただ単に、「トランスであるわたしは◯◯だ」ということなんです。で、この「トランス」には別の言葉*2が入ってもいいんですよ。トランスであることも、その程度のことでしかないというふうに考えていかないといけないんじゃないかということなんです。
そうすると、結局残るのは「人間として」になるんじゃないのかなぁ。