「問うこと」は人間存在であるらしい

きょうの話もめっちゃおもしろかった。
とにかく「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」というテーゼのもとにすべてを考えていこうと。いや、このテーゼそのものを壊してもいいんだけど、あとがたいへんだよと。なぜなら、ぼうだいな作業をしなくまたゃならない。なので、簡単に言うなら「新築ではなく、リフォームで」らしいです。
わかりやすいわぁ(笑)。
ただ、リフォームといっても、そんなに牧歌的なものではなくて、「修理しながら走る潜水艦」みたいなものらしいです*1。なぜか?すでに生きているから。そこに「現実」があるから。
わかりやすいわぁ(笑)。
で、「問いとはなんぞや」と。
すんごく簡単に言うと、「答えより問いのほうが難しいやろ」と。たしかに難しいです。試験問題づくりは(;_;)。さらに「答えがない(かもしれない)問いもあるんとちゃうかな」と。かのデカルトも「コギト、エルゴ、スム」と言ってるやろと。これを言い換えると、「人間とは問う存在である」と。
じゃぁ、もしも「問い」が許されなかったらどうなるか。
ここで犬養毅が登場です。
「話せばわかる」
「問答無用」
なるほど!「問い」のない世界は「無限の自己肯定」の世界で、それは、逆ハンの切れないドリフトみたいなものなんや(笑)。
で、ストンと落ちた話は…。
「良識ある生活と思慮のない生活の区別は?」→「手続きの有無」
思慮や良識は知識の量ではなく手続きであると。
たしかにそうです。手続きとは、結論へ至るために、常に問い続けることですよね。
「なぜ○○をするのか?」
「したいから」
なんていう会話が、なんかそこここで聞かれがちなんですが、その、「問いと答の間」こそが手続きであり、それが「問い」であり、そこに「現実」がある。
ってことらしいです。

いやぁ、おもしろい!

*1:「ノイラートの船」らしい

これも気分転換?

今日も出張です。今日は昨日よりもタイトです。なんせ、会議の開始時間の45分後に授業が終わります(笑)。
てことで、今日は久しぶりにバイクで通勤です。
いやぁ、気持ち(・∀・)イイ!!
でも、この気持ちよさと引き換えに「時間」をとったわけで、それはそれで大きなメリットは感じています。

ところで、放課後の職員会議のあと、なんとなく、ふと「浮気」をしてみようかなと。
いままでスマホIMEはp○boxを使っていたのですが、なんとなくgoogleにしてみようかなと。いや、単語登録ができないのと、マッシュルームに対応していないので、なんとなく「やめとこ」状態だったんですけど、ちょいと入れてみると、いいじゃないですか!単語登録できなくても辞書を鍛えればなんとかなりそうやし、マッシュドアでごまかすこともできそうやし。
ちょいと数日使ってみますが、完全に移行するかもしれません。

会議な一日

今日は午前は会議で出張、午後は会議の会場という日です。
一時間目が終わったら、すぐに電車に飛び乗って出張→会議のつもりでしたが、これがそうはいかないです。やっぱり授業のあとのほんの少しの時間を、生徒や隣のクラスの教科担当と過ごすことが大切だと思います。そこの一言の声かけや、情報交換がこれからの長い1年間に微妙に効いてくる気がするのです。
なので、のんびりした顔で5分をすごして、大急ぎで駅まで走ります。と、目の前を電車が走って行きました(笑)。まぁこんなもんです。せっかくの電車通勤、のんびりいきましょう。
で、午前の会議を無事終えて、またまた電車で職場に帰ります。
それにしても気温が上がってきました。京都市北部の早朝に対応した服では、京都府南部のお昼には暑すぎます。まいったな。
お昼ごはんを食べていると、続々と会議のメンバーが集まってきます。早い、早すぎる!まだご飯の最中ですがな(;_;)
午後からの会議は、まぁ言ってみれば、今年度のメンバーの顔あわせです。でも、けっこう和気あいあいとした感じで過ごしやすい空気がただよっています。うれしいな。
てことで、会議が終わったら、すでに夕方。
う〜ん、自分個人の仕事はなんもできなかった(;_;)。でも、充実してた…かな…。

なごむ…。

今日はおべんきょの日。ガッコがはねたら、速効おべんきょの場所へ向かいます。
で、読書会開始。

教員ひとりと学生8人という、すごく少人数の教室は、とても静かです。でも、沈黙が支配しているわけではありません。どちらかというと、思索があるから静かであるという感じ。そこには、強制も威圧も暴力もありません。ひたすら「本」と、その本の中にある「思想」と向かい合います。そして、互いの感想や意見や疑問に耳を傾け、教員の解説を心待ちにします。

この学びの場に来た瞬間、日常のなかですりきれそうになる心が、ふと和みます。

で、おたふく

で、例によって例のごとく、終了後はおたふくへ。
今回は、先週来たときに予告しておいたので、もう、「すべてがそろってる!」という感じです。詳しくは ここを見ていただくとして、舌が喜んで舞ってましたよ。
話の方は、なかば強制的に(笑)つれてこられたBんちゃんとIずみちゃんのハードなトークにところどころみんながツッコミをいれる感じで、ちょうどいい感じかな。
そんな感じで、総括も無事すんで解散!

少しの無理と、かなりの無理

玖伊屋の夜はバタバタしているので、ほとんど誰とも話をしませんが、朝はふと話をすることがあります。今日もそんな朝でして。
そんななかで考えたこと。
まわりの人にトランスを理解してもらうのって、すごくたいへんなことだと思います。ちなみにたいへんなのは「まわりの人」のほうですけどね。
で、カムアウトする側は、長い長い間我慢をしてきてようやく言うからきちんと伝えようとする。もちろん心の準備もきちんとして、ある程度の覚悟も決めて。ところが、受ける側は「ある日突然」です。
すると、「する側」と「受ける側」のキャパシティには当然のことながら差ができます。てことは、「する側」が「6割くらい」って思っていても、「受ける側」はキャパシティギリギリだったりする可能性があります。ましてや、「する側」が思いの丈をのべてしまうと、それは100パーセント近くになってしまわざるを得ません。となると、当然のことながら「受けとめきれない」となる可能性が高くなります。
これは双方にとって不幸かなと。だって、「する側」も「受ける側」も必死の思いなのに、それがすれ違っているからです。
じゃぁ、それをどう回避するかというと、「する側」が、「受ける側」の6割を見越して話をするしかないです。なぜなら、決定権を持っているのは「する側」だからです。
これ、たぶん「する側」にとっては、すごくフラストレーションがたまることだと思います。でも、そのフラストレーションを抱え込みながら、対話を途切れさせない営みを続けていれば、きっと「する側」と「受ける側」がともに「こんなもんか」と思える地点がくるだろうと思います。
「かなりの無理」は破壊につながるけど、「ちょっとの無理」は創造につながる。そんな気がします。

玖伊屋

夜はカフェ玖伊屋。今日のメニューはなんにしよう…。
まぁ、春だから「葉のもの」ですね。
まずは、春キャベツのクリームパスタ。あとは、春だけに生春巻き。それと、鶏肉の具たくさん味噌汁にひっかり粉を入れたパチもんのひっかり雑炊。あとは、切り干しサラダ。
この切り干しサラダ、かんたんにつくれるけど、すごくおいしいです。
切り干し大根にシーチキンをあえて、あとはレモン汁、塩、こしょう、さとう、おろししょうが、マヨネーズ、ごま油で味を整えます。もちろんこのままたべてもおいしいし、生春巻きの具にしてもいけます。
夜更けには、残ったパスタをニンニク、シーチキン、プッコチで味つけしたものをつくった人がいたらしい。これもなかなかのお味です。
まぁ、そんなもんを食べながらヘラヘラしゃべっているうちに眠くなってきて、台所のろうかに布団を敷いてもぐり込んだところで落ちました。

片づけ

ふと目が覚めると、まだ7時過ぎ。ねむいなとは思ったけど、ここはひとふんばりして部屋のかたづけをしましょうか。
片づけって、はじめのうちはガンガン捨てればいいから楽なんやけど、ある一定のところを過ぎると、捨てていいものやらあかんものやらわからなくなってきます。で、ひとつひとつ確認して、分類して、しかるべきところへ入れていく。ここでスピードががくんと落ちます。で、このあたりでイヤになってくるんですよね。
でもまぁ、ごみ袋ひとつぶんくらい捨てたからええか。

まぁこんなもんか… 

電車通勤も2週間が過ぎました。たしかに朝はしんどいけど、それ以外はなかなかいい感じです。なんといっても、駅から歩いたり自転車に乗ったりするので、心なしかお腹も締まった気がします。たぶん気のせいだけど(笑)
で、もうひとつのメリットは、飲み会があっても急いで帰る必要がないということ。
今日は職場の宴会でしたが、ふつうに電車に乗って、ふつうに行きました。楽やわ~。
宴会は…。
まぁ、あんなもんでしょう。ビールは○ーパー○ライやし(;_;)
そういう意味では2次会のほうがおもしろかったな…。

教育哲学は理論と実践の二項対立ではないらしい

話を聞いていて、なかなかおもしろかったんだけど、考えようによっては「臨床の現場*1」の人って、そう考えるのがあたりまえなんじゃないかなぁと。
例えば、引用文献のなかに
「学校のなかで逸脱行動が見られたとき、それは治療の対象とみなされることが多いように思われる」
みたいな文章が出てきて、思わず
「んー」
ってなりました。
そりゃ、そういう人もいるけど、例えば「非行は宝」という有名な言葉がありますが、まさに「逸脱行動」を「治療の対象」とみなさず、逆にその「行動」を通して、「教育とはなにか」「学校とはなにか」「教えるとはなにか」「教員とはなにか」「生徒とはなにか」ということを問い、それらをつくりかえていく営みは「常に既に*2」あるわけです。
で、たぶんこれって、「教育という臨床の現場」だけではなく、どこにでもある。そんななかで、例えば「SOC7」だって出てきたんじゃないかなということで、この話に行き着くわけです(笑)。

*1:学校についてもこうとらえている人はたくさんいる

*2:(笑)