日常を分析的にフィードバックする

今日のおべんきょは「シェイピング」と「チェイニング」です。
まずは「シェイピング」。
これは、やったことがない行動を身につけさせたり、忘れていた行動を回復させたりする方法です。「少しずつ行動を近づけ」ながら、「特定の行動のみ強化する」。ま、簡単に言うなら、いろんな行動をやらせて、最初は「遠い」けど「まぁ…近いか」みたいなのをとりあえずほめておいて、そのうち段々近いのだけをほめて、特定の身につけさせようとする行動へと誘導していくって感じですか。
で、「チェイニング」は、「ひとつの行動は細かい行動の連鎖で成り立っている」ってことです。逆に言えば、「ある行動ができない」ということはすべてができないのではなく、「あるステップのみ(複数かもしれないけど)」ができないだけであると考える。すると、その行動ができるようにすれば、全体ができるようになる。
で、チェイニングを身に着けさせるための方法として「順行チェイニング」「逆行チェイニング」「全課題提示型」がある。
「順行チェイニング」は、チェイニングの順を追うので、わかりやすいんだけど、結果が遠いので「見通しがたたない子」には厳しい。に対して、「逆行チェイニング」は結果の提示が伴うので、「見通しのたたない子」にも優しい。けど、プログラミングをしないといけない。
で、「全課題提示型」は、普通の授業の感じ。ただ、当然できない子がいるわけで、「プロンプト(口頭のヒント)」や「ガイダンス(身体的な手助け)」を使ってサポートしながら、少しずつサポートを少なくしていく。
で、「チェイニング」の一部ができないときは、「プロンプト→ガイダンス」の順に試していって、それでもダメなときは「シェイピング」で身につけさせる。

なーんてことをやったんですが…。
ほんと、普段の授業やスキーのインストラクションでやっていることそのままなんですよね。
ひとつの問題をいくつかのステップに分析して、それらのどこでつまづくかを予想して、適宜プロンプトを入れて、できない子については一緒に解いて。あとは宿題には解答をつけて、穴埋めにしてみたいな。全課題提示型と逆行チェイニングの混合型。
あるいは、答えは出せるけどどうやって出しているのかわからなかったり、途中のステップが書けない子がいたりもします。そんな子にとって、逆行チェイニングは有用でしょうね。
逆に言うならそういう手間をかけると、定着することが、行動分析の側面から言えるってことですね。
いや、ほんとにおべんきょになりましたよo(^^)o

テキストを身体化する

今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。

で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。

で、わたしの答は「世界の見方」でした。

おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。

こわさ

今日のおべんきょのテーマは先行子操作。簡単に言うと、行動を起こす前の状況を操作することで、結果としての行動をコントロールするということのようです。
これ、すごく簡単なことで、例えば
「禁煙しようと思っているけど、ついタバコに手を出してしまう」
みたいな時に
「タバコを見える範囲から外に出す」「タバコの買い置きをしない」
みたいなことで、少なくともタバコの本数を減らすことができるということです。つまり
「そこにあると手を伸ばしてしまう」
「買いに行くのがめんどくい」
みたいなことになるわけで、こういうのが先行子操作ってことです。
この先行子操作、行動の結果に対するものではないので、あらかじめ準備がしやすくて効果的。というより、「行動」って、ほとんどがこの原理に基づいているわけで、そんなこんなを組み合わせて行動をコントロールすることができると。
話を聞きながら感じたのは…。
行動分析って、すごくおもしろいけど、ある意味すごくこわいです。このこわさをどこで前に感じたかというと、そこでエスノメソドロジーですよ!会話分析。

でも考えてみると「分析する」っていうことそのものが、おもしろさと、その裏返しとしてのこわさを持っているんでしょうね。逆に言うなら、こわいと感じない分析は、分析としてはまだまだなのかな。
そんな気がしました。

新しいメディアはなにをもたらすのか?

わたし、別にメディアについておべんきょしているわけではありません。てか、お友だちの中には専門家もいるから、恥ずかしいわけですが…。ま、おべんきょメモって感じですねφ(..)

とりあえず「教育」を「知の伝達」とする。で、メディアを「伝達のためのツール」と考える。そうすると、例えば「学校という制度そのもの」は、実はメディアととらえることができる。
従来の教育は学校中心で進んできたけど、今、それが大きく変わりつつある。
てなあたりが、おべんきょのネタの問題意識のようです。

なるほど…。
で、センセ曰く。
「(伝達の)道具の変化」は、単なる「ツールの変化」に留まらず、「中身」や「意図」までも変えていく。
それは例えば

・筆と墨…訂正不可→完全な模倣を目指す

・石筆と石板…訂正可能→計算・答えあわせ・一斉テストが可能

・鉛筆とノート…蓄積と持ち運び可能→記憶と定期テスト可能

みたいな。
で、さらなるメディア革命は何をもたらすのか。学校が教育の中心とならない今の社会って?みたいなあたりから論議がはじまったのですが…。

やはり、わたしからの問題提起は「格差の拡大」でした。
おそらく他の「おべんきょ仲間」は「新しいメディアの可能性」みたいなところに目が行くんじゃないかなぁ。というのは、みなさん、若い!だけじゃなくて、「おべんきょ仲間としての均質性」みたいなところがあって、その均質性とはことなる人々のことをあまり知らないんじゃないかと想像できるんですよね。
に対して、わたしは「その新しいメディアへのアプローチの機会」の不平等がおこってしまい、結果的に格差の拡大へとつながるのではないかというふうに考えてしまう。で、念頭にあったのは、その真逆の話としての「教書無償化の闘い」がもたらした格差の縮小だったんですよね。

あと、メディアを「伝達手段」と捉えるなら、結局一番大きな影響力を持つのは「生身の人間」ではないかということ。「均質性」は、結局「つきあう人の多様性のなさ」に一因があるかと。逆に言うなら、「つきあう人の多様性」が担保される集団では「その集団の均質性」は起こりにくい。
で、いかにメディアが多様化しても、結局それがその集団にとっての「タニンゴト」であるとしたら、メディアの多様性を「均質性の損失」として使える集団との格差は広がってしまう。

てことは…。
いかにして「均質性を打破するか」ってことが、格差の拡大に抗うひとつの小さな可能性となりうるかもしれない。その時に、メディアの多様性を無自覚に「よいもの」「便利なもの」「可能性のあるもの」としてしまうと、先にも書いたように、その多様性へのアプローチの機会の不平等により、格差は拡大されてしまう可能性がある。
だからこそ、とりあえず「みんながガッコに来る」という前提で考えるなら、やっぱりわたしは多様なツールを使うのではなく、口先三寸チョーク一本の「ライブとしての授業」にこだわるなぁ…。
てのがオチですか^^;;。

弱化の罠

今日のテーマは「弱化」。「弱化」とは「行動を減らすこと」らしいです。
ものすごく簡単に言うと、下手すると教員のやっていることの大半がこれにあたります。ほんとは「強化(行動を増やすこと)」であるべきなんですけどね(T_T)。
で、これ、不適切な行動を減らす為には必要になることもあるわけなんですが、ただ、「わからずにやる」ことがとてもこわいことがよくわかりました。
行動を減らすためには
1、嫌な刺激を与える
2 、好きなものをとりあげる
のふたつの方法があるわけです。で、こんなの、日常的にあるんですが、これ、罠がありまして…。
この「弱化」を行う側にとって、こういうことをやることそのものが「強化」されがちだってことです。
例えば…。
生徒がうるさい→怒る→静かになる
は生徒にとっては弱化なんですが、逆に教員にとっては
怒る→生徒が静かになる(強化子)→すぐに怒るようなる(怒る行動が強化され
る)
となるんですね。
これ、体罰も同じって言ってました。

人間の行動って、いろんな側面を見なきゃならないし、相対化することも大切だなと。
いやぁ、勉強になりますわo(^^)o

古今出版事情とメディア革命

夜はおべんきょです。自分が相対化されるとても大切な時間です。
今日の話はメディア革命が教育にもたらした変化についてです。
もちろん、「現在」が、まさにメディア革命の時期であることは言うまでもないのですが、実は近世、それも元禄前後もまたメディア革命の時期であったと。で、それは「写本」の時代から「木版」の時代という変化であったと。
ということで、メディア革命がどのような変化をもたらしたかということを、みんなで読んでいる文献では近世について書いてあるわけですが、あえて「現在」の視点で考えてみようという論議が、今日のおべんきょだった気がします。

で、いろんな人の考えを聞き、考え、発言したこと。

  • 聞くこと、話すこと、読むこと、書くこと。連続しているようで、その習熟って、実は不連続なのかな。
  • メディア革命の時代の教育機関の果たす本質的な役割は情報管理なのかも
  • 現在のメディアって、ソースとしてのメディアとツールとしてのメディアがグチャグチャになっているのかな。あ、Lisp(笑)!
  • 「伝える」って、もしかしたら伝えたい内容すべては伝わらなくて、結局は「何かを削る」ってことなのかな(サンプリング定理?)。
  • 扱えるデータ量が増えれば増えるほど削っていることにマヒしてくる。なんとなく、すべて伝わっている気になってしまう(カセットテープは音が悪いから情報を削っていることを実感するけど、mp3って、なまじ音がいいから削っていることに無自覚みたいな)。
  • 結局、「そこで人と人とが会って伝える」ことが、一番正確に近い形で伝えることになるのかな。

そんな「現在」の感覚を持って、メディア革命の起こった近世の状況を想像し、そこで益軒の果たした役割って何だったのかということが、たぶん次のテーマになりそうです。きっと、当時の最先端を走った人々に、驚きと尊敬の念を持ちながら過ごす日々になるかな。
と同時に、「現在」に優位があるとすれば、おべんきょに疲れた身体と頭を、ビールが癒してくれることかなとか思ったり^^;;。

身体と心の関係

今日のおべんきょタイムはコメンテーターとやらをしなくちゃなりません。発表者じゃないのでレジュメを切る必要はないのですが、ペーパーを読み込んで斜め30度くらいから切れ込まなくちゃなりません。まぁ、そういうの得意っちゃぁ得意なんですけどね。

ここにソロバンがあるじゃろ?

( ^ω^) ⊃ソロバン⊂

これを電卓と合わせて…

( ^ω^) ≡⊃⊂≡

( ^ω^) ⊃ソロカル⊂

出来上がりじゃ

1979年にな…
pic.twitter.com/XgHGC57QkH

みたいなことやるのが得意技ですから^^;;。
で、幾多の苦難を乗り越えて、なんとかペーパーを読み切って…。ネタもいくつか仕込んで…。でも、まとまってません。なんか、「曖昧模糊」という言葉がぴったりな感じです。

そのままおべんきょタイムに突入です。
発表者の方、メッチャ頭いいです。ペーパーの内容をスカスカと説明していかれます。メッチャわかりやすい!
内容は、「貝原益軒に見る身体と心の問題」みたいな内容です。
まぁ、センセのもともとの問題意識は、例えば「なぜ学校教育の中に掃除があるのか」とか、「知識と行動が結びつくとはどういうことか」とか、そのあたりみたいで、それを遡ると近世まで行くってことで、益軒についての文章を読んでいるわけです。

読みながら「おもしろいなぁ」と思いました。
朱子学って、幕藩体制の維持のために江戸幕府がすすめたとされているみたいです。で、益軒は朱子学に基づいているとされているわけですが、「理気二元論」を否定して「理気一体論」を唱えていると。で、その根底には「自律された心」への不信感があると。なので、「心」のコントロールに「身体」を使うと。
なんか、このあたりを読んでると、「益軒って、朱子学の体をとりながら、やってることは真逆じゃん」と感じるわけです。
さらに、おそらくは朱子学をすすめる江戸幕府は「心」が「身体」をコントロールするということを、秩序の維持のために利用している。で「理」の優位性を言うことによって、それを絶対的なものとしようとしている。まぁ、「理気二元論」ですから。
で、益軒が言ってることって、そういう「絶対的なもの」への反逆とも言えるのかもしれないなと。ってことは…。「教育を民衆の手にとりもどせ!」ってことか?

まぁ、元禄の頃なんで、たぶん身分制度とか緩みはじめていて、幕府的には倹約令とか出している頃だと思うのです。そういう「上からのおしつけ」に対して「民衆の側から」みたいなものがあったのかなとか。

他にもいろんなことを考えましたね。
箸の上げ下ろしにもうるさい文章を書いているんですが「それって三角食べじゃん(笑)」とか、武士道との関係がどうなっているのかとか。そうそう、「理気一体論」って、「三位一体」みたいだなとか。

妄想はどこまでも広がるわけです。てな、楽しい一時間半を過ごさせてもらいました。
にしても、心精神喜んでるけど、頭の身体は疲れましたo(^^)o

近世出版事情

今日のおべんきょのテーマは…。
うーん^^;;。おもしろくないというか、おもしろいというか。
簡単に言えば、「今も昔も売れない本は出版社はつくりたがらない」ってことと「ベストセラーを書く人は、書きたいことを書く人ではなく、売れる本を書く人」ってことなんですけど。まぁ、わたしがわかったのはそこまでなんですが…。
センセとすごす90分の中で、そこが深まるのがおもしろいです。

  • 江戸幕府にとって、朱子学とはどういういちづけだったんだろう。
  • 益軒は、なぜ朱子学の参考書を書こうと思ったんだろう。
  • 近世の民衆はなぜそんな「朱子学の参考書みたいな本」を買ったんだろう。

そんなこんなを、近世の民衆になった気分で考えると、なんとなく、今も昔も「民衆(もちろん含む、わたし)」って、そんなに変わらない気がしてきます。自分の存在理由を考えたり、でもオリジナルな思考ではわからないときに、なにかに憑依したり。
で、とても大切な提起。

  • 益軒の朱子学の解説本が民衆に行き渡った時に、それが特に教育という側面でなにをもたらしたか?

益軒が書きたかったことと、それを受けとめた読者の思いの間にあるズレ。そのズレがもたらしたことの中に、時代を読む本質があるのかもしれません。
そうそう。
益軒が一番書きたかった本は、とうとう出版されませんでした。
「益軒は、きっと学者になりたかったんでしょうねぇ。同時代の学者たちに憧れたんでしゃうねぇ」
とのセンセの言葉に深くうなづいてしまいました^^;;。

矜と謙・「分」はあるのか

矜…「高慢」な態度、自己を押し出したり肥大化させるあり方
謙…自己を控える態度、忍ぶ、こらえる、つつしむなど
だそうです。でもどうやら原典にあたると矜=ほこりについて、「ほこれば、自ら是として人に求めず。かくのごとくなれば、悪にうつる事きはまりなし」とあります。に対して、謙の根拠となるのは原典ではないのですが「自己の中に自律性の根拠を設定しない」「天地によって生み出されかつ「愛育覆載」され、天地のうちにその一分節としてつながることによって生かされている卑小な存在と自覚された自己の意識にもとづく」とあります。たしかに「自ら是」の対極です。
で、おそらくは「天地のうちにその一分節としてつながる」という発想は「分をわきまえる」というところにつながるのかなと。そんなことを思うのです。
ところで、「分」に「身」がつくと、まさに「身分」であり、近世社会のあり方です。
まぁ、人権の立場からすると「身分制打破!」とか「近代は身分制から解放された社会」となるわけですが…。
でも、最近、なんとなく「そうなんだろうか」と思うところもあるのです。それは「才能」ってヤツにかかわっています。
人は生まれた瞬間、すべての才能を備えて生まれてくるのか、それとも天賦の才能を与えられて生まれてくるのかと、最近なんとなく思っています。
こう書くと、「才能がないヤツははじめからあきらめるしかないのか」となるのですが、ちょいと違います。
才能には「役に立つ/立たない」とか「貴重/どうでもいい」みたいな感覚はありません。すべての「才能」は、価値としてフラットです。そして、「天賦」ですから、親からもらうものではない。つまり「世襲」ではないってことです。
それぞれの独立した個人が、天から与えられたとてもステキな「才能」を持って生まれてくる。
で、その「天賦の才能」を見つけ、磨き、社会に還元する。大切なのは自分のために使わないということ。なぜなら、その才能は「天から与えられたもの」だからです。天から与えられたものは、天のために使い、天に返す。
そして、その自分が与えられた才能を見つけ、磨き、社会に還元することを「分をわきまえる」という。そんな気がするのです。
でも、「分をわきまえる」ことは従順であることとは違います。なぜなら、その「分」を侵されそうになった時、「分」を護るためには闘わなくちゃならないからです。そのために、天賦の才能を研ぎ続けるのです。
ちなみに、他者の「分を侵す」ことを、もしかしたら「矜」というのかな。だからこそ「謙」である。
スタティックな「謙」ではなく、ダイナミックでアクティブな「謙」。
そんなことを、ふと考えます。

ネガティブシンキング?

わたしは基本的には楽観主義者なんですが、ものごとは悲観的にとらえる傾向がありまして、って話ではないです^^;;。
今日のお題に「学校でできる強化子を出せ」というのがありまして。つまり「行動の回数を増やす動機づけとなるもの」ってことですか…。で、グループで考えていたのですが…。
つくづく「ガッコって、ネガティブなんだなぁ」と感じさせられちゃいました。
つまり、「回数を増やす」方向ではなく「回数を減らす」方向へと思考が向くんですね。平たく言うと
「そんなことしちゃいけません!」
みたいな。
だから、そうやって育ってきた高校生が、いざ
「好きなことやってみ?」
って言われても、なかなかできないのは、よくわかります。
逆に言うなら、
「そんなことしちゃいけません!」
と言われずに育ってきた高校生は、トライする力を奪われずに育っているということですか。そういうことがどのあたりで出てくるかというと、クリエイティブな局面であらわになるんですね。例えば、放送コンテストとか生徒会活動とか(笑)。
じゃぁ、今のわたしがなにができるかというと、自分の言葉かけが、回数を増やすことを狙っているのか、回数を減らすことを狙っているのかということを自覚的になることなのかなと。
まぁ、そんなことを考えるひとときでした。